もしも江戸を歩けたなら
「もしもタイムマシンが有ったなら、過去の何時の時代に行きたいか?」
と云う不毛な馬鹿話なら誰しも一度はしてみた事が有るだろう。
例えばメソアメリカ・ユカタン半島にて高度な文明を築くも
謎の消滅を遂げたマヤ文明の最盛期の姿を観てみたいとか、
安定した治世に国際的文化が花開いた大唐帝国の爛熟の都・長安や、
映画や武侠小説で読んだ清代は康熙帝の頃の北京に行ってみたいとか、
現在で云う所の「歴史的名盤」が毎月の様にリリースされていた、
ロックが最も革新的だった60年代末から70年代初頭の英国でライブが観たいとか、
そらもう挙げて行けばキリの無い話に成る所が不毛な話たる所以な訳だが、
不毛ついでに一つに絞れと言われれば、やはり江戸時代後期と言う事に成る。
現在、生活しているこの場所と時を隔てて地続きであり、
その時代の文化を多少なりとも継承して生活して居る訳だが、
なまじ現代と地続きで有るからこそ、その差異に不思議な憧れを覚える。
季節の移ろいを凌駕しようとして感覚を狂わせて来ている現代の人間として、
季節の移ろいを受け入れそれを愛でる術を心得た人達の暮らす街を、
この場所で数百年前に営まれていた暮らしや風景を垣間見てみたいと思うのだ。
今回取り上げる谷口ジローのコミック「ふらり」は、
そんな願いを少し叶えてくれる一冊である。
「ふらり」は日本全国を(当然)歩いて測量して周り、
当時としては非常に正確な日本地図を作成した伊能忠敬をモデルとし、
彼がまだその測量の旅に出る以前の江戸での暮らしを描いた作品だ。
自分の歩く歩幅による距離の測量の正確さを規す為に、
伊能忠敬はくる日もくる日も江戸の市中を歩いて廻っていて、
その際に出会う人々、自然豊かな江戸の風景、様々な江戸の風物、
美味そうな食い物等々、今は無き江戸の日常を作者は描写して行く。
江戸を描いた作品はそれこそ数多く残されているが、
基本はドラマの舞台として江戸を背景にしている物が大多数であり、
この様に起伏の少ない日常を淡々と描いた様な作品は余り多くない。
同傾向で思い出す作品として、個人的にはカオスなジャズ漫画でお馴染み、
一般的には「酒のほそ道」辺りが有名な漫画家ラズウェル細木が描いた、
「大江戸酒道楽」及び「大江戸美味草紙 」のシリーズを思い出す。
長屋暮らしの庶民の、季節と供に有る豊かな暮らしや食生活を、
江戸のうんちくと供に読む愉しさはまた格別な物が有る作品である。
さて、話は「ふらり」に戻って、この作品の画面は中々独特の味わいが有る。
谷口ジローの作品は総てを読んでいる訳ではないのでアレなのだが、
インタビューなどで作者自身もそう答えている様に、
その画風は非常に海外のグラフィック・ノヴェルの影響が強く、
更に言えばメビウス(ジャン・ジロー)やフランソワ・シュイッテン等の、
フランスのバンド・デシネの作家に強い影響を受けた独特の画風を持っている。
彼の現代物の作品を読んでいる時には余り感じなかった要素であるが、
ベタ等のモノクロの陰影を多用した代表的な日本の漫画の画面に比べると、
多数のスクリーン・トーンを使って段階的に付けられた淡い陰影の表現や、
省略する事無く細部まで描き込まれた濃厚な画面の密度も、
長閑な江戸の風景を描く事で、何処か不思議な感触の画面に成っている。
更に言えば自分自身の歩幅でその世界を計ろうと歩く忠敬が、
亀や猫、蜻蛉などの視点と同化して、ミクロの視点から風景を眺め、
それがやがて地球的なマクロの視点へと拡大して行く様が、
彼の思考やその後の行動を反映させていて非常に巧く描かれている。
同時代人として話に登場してくる漂泊の俳人の小林一茶、
そして烏亭焉馬の弟子筋と言う事は若き日の初代・三遊亭圓生か?
と云う様な、もしやすれ違ったかもしれない当時の人々の登場も見所だ。
寝床などでぽつぽつと拾い読みして行くと気持良く眠れそうな一冊である。
最後にこの本を読んで真っ先に思い出した愛読している一冊が、
今は亡き杉浦日向子の「江戸アルキ帖」である。
そもそも何気ない江戸の市井の日常を漫画で描く事に関して、
杉浦日向子は正しくエキスパートであり「百日紅」等数々の名作が有るが、
「江戸アルキ帖」は物語性を廃してただ江戸の街を歩く事に特化した一冊で、
何年の何月何日に江戸の何処其処を歩いたと云う様な絵日記風の作品である。
現代人が江戸の街を垣間見ていると云うバーチャル感も見事だが、
本当にその場に居たかの如き、風の匂いさえ感じられる描写が素晴らしい。
微細に描き込まれた谷口ジローの画とは真逆に、行間の有る表現だからこそ、
どちらも同じ様に江戸の風景や匂いを感じられる作品に成っている。
現代に残るほんの微かな江戸の残り香を求めて散歩に出掛けたくなる一冊だ。
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