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2005.05.29

最近買った紙ジャケ其の6

「最近」の、と云う事で買った紙ジャケの事を書いていたが、
書かれた物だけを買っている訳ではないので、それはそれでネタが溜まってきた。
つまり「最近」の物ではないが書いて置きたいネタを
ちゃちゃっと書いて置こうと思う。
何せまた今月末にドドっと買おうと思ってる奴が出たりするので大変だ。
ってまあ自分で買っといて大変に成っているだけなんだがな・・・

さて英国のサンクチュアリ盤を国内発売したヴィヴッド盤に引き続き、
アルカンジェロから待望の紙ジャケでコロシアムのアルバムが発売された。
英国ジャズロックの古典とも言えるコロシアムはジョン・ハイズマンを中心に、
デイブ・グリーンスレイドやデイブ・クレム・クレムソン、クリス・ファーロウに
デック・ヘクストール・スミス等の名手を配した名門バンドだ。
コロシアム解散後、コロシアムⅡを名乗って活躍した時は、ゲイリー・ムーア、
ニール・マーレイ、ドン・エイリー等のやはり凄腕が結集していたし、
ハイズマンと云う人はそう云う人達を引き付ける独自の磁力が有るのだろう。
コロシアムの演じるジャズロックは非常に解り易い。
時として余りにもストレートなジャズの方へ振り切る、
カンタヴェリー系のバンドに比べると、ノリがかなりロックに近い感じがするのだ。
明解と言い切ると流石に語弊が有るが、ジャズロックと云う言葉から連想する、
若干難解そうなイメージは薄く、純粋に超絶的なプレイが楽しめる。
特に3枚目からクリス・ファーロウの熱苦しい歌唱も加わってその感を強くする。

そう云う訳で内容は保障済みなのだが、今回少々ジャケに問題が有る。
この作品、帯や宣伝文句に(見開きジャケット、特殊ケース付き)と書かれている。
「特殊ケースとはそりゃなんぞや?」と思いつつパックを開けてビックリ!
単に硬質のビニールケースの事なのだ、まあ口の所にスポンジが付いてはいるが。
すりゃ普通のビニールケースやインナースリーブに比べれば特殊では有るけれど、
これは特記するほど特殊な物なんだろうか?
それより更に解せないのが「見開きジャケット」と言われるシロモノ。
例えば通常見開きジャケットと言われる所の袋状になった物ではなく、
単純に二つに折られた厚紙とでも言う様なジャケットなのだ、これが!
そう云ったペラペラな物だから特殊ケースの登場と云うのも良く解るのだ。
なにせ一枚の厚紙なもんで盤を入れる袋の部分が無いからなのだ。
・・・これってあれなんですかね、オリジナルもそう云う仕様なんですかね?
それに準じてわざわざ通常とは違う見開きジャケットに成っているんでしょうか?
オザンナのセカンドの時にオリジナル盤の裏紙の貼り合わせが違うと云う、
言われなければ気付かぬ様な所までわざわざ再現していたアルカンジェロだから、
きっとこれもオリジナルに準じた造りなんだろうと思うがどうなんだろう?

さてもう1枚は以前発売の事を取り上げた、英国フォークロック珠玉の名盤、
シャーリー・コリンズ&アルビオン・カントリー・バンドの「ノー・ローゼス」。
もうとにかく問答無用な歴史的名盤なんで、いつかはCD買おうと思っていて、
それがまあ美麗な紙ジャケで発売されるんなら買わずに居れようかと云う訳だ。
渋い特殊紙で作られた見開きジャケは表に英国的な獅子の装飾像の写真、
裏にトラッド収集家セシル・シャープのこれまた渋いポートレートを置き、
内側には田園を寄り添い歩くシャーリー・コリンズと
アシュレイ・ハッチングス夫妻の姿を納めたアットホームな雰囲気の写真が載る。
豪華な参加メンバーを列記しただけでかなりの行数が稼げそうだが、
まあとにかくその後業界を背負って立つ人達が驚くほど名を連ねている。
所で実はシャーリー・コリンズの歌って余り好きではない。
ライナーにも書かれているがサンディ・デニーやマディ・プライア等に比べると、
どうしても地味と云うか薄味な感じがしてしょうがない。
多分この味が解るとトラッド趣味も一つ突き抜けた所まで行けるのかも知れないが、
まだこの声を「好き」と言える様な状態には成っていない。
その代わり、まるでフェスティバルの様に豪華な演奏者が入れ替わる演奏は、
リラックスした部分もスリリングな部分も含めて非常に面白い。
緑に覆われ朽ち果てたチューダー朝の石造りの建物の合間から漏れ聞える、
牧歌的なだけに何処か引き擦り込まれそうなメロディを思い描いたりする。

さてそろそろ不意に決定していたバンコの70年代後期作品の
紙ジャケ再発物を買いに行こう。
それはそうとBMGから出たイタリア物の第1弾の奴、再発してくれんかなぁ。
今に成って買い逃がしたブツの事で悔やむ日々が続く・・・

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2005.05.26

メディア盛衰記

廃刊した「噂の真相」の連載をまとめた、
藤木TDCの「アダルト・メディア・ランダムノート」を読んだ。
当初AV時評の様なコーナーだったが風俗やピンク映画も含めた、
アダルト・コンテンツを総括する様な内容に成っていった訳だが、
1992年から始まり2004年初頭くらいまで10年以上の業界の俯瞰図は、
懐かしいやら膝を叩くやら考えさせられるわで、非常に面白かった。
業界の情報はそこそこ得ていた物の、左程熱心なAV鑑賞者ではなかったので、
話題作として取り上げられている作品のかなりは未見の作品だったりする。
ただ往々にしてAVのクロニクルを描く場合、当時売れていた女優を中心に
描く事が多いので、監督作品で評価された論評は結構面白い。
なので明らかに一時代を築いた有名な単体女優の作品より、
企画女優を使った特殊な作品が多く取り上げられている。
例えば社長の安達かおるを始め、バクシーシ山下、カンパニー松尾、平野勝之、
等を擁して一時代を築き上げたV&Rプランニングの作品が一番多く、
その他リア王で独自の世界を作り続ける巨匠豊田薫や、
FAプロのヘンリー塚本、伊勢燐太郎や井口昇などコアな名前が並ぶ。
まともに評価される所の少ないこの業界で、作品の質を語りうる事は重要な事だ。
ただし少ない金をやり繰りして実用としてAVを借りている人間には、
これらの評価はさして重要な事では無い。
ネタとして引用される「ビデオ・ザ・ワ-ルド」のベストテンを見ながら、
もう少しそう云う層に歩み寄った評価は出来なかったのかと思ったりもする。
しかしまだ村西とおるのダイアモンド映像が健在だったバブル末期の頃、
毎年晴海で催されていたアダルト業界の見本市は、
豪華な造りのブースにAV嬢を配して非常に盛況だったと関係者は言う。
レンタルビデオと云う形態も含めて80年代末は一番の黄金期だったのだろう。

同様に「映画秘宝」誌でVHSが王座を取ってから、レンタルビデオのブームに、
それに付随するC級からZ級のビデオ作品の大量リリースに海賊版事情、
その周辺のアングラネタ等、メディアの狂奔時代を振り返る懐古企画が載っていて、
正しくそのど真ん中でその辺をうろちょろしていた人間として、
懐かしいやら膝を叩くやら考えさせられるわで、非常に面白かった。
その特集の反響として次号の読者感想欄に「ダンウィッチ」の名前が多く有り、
同じくダンウィッチに通っていた人間としてかなり笑わせてもらった。
どこぞの地方局で放映された吹き替えの入ったテレビ作品をダビングして
それを堂々とレンタルしていた「魔人ドラキュラ」とか、
輸入物で観た「殺人トマトの襲撃」なんかは懐かしく思い出す。
あそこも後々高飛車なホラー作品商売では立ち行かなくなって、
「ホラー&エロス・ダンウィッチ」に看板を変えた時には笑ったなぁ・・・
今でこそ続編が山の様に作られたマスターピースの「エルム街の悪夢」も、
当時は「凄いらしい」と云う話題だけが先行する未公開作品で、
その連載でも触れられていた、字幕の付いた海賊版で観たのが初めてだった。
確か家に有る「デッド・ゾーン」をダビングした奴も海賊版だったと思う。
今やファイル交換ソフト上でで字幕職人が字幕をつけた、
未公開作品がネットに流れていると云うが、昔はそう云う隠微なものだった。

結局一つの文化を振り返る時期と云うのはそれが衰退して行く時期な訳で、
アダルトメディアならVHSからDVD、更にインターネットと移り変わり、
レンタルビデオなら同様にDVD化、コンテンツの変化によるレンタルの衰退など、
慣れ親しんだ一つの文化も様変わりの時期を迎えている訳だ。
十年一昔とは云うがそろそろあの頃を振り返る時期が来ているのかもしれない。

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2005.05.21

寺山修司生誕70周年記念公演「奴婢訓」

寺山曰く「私がこの演劇で描きたい事は(主人の不在)と云う言葉で表される、
今日の世界的な状況である」
ならばその演劇を観る我々が思う事は(寺山の不在)と云う言葉で表される、
今現在日本の芸術の状況なのだろうか?

生前の寺山を知ってはいたが、子供だったせいで意識したのは当然後年の事だ。
多面体な寺山の活動の中で影響は至る所に及んでいる訳だが、
中でも一番影響を受けたのは視覚的な方面だと思う。
邪悪にして土俗的、しかし何処か郷愁も感じさせるそのイメージに衝撃を受けた。
具体的に云えば映画であり「田園に死す」であり「草迷宮」なのだが。
その映画の中のビジュアルは彼の創作した演劇から発した物で有る事を知り、
そして知った頃には既に故人と供に葬られた「天井桟敷」の事を知った訳だ。
既に無く、映像としても殆ど残されていない天井桟敷の演劇は、
残された音源や写真、ポスター等からでしか偲ぶ事が出来なかったが、
知れば知るほどアングラ芝居の真髄として心に刻まれていった。

その天井桟敷の芝居が寺山生誕70周年記念公演として公開されると知って、
何はさて置き駆け付ける事に決めた訳だ。
寺山の芝居の幾つかはリメイクされて公演されているのだが、
今回は初演時同様、J・A・シーザーの演出であり、
蘭妖子やサルバドール・タリと云った元天井桟敷の団員が出演すると云う事で、
(天井桟敷の芝居としての)演劇が観れるのではないかと期待が膨らんだ。

最近出来たらしい、北千住の丸井の中に有る「シアター1010」は、
近代的なかなり大きいハコで、近所に招待券でも配っているのか、
芝居の内容に余り関係無さそうなおばさん連れや老人たちが居て、
椅子の置いてある辺りで下で買ったと思しき弁当を食べていたりして、
なんか変な感じだった。

会場時間が過ぎても演出の関係と云う事で場内に入る事が出来ず、
客入れが始まって中に入ってみれば、予想通り白塗りの役者が既に舞台に居た。
さて、その期待に胸を膨らませて観た「奴婢訓」の舞台なのだが、
観終わって感じたのはやけにすんなりと観れてしまったなぁ・・・と云う感じだ。
勿論人によって感じる所は様々だろうが、やはり聴いていたかつての公演音源、
そして膨らんだイメージから、もっと難解でどろどろした物を予想していた様だ。
帰って色々と資料を読んでみると「奴婢訓」はかなり海外で成功している作品だ。
所謂寺山の過剰な台詞の芝居から動きを中心とした舞踏の様な演劇への転換、
みたいな評価を読んで成るほどと思う所があった。
結局「奴婢訓」は思う所のアングラとしては洗練され過ぎてるのだろう。
まあ普通の人間が見れば充分どろどろしているんだろうけど、
何か妙に解り易いなぁ・・・と感じたのはその洗練の部分による物なのだろう。
結局「身毒丸」辺りがイメージとしてのアングラの頂点と云う所か?
そう云う点で寺山演劇の頂点と言われるのは頷ける作品だった。
と同時にもうちょっとカオティックなアングラを見てみたかったと云う気もする。
まあまだそこまで体験していないと云う楽しみの様な物は有るが・・・

しかし舞台上の異形な総ては、正しく多感な頃に影響された、
あの邪悪で禍々しくそして美しい寺山のビジュアルその物だった。
中でも本や「犬神兄弟写真商会」の写真で見るだけだった小竹信節制作による
異形のオブジェや幻想機械が動いているのを見れたのは感動だった。
冒頭の「聖主人の為の機械」中盤の「コーラスボックス」、「少年礼儀作法機械」や
「乳搾り機」等どれもこれもわくわくさせられる妖しい代物だ。
「阿呆船」の背景にも掛けられていた、舌を出した男のボロボロの垂れ幕は
もしかして当時も使っていた物なのだろうか?
最後の晩餐で横並びに並んだオブジェを纏った役者の姿は最高だった。

そしてそんな役者たちよりも眼を引かれてしょうがなかったのは、
やぐらの下でドラムセットに囲まれて、有る時はベースを操り銅鑼を鳴らし、
テープの背景音に縦横無尽に音を重ねていたJ・A・シーザーの姿だ。
大好きだった「国境巡礼歌」や「身毒丸」に比べると
インダストリアル風の無機的な音が中心だが、時にロック的な部分もあり、
そこに確かにあのシーザーのコブシやメロディが聴けるのだ。
あのシーザーが音を出していると云うだけで何故か感嘆する物が有った。

帰途には大概、連れと感想などを話しながら帰るものなのだが、
その時は中々感想を口にする事が出来なかった。
とにかく思い入れと供にやはり非常に強烈な体験だった様だ。

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2005.05.14

猫の家族

Kazoku01

毎年、春先になると家の裏庭で猫が子供を産む。
単なる野良猫で勝手に来て勝手に産む。
物置の下で産んでそこでしばらく育てている様だ。
かれこれ4年くらい毎年の様にそこで産み育てている。

その事に気が付くのは子猫の鳴き声に気付いた時。
外敵から身を守る為に子猫に鳴かせないよう指導している様だが、
遊びたい盛りの子猫はそんな事にお構い無しに鳴く。
親が餌を獲りに行っている時、物置の下から出てくる事も有る。

産むのは勝手だが、基本的に家は野良猫に餌はやらない主義だ。
なのでどこぞで餌を調達して来て喰わせているらしい。
天気の良い日には調子に乗って一家総出で裏庭に現れる。
去年は色とりどりなのが4匹ほど庭でじゃれあっていた。

まあしかし子猫が一杯そこらで戯れている状況と云うのは、
そらもう筆舌に尽くしがたい可愛らしさで殺したいくらいだ。
また子猫は馬鹿なもんで下らん事に夢中に成って、
我を忘れて植木をひっくり返したりする訳だ。
それがまた凶悪なくらいの愛らしさで憤死しそうになる。

そんなこんなで毎年死ぬ思いをしていたのだが、
今年も子猫の鳴き声は聞こえてきたものの微かに1匹きりで、
その内聞えなくなり裏庭に現れる事も無かった。
いい加減母猫も寄る年波に勝てずに1匹しか産めない様で、
しかもその1匹も外敵に捕食されたか、弱い生まれだったのか、
無事大きくなる事が出来なかったようだ。

まあなんにしろ今年は憤死しないで済みそうだ・・・
が、しかし一抹の寂しさを感じる、天気の良い春の朝。

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2005.05.08

外地探偵小説集「満州篇」

満州と云う幻の国に奇妙な憧れを抱き始めたのはいつ頃だろう?
多分その始まりは夢中で読んだ探偵小説だったと思う。
探偵小説を形成する怪奇や幻想、猟奇と言ったファクターと供に、
自分の中に妖しげな満州国と云うイメージが形成されていったのだと思う。
後に近代史を紐解いて行く上で傀儡国家としての満州の実像を知り、
中国人側から観た満州国の欺瞞に満ちた内実を知る事に成る訳だが、
それでもどうしても、満州に対する奇妙な偏愛は相変わらず在る。

最初に書店でこの本を手に取った時は実に上手い企画だと感心した。
探偵小説のアンソロジーは今までに多様なセレクトでかなりの数が出ているが、
作家や掲載誌による編集が殆どで地域による編集は余り見掛けた事が無い。
実際、収録作品を探査し選り分け選択して行くのは大変な労力だろうが、
「朝鮮篇」「台湾篇」「南洋篇」など思い付いただけでも後これだけ創れそうだ。
次回は魔都「上海篇」を企画している様だが是非無事な刊行を期待したい。

更にこの本は掲載順にも気を配っていて通巻するとその狙いが良く解る。
租借地時代から敗戦後の満州国崩壊後までを舞台にした作品が
時系列順に掲載され、移り変わる状況や世相を窺い知れて面白い。
郡司次郎や島田一男の様に一般に知られた大衆小説作家から、
渡辺啓助や宮野叢子の様な探偵小説ファンには知られた名前の作家まで、
勿論、殆ど無名の経歴不明な作家も含めてバラエティに富んでいる。
余談だが戦前の探偵小説のアンソロジーを読んでいると、作家紹介の部分で、
「経歴不詳、その後作品を発表した形跡はない」と書かれた作家がかなり居る。
探偵小説誌は懸賞小説を募集して新人を募っていた背景が有るので、
懸賞小説に応募して入選したが、その作品一本切りで筆を絶つ場合が有るのだ。
そう云う作家の作品に出会うと曰く非常に奇妙な感慨が湧いてくる。
その後どう生きたか?何故筆を絶ってしまったのかも解らない前時代の人の作品を、
2005年の自分が読んでいる不思議さとでも言おうか?
それがまた非常に好みの、優れた作品だったりすると尚の事感慨深い物が有る。

さて掲載作品の中で中々面白かったのは順に「満州秘事 天然人参譚」、
「満州だより」「カメレオン黄金虫」「黒い旋風」「つるばあ」の5本だろうか。
「~天然人参譚」と「カメレオン黄金虫」の2本は小栗虫太郎の「人外魔境」や
香山滋の折竹シリーズに通じる秘境冒険譚として読める作品だ。
長白山脈の秘境、九龍潭に於ける想像を絶した孤独な戦い、
そして地上の人間の策略を呑み込む壮絶に美しい自然の驚異。
プロットの巧みさと浪漫溢れるクラシカルな展開に酔わされる。
しかし作品より驚いたのは作者、城田シュレーダーに関する奇譚だ。
少し探偵小説を読み込んでいる人間なら目次を観た時に、
「ああ、(決闘)の城戸シュレーダーの作品か?」と思うはずだ。
幾つかのアンソロジーでその特徴的な名前を見掛けた事が有る。
しかし城田シュレーダーと城戸シュレーダーはなんと別人だという。
この話の主役同様、日独混血のシドニー・シュレーダーと云う人物が、
当時実際に居たらしく、そこにかの城戸シュレーダーも関っていると云う。
まあその辺の詳細は巻末の解説を読んで貰うとして、
何とも探偵小説的なエピソードではないだろうか?
(ってこんな事喜んでるのはマニア以外の何者でもないだろうな)
「黒い旋風」に於けるペスト禍を背景としたファム・ファタールと、
孤独な軍医との悲しくも残酷で享楽的な生死模様にも魅了されるが、
敗戦後の引き上げを待つ大連での日本人達、戦勝国たる中国人達、
そして工場を接収した露西亜人達とのやるせなくも淡いつながり、
そして大陸生まれの日本人の故郷喪失感が不思議な犯罪模様を描く、
「つるばあ」には驚くと供に感銘を受けた。
冒頭に掲載されている「競馬会前夜」と比べてみると
なんと云うテーマと人間性洞察の深さの進歩か。
「王道楽土」から「故郷喪失」までこの振幅が満州と云うテーマの深さと言えよう。

カルカソフ佐官の囁いた「つるばあ」と云う言葉の余韻が胸について離れない。

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2005.05.03

阿修羅城の瞳

可能性と幻滅を同時に抱いてしまう様な作品だった。

「劇団☆新感線」の芝居の映画化なので芝居に於いても、と言えるかもしれないが、
考証を無視した漫画的と云うかパラレルワールド的な時代劇の面白さは格別だ。
美術や雰囲気、立ち廻りの面白さをハイスパート化させた独自の感覚は、
日本映画が娯楽のスタイルとしてもっと追及して行っても良い文化だと思うし、
海外のマーケットを考えてみてもかなり有効なスタイルだと思う。
ド派手な衣装やエキゾティズムでさえある舞台や意匠の数々、
そして幕府直轄の鬼退治組織「鬼御門」などの設定は非常に面白い。
流石は本業だけあって、口跡や立ち廻りの美しさは見事な市川染五郎、
エキセントリックな渡部篤郎、妖艶な樋口可南子など良い仕事していた。
「病葉」「邪空」「美惨」等の登場人物の名前も凝っていて面白い。
それだけに色々と有る難点がどうにも残念だ。

同じ監督の「陰陽師Ⅱ」を以前観たのだが、その時にも非常に感じたのが
スケール感の絶対的な小ささだ。
後半が「陰陽師Ⅱ」と良く似たパターンで進行して行くので既視感に襲われた。
絶対悪の出現で江戸の町(陰陽師は京の都)がカタストロフに襲われる訳だが、
その時のスケールの小ささによって、どうにも絶対悪の存在が際立たない。
「あんなに恐れられていたのにその程度の崩壊なんかい!」と云う感じだ。
その際、人間だった宮沢りえは阿修羅に成り、深田恭子はアマテラスへと、
どちらも舞台の中で象徴的で超越的な存在になって戻ってくる訳だが、
話の根幹を無す筈のその象徴的存在がどうにも象徴的に見えないのだ。
結局前半で拡げた風呂敷が後半に成ってスカスカに成ってしまった様な感じだ。

美術は総じて良いと思うのだが、CGと組み合わせた時の薄っぺらさは何とも言えぬ。
CGと言えば「グリーン・ディスティニー」を意識したであろう、
江戸の町屋の上を盗賊が跳梁して行くカット、あれもスケール感が無かった。
「ロード・オブ・ザ・リング」のオークみたいな鬼の造詣も余り感心しない。
ダークサイドの存在と云うと皆ああ云う風に作ってしまっては独自性を感じない。
立ち廻りに関してはもう少し新機軸を打ち出して欲しかった。
小道具を使うなり場所にこだわるなり見せ所をきちんと作って欲しかったと思う。

しかし何故か知らんが観終わった後、猛烈に芝居の方が見たくなってしまった。
やはり芝居の方で完結した世界だったからだろうか?
ここは一ついのうえひでのりと中島かずきのコンビで
映画を撮らしてみてはどうだろう。
いずれどこかが「髑髏城の七人」も映画化に乗り出すかもしれないのだし。

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