« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »

2005.08.31

大人の為の?「妖怪大戦争」

ネタが続いてナニなのだが、うだうだしてないで観に行ったので書いとこう。

「妖怪大戦争」を観に行ってきた。
観終わって同行者に「まあ子供には楽しめる映画じゃない?」等と言ったのだが、
今考えると、果たして子供には楽しめた映画なんだろうか?
全編どうにも盛り上がる様で盛り上がらない、オフ・ビートなノリで、
カタルシスには程遠い事の顛末に、子供は楽しむ事が出来たのだろうか?
この映画、所謂「水木妖怪観」が隅々まで透徹されている映画で、
「戦いは止めろ、腹が空くだけだ」と、本人も劇中で述べている通り、
妖怪は殆んど何もしない、のんべんだらりとそこに在るだけだ。
勿論、微温湯の様な「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌を聴いて大きく成った身には、
そのゆるゆるな空気感も何となく受け入れられたりするが、
「麒麟送児」と成った少年が宝剣を振るって加藤を誅殺する訳でもなく、
単に「小豆」のお陰で勝利を勝ち取ると云う事実をどう思うんだろう?
まあ既に少年から大きく時を経たこの身には推察する術も無いが、
それも一つの「世の理」と水木妖怪感を受け入れるのだろうか?
・・・まあ事ほど左様に以外に大人向けだったりする映画だった。

「川姫」のフトモモへのこだわりも、そう云う部分が無きにしも非ずだ。
大体ああ云う少年時代の性的なトラウマは、明らかにオッサンが見て
昔を思い出して甘酸っぱい思い出に浸るものだ、そう劇中の宮迫の様に。
そう云う点で異界の美少女と云うべき「川姫」は正に大人のものだ。
同様に素晴らしい造形と複雑な性格を見事に己の物にしている、
栗山千明の強くサディステックで純真な裏切り者「アギ」も大人な存在だ。
白を基調としたボディコンシャスな肢体で、容赦無く鞭を振るう激しさと、
残忍な微笑の後で、愛する加藤に見せる仄かな恥じらい等素晴らしい。
役柄を狭めるのは承知で言うが、栗山千明にはやはり人外の存在が似合う。
「自然な演技」等と云う陥穽にはまって、スケールを狭め続ける、
昨今のテレビドラマ等は無視して、異形の美を極めて行って欲しいものだ。

しかしトヨエツは異常に存在感が無かったが、あれで良かったのか?
個人的に加藤と言えば、「魔人」嶋田久作以外に考えられない訳だが、
「アギ」に惚れられるには、余りにも怪人過ぎるのでトヨエツでも無問題だが、
何かスチャラカな妖怪の存在にかなり喰われていた様な気がする。
ゲスト出演していた多彩な妖怪の皆さんは、
妖怪と云うより本人としての資質が出過ぎで余り妖怪的な感じがしなかった。
「油すまし」というより竹中直人だし、「ぬらりひょん」と云うより清志郎だった。
お陰で妖怪会議の部分では妖怪より演じている方が気に成って仕方ない。
その辺が「妖怪映画」としては如何な物だろうか?と云う感じだ。

今度、ヴェネチアだかの映画祭にこの作品が出品されるらしいが、
妖怪と云う物に馴染みの無い外人には、この変にオフ・ビートな作品が、
結構受け入れられるのではないだろうか?
大風呂敷広げてのカタルシスの無さが逆に斬新に感じられるかもしれない。
何しろ外国で受けの良い三池の監督作だし、栗山千明も居るし・・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.23

妖怪の夏

このネタは映画「妖怪大戦争」を見てから書こうかと思ったのだが、
なんだかんだと、うだうだしたまま映画を見に行かなかったりした今年の夏♪
等と云うSMAPの新曲の様な局面を迎えるやも知れないので、
夏が終る前にとっとと着手しておこうかと思う。
まあ映画を観た時は、栗山千明の事を賛美して終わりにしてもいいしな・・・

「妖怪の夏」と云う事だが、それもこれも映画絡みで角川が、
妖怪本を沢山出版してくれたからと云う部分も一つ有る。
映画関連の本、妖怪推進委員会の京極先生の本などはまあ於いて置くとして、
書店で手に取って一番嬉しかったのが、鳥山石燕の妖怪画を集めた
「鳥山石燕・画図百鬼夜行全画集」の文庫版だ。
元々大判の奴は芳年や北斎の妖怪画と供に国書刊行会から出ていたりしたが、
やはり気軽に手に取って見れる文庫版で、しかも全図と云う所が泣かせる。
今現在、妖怪の姿形として流通認識している多くの物は、
「大妖怪」水木しげる御大の書いた作品や図鑑の中の絵が元に成っている訳だが、
そもそも姿形の無い妖怪を描く為に、水木御大が主に参考にしたのが、
この鳥山石燕の妖怪画なのは有名な話だ。
「ぬっっぺらぼう」や「ぬらりひょん」などほぼトレースしている。
つまりそれだけ江戸の頃にビジュアルとして完成されている訳で、
簡素化された漫画的な表現や豊かなイマジネーションは観ていて飽きない。
勿論、京極先生の小説に出てくる妖怪達もここから多く使われていて、
映画で重要なビジュアルイメージに成る「姑獲鳥」も石燕の図が使われていた。
後は最近映画化の話も出ている、畠中恵の「若旦那と妖」シリーズの、
表紙の可愛らしい「鳴屋」や「犬神」の元イメージもここから取られている。

残暑の続く昼下がりに、風通しの良い縁側にでも横に成って、
ぽつりぽつりとページを繰って行くと楽しい夢が見れそうな本だ。
何より文庫なんで疲れなくて良い、気楽に楽しみたい本だから・・・

さて、それと同時期に出た本だがこちらは少々厚くて値が張るが、
子供の頃の愛読書がブローアップされた様で楽しい本だ。
「日本妖怪大事典」は所謂昔懐かしい妖怪事典である。
かつての子供なら特別妖怪やお化けが好きでなくても、
ケイブンシャから出ていた、ウルトラマンや仮面ライダーの怪人怪獣図鑑と供に、
(いちばんくわしい)ジャガーバックスの怪奇図鑑シリーズを持っていただろう。
(そう云えば確か怪人・石原豪人大先生もイラストを描かれていたなぁ・・・)
そんなかつての子供たちを夢中にさせる様なイカした本だ。
イラストが中心だったかつての図鑑に比べれば、これは飽くまでも事典なのだが、
モノクロながら水木御大の妖怪画が豊富に添えられて観ていて楽しい。
しかし事典的な記述は詳細を極めており、原典や出典の記載、
地方による別称の網羅、参考となる妖怪の列記など資料性はかなりの物だ。
思わぬ所で或る妖怪が別の名前で呼ばれていたり、地方性が出ていたり、
出典にしてもかなり地方資料の方にまで踏み込んでいて感心させられる。
「すわ!この妖怪は何者?」と云う時頼れる資料だ。
そうそう陰陽座のファンは絶対に買っておきましょう元ネタが解って楽しいぞ!

さて角川絡みから離れるが、渋い所の再発でお馴染みのちくま文庫から、
妖怪・怪談好きにはたまらない柴田宵曲の「妖異博物誌」の正続が再発された。
古今の書物に当たって妖異ネタを砕けた感じで語って行く、
或る意味名人の話芸に通じる様な書物だが、多少敷居は高めだ。
しかし基本資料ゆえ何時品切れに成るやも知れず今こそ迷わず購入するが吉だ。

さてその「妖異博物誌」で解説を書いているアンソロジスト仕事人・東雅夫が、
小学館文庫で展開している「妖怪文藝」シリーズも忘れてはいけないだろう。
学童誌のグラビアの様な表紙と云い、駄菓子屋の商品の様なおまけと云い、
チープでユーモラスな装いに溢れている本だが、中身は流石の一言。
妖怪推進委員会の京極先生との妖怪に関する対談を巻頭に、
今号の特集である「モノノケ大合戦」に関する、妖怪眷属の合戦物が圧巻。
まあしかしよくそう云うお題でこれだけの短編を集められるものだと感心する。
その後の「文藝妖怪名鑑」も、扉の妖怪絵こそゆるゆるな物の、
バラエティに富んだ妖怪たちと作者陣にアンソロジストの面目躍如と言った感じだ。
この「妖怪文藝」は全3巻で構成される予定らしく来月、再来月と楽しめるのだが、
なんと来月の第2巻の特集は「響鬼(・・・じゃなかった)響き交わす鬼」と来た!
そうどう考えても日曜朝8時のあの番組を元に想定された特集なのは瞭然だ。
元々、東氏のブログを読んでいると画像にそれの玩具が写り込んでいたりと、
物凄くあの番組に入れ込んでいる事は知っていたが、そこまでやるのね?

そう妖怪と言えば忘れちゃいけない、いつかは書こうと思っていたこのネタ、
近頃唯一毎週見ているドラマ(ドラマなんだよ!)「仮面ライダー響鬼」。
従来の何処かに有った「仮面ライダー」要素を殆んど根こそぎ排除。
眼も口も鼻も無い筋肉質なそのスタイルのモデルは「鬼」。
古来より妖怪伝承の元と成った妖「魔化魍」を成敗する為に、
修行により得た鬼人の力でその身を変え、魔化魍の「魂鎮め」の為に、
清めの音を響かせて成敗すると云う、恐ろしく通好みな設定が泣かせる番組だ。
で、その響鬼に出てくる魔化魍が所謂妖怪な訳だ。
妖怪といって従来知っている様な、親しみ易いフォルムではなく、
敵役に相応しいかなり化け物なエグいフォルムで現れてくるのだが、
「ぬりかべ」「一反もめん」等、お馴染みの名前の魔化魍がガンガン出てくる。
一番驚いたのが最近出て来た「泥田坊」だ。
なんつうマイナーな妖怪出してくるんだ!ちゃんと田んぼの中から出てくるし。
魔化魍を生み出す謎のマスクの奴は通称「傀儡(くぐつ)」だし、
主題歌唄ってるのは布施明だし・・・って関係ないか。
もうすぐ劇場版が公開されるのだが、何と設定が戦国時代なのだ、凄いぞ!響鬼。

まあそんな訳で「妖怪の夏」は秋になっても続行中なのだった。
しかし良い時代に成ったなぁ・・・・


「見よ!妖怪文藝のこのイカした表紙を」
yokaibungei1cvr

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005.08.18

秋を待ちわびて

秋が好きである。

照り付ける様な日差しの下、出歩く気になど成らない真夏と違い、
吹く風も涼しくなると自然とどこぞへ出掛けたくなるものだ。
「芸術の秋」だ等と、ベタな事を言う気はないが、
「展覧会にでも出掛けてみるかい?」などと云う気に成るのも確かだ。

秋の中でも最高のなのは季節が移り変わる頃。
夏の終わりを感じる時や、冬の到来を知る時が妙に嬉しい。
昔は大気の中に到来する季節の匂いを感じる事があったが、
今は夜中に外へ出た時に、喧しかった蝉の声の代わりに、
心地よい虫の音で街が満たされていた時にそれを感じる。

後はやはり空の具合とか・・・
真夏の原色な青空と、もこもこした白い雲も悪くはないが、
すこーん!と突き抜けた秋の冴え冴えとした青空には心が躍る。

まだ少し暑い夏は続きそうだが、夕暮れの茜色の雲に
すぐそこまで来ている秋を感じたりする今日この頃・・・・

sunset01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.13

朱川湊人『花まんま』

今年直木賞を獲った朱川湊人の「花まんま」を読んだ。
友人が先に買っておいてくれたのでそれを借りて読めたので非常に助かった。
この作家の名前や作品は知っていたが、読んだのは今作が始めてだ。
日本ホラー小説大賞を受賞していたり1作目の著作のタイトル等から、
漫然ともう少しストレートなホラー的作風を想像していて、
よくそう云った感じの作品が直木賞を獲ったものだと思ったりしたが、
(まあ京極先生とかも受賞してるくらいだし可笑しくは無いですわな)
読んでみるとかなり真っ当(?)な作品だったので何となく納得した次第だ。

昭和の大阪の下町を共通の舞台にした作品を集めてあるのだが、
日本第二の大都市に対して非常に失礼な言い方だが、
例えば山奥の因習に固まった寒村を舞台にしているのと同様の、
不思議に土俗的な雰囲気を感じさせる作品に成っているのが面白い。
交通や通信が発達して、どの地方都市も同様の景観を見せる昨今とは違い、
昭和元禄と呼ばれた高度経済成長期には地方都市に残る土俗性が、
最後の喘ぎを続けていた頃なのだろう。
それは大阪のみならず、東京の下町でも同様だったと言えるのではないだろうか。
そう云ったファクターが作品におかし味と残酷味を加えているのは見逃せない。

作品を見て行こう。
「トカビの夜」は、言ってみればジェントル・ゴーストストーリーの佳品なのだが、
関西の下町らしく在日朝鮮人の家族絡みと、そこから派生する
「トカビ」と云う朝鮮の妖怪が上手く作品に色を添えている。
そして背景に「万博」「ウルトラマン」「怪獣」等、或る年代の人間には
反則技の様な泣き所を配している所が憎い。
隠微な差別の様子や在日の家庭の感じ、魔除けに持ってくる唐辛子の「赤」など、
細かな描写に技が光る。
「妖精生物」は今作の中で一番ホラーテイストが濃厚な作品だろう。
狭い家に密集して暮す家族の濃厚なやり切れなさが上手い背景に成っている。
家に若い職人の大介さんが現れた辺りで何となく先は読めてしまったのだが、
妖精生物の奇怪な描写で退屈する様な部分は無い。
セクシャルな妖精生物と女の性が露に成る母親の対比が面白い。
個人的に国電の高架下で妖精生物を売る男の描写が好きだ。
確かに昔、学校の前で妖しげな物を売る男たちがよく居たもんだった・・・
「摩訶不思議」は、正に「ザ・大阪のおっちゃん」と云う感じの話だ。
やっぱりネタ自体に新鮮味は無いが、おっちゃんの描写がそれを助けている。
それにしても良い感じだなぁ・・・こんな人生、ある意味憧れるわさ。
「花まんま」も、かなり良く使われるネタでは有る。
話の構造を記憶の蘇った妹を思う兄の視点にしたのが正解だろう。
気の良さそうな冒頭の父親のエピソードが有るお陰で話に深みが出ている。
「送りん婆」は、今作で一番気に入った作品である。
拝み屋やイタコ、ユタなんかの消え行く民族的職能者と云う側面でも面白い。
と言っても実際こう云う仕事の女性が居た訳ではないだろうが・・・
「送りん婆」と云う仕事もユニークなら、作中のおばちゃんの描写もユニークだ。
キャラが起っていると云うか、人間に深みが有って面白い。
豪放でズル剥けで有りながら、仕事に対する責任感と重みを体現していて、
「外道」に堕ちてしまうエピソードも非常に泣かせる。
今は無くなってしまった、背景と成るカオティックな街への郷愁と
失われた職能に対する思いが良い味を出している。
強いて難点を挙げれば、現在の世相を憂う語り手の外道な発想のラスト部分か?
是非このキャラの起った「送りん婆」の話を連作で描いて欲しいもんだ。
「凍蝶」も、大阪と云う背景抜きには語れない作品だ。
明記はされていないが、部落差別を扱ったやりきれない導入部分から、
それ故に墓地でミワさんとの淡いふれあいが哀切溢れるものに成っている。
ただラスト近くの赤線地帯の描写は無かった方が良かったのではないだろうか?
それとなく暗示させる方が幻想性が高まった様にも思うが・・・
「妖怪人間ベム」から発想を得たらしい「鉄橋人間」の話が、
これまた或る世代の人間には何とも言えぬ感慨を抱かせる部分だ。

と云う訳で、若干正当派過ぎて拍子抜けした部分は有れど、
是非ともこの路線で長く書き続けて行って欲しい作家です。
・・・しかし古川日出男はいつ直木賞を獲るのだろう?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.07

演劇実験室・万有引力「アヴェロンの野生児」

アングラと云う観念を改めなければな、と思ったりする。
確かに眼の前には白塗りの男女が踊っていて、その口からは饒舌な台詞が語られ、
異形の背景幕が垂れ下がり、期待通りの合唱曲が流れるが、
終演後の感想はむしろそれなりに充実した物だったりした。
それをどう捉えるかは色々だろうが、悪くは無い事だと思う。
どうしてもアングラに祭りの見世物の如きあくどさを重ねてしまうのだが、
それはある種一つの形態として完成された物を見た気がする。
そんな感想を抱かせるほど完成されている舞台だったと思う。

J・A・シーザー率いる演劇実験室「万有引力」の4年ぶりの新作だと云う、
ショーペンハウアー的幻想音楽魔劇「アヴェロンの野生児」を観に行った。
勿論、先の「奴婢訓」を観に行った時の案内で知った訳で、
「万有引力」の芝居を見るのも初めてだった。
とにかく「ショーペンハウアー」云々と云うサブタイトルといい、
「俳優マクベスと野生児ヴィクトールの内在生成学」と云う添え書きといい、
実にシーザーな世界だったりするので、まあ内容に不安など無かったが、
一体どういう物を見せられるのか、桟敷の芝居との違いは、等興味は尽きなかった。

会場は南新宿の全労済ホールのスペース・ゼロと云う結構大きいハコだ。
行ったのは平日だったが後ろの方にかなり空きが有ったらしい。
舞台装置はいたってシンプルで両脇に3段階のスペースが造られていて、
最上部で繋がっている構成だ。
奥行きも結構あり、観客席の前にも道が作られていた。
多少舞台装置の簡素さに驚いたが、実はそれでかなり立体的な動きが作れるのだ。
その立体的な動きを作り出すのは勿論俳優なのだが、
その俳優陣の動きの切れの良さには驚かされた。
とにかく手先にまで神経が集中していて体の切れなど抜群にいい。
初っ端の群舞シーンから統制の取れた動きが決まっていて見事だった。
特に言葉の無いヴィクトールは恰も舞踏の如き動きで見惚れる。
暗転の度に状況は目まぐるしく入れ替わり、左右のスペースで別々に進行し、
時に中段や上段でもそれぞれ別のシークエンスが演じられる。
それぞれがマイムの様で飽きさせない。
寺山直系の引用に満ちた長台詞の掛け合いも有るのだが、
それよりも身体表現を重視した手話による劇の進行、
果ては舞台に居る役者全部が、聾唖者の様に嬌声を上げ手話に講じる場面まで有る。
「奴婢訓」でも使われていた、照明に鏡状の物にかざしたサーチライト、
暗転した舞台の上で擦ったマッチの灯りを次々にかざし消して行く手法など、
演出家シーザーの手垂れの手法がつぎ込まれていた。

後はやはり音響の素晴らしさに感じ入った。
「幻想音楽魔劇」と銘打ってるだけに、音楽は重要な要素な訳で、
しかも音楽家としても名高いシーザーだけに音響にはかなり気を使っている様だ。
今回も正しく「シーザー節」としか言い様の無い、字余りな合唱曲が満載だ。
それ以外にもトライバルなパーカッション、呪術的なコーラスも有り、
突然耳を弄する様な大音量の効果音も結構クリアに聞えた。
ただ残念だったのが合唱曲の殆んどがテープによる演奏だった事、
勿論舞台上の役者もそれに合わせて歌っては居る訳だが、
生身の揺らぎの様な物はテープから感じられないのが残念だし、
やはり舞台袖でシーザーが即興で音を重ねている所を見たかったと思う。
そろそろ万有引力で使った曲のベストセレクトCDでも出してくれんもんだろうか?

所で劇中何気に気に成った事が有ったのだが、アラレちゃんってどうなのさ?
視ている方としては非常に微妙な感覚に囚われるのだが、
そう云う感覚を抱かせる為に、敢えてアラレちゃんなんだろうか?
くすぐりの為にしろ現実感の為の装置にしろ、何にしても微妙な所なのだが・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.08.02

「姑獲鳥の夏」の職人芸

それなりに金を掛けて職人がきちんと創り上げた作品は、やっぱり良いよなぁ・・・
と云う感慨を抱かせてくれる作品だった。

それを感じさせるのはセットや小物のツボを得た出来の良さに現れている。
まず感嘆するのは「眩暈坂」の何とも言えぬ良い味わいを醸した造りだ。
パースの感じが、明らかに岸田劉生の「切り通しの写生」の影響だが、
セットならではのめくらまし感と、何処となく既視感を感じる造形は見事だ。
京極堂の書庫の感じは何気に乱歩の蔵の雰囲気のトレースだろうか?
まあ蔵の内部と云うのはそれなりに造りは同様に成ってしまう訳だが、
和綴じ本の陳列の仕方や棚の配置なんかに洒落っ気有る意図を見る思いだ。
久遠寺医院の建物は、最初何処でこんな良いロケ地見つけて来たんだ?
等と一瞬錯覚するほどミニチュアの出来が良かった。
建物の細部にも中々良く出来た意匠が施されていて、そんな遊び心も楽しい。
そう云った舞台装置の妙と云うのは実相寺監督が以前に撮影した、
「帝都物語」やら「屋根裏の散歩者」他の乱歩作品の映像化から培われた物だろう。

実相寺監督と言えばマニアの間で「実相寺アングル」と呼ばれる、
独自の映像感覚を持った、ある種カルトで大家な監督である。
事実そう云う部分を期待して劇場に足を運んでいる訳だが、
それと同時に実は非常に格調高い画面を作れる人でもある。
膨大な登場人物を右に左に捌いている内に終ってしまった様な「帝都物語」だったが
後にその続編である別監督の「帝都大戦」を観てつくづく感じたのが、
何だかんだ言っても「帝都物語」は大作に相応しい格調ある作品だったと云う事だ。
その感じは今回も非常に有って、画面が薄っぺらく無く陰影に富んで、
お得意のクラッシックの響きも重厚な、良質な娯楽作に出来上がっている。
勿論マニアが求める様な「実相寺アングル」も健在で、
冒頭近くの墓の中を進むシーンを魚眼レンズの逆さ映しで撮る所なんざ正にそれ。
ただ恒例である極端なアングルを選択する事は今回少なく、
その代わり話の経過を月齢で表す様なペダンティックさは健在だった。

ところで実は京極夏彦の京極堂が主役の一連の作品は余り好きではない。
と云うより最初にこの原作を読んだ時には気分悪くてしょうがなかった。
そんな事から京極氏の作品はデビュー作以来全然読んでいなかったのだが、
読まずに否定するのもナニなので京極堂以外の作品も手に取ってみた所、
別解釈の「嗤う伊右衛門」や、実存的妖怪小説の「豆腐小僧双六道中」など、
非常に面白く読めて驚いたりした。
では一体京極堂シリーズの何にそんなに腹が立ったのか?
当初この作品を評す時に批判的に言われていたトリックに関しては、
飛び道具の様な戦前の探偵小説を愛読している身としては問題なかった。
該博な知識や目くるめく専門用語の頻出も、衒学趣味が横行する、
メタ・ミステリーのファンとしてむしろ歓迎する所だ。
結局どうにも我慢なら無かったのは、恰もパロディ化を意識したかの様な、
まるで少女漫画の如き登場人物の薄っぺらさだった。
為すがままに話に翻弄される小説家、他人の記憶を視る御曹司の探偵、
そして古書店主、神主、憑き物落としとして活躍するニヒルな主人公など、
まるでキャラクターチャートにでも当てはめたかの様な思わせぶりさで、
しかも絵に描いた様にエキセントリックで韜晦な語り口と来ている。
大塚英志がハウツー本にして評論集の「キャラクター小説の書き方」で、
キャラ起ちした少説の他分野への侵食を語った正にその通りな展開の内容だった。

と云う訳で映画の中の登場人物達も実に見事にキャラが起っている。
ただそう云う部分がファンによる役者と作中人物のイメージの違いと成り、
京極本のファンが映画版を攻撃する要素と成っているのは否めない。
自分は原作に思い入れが無いので、映画版のキャストにさしたる不満は無かった。
堤真一の長台詞や存在感の有る立ち居振る舞い等、良く映画にハマっていると思う。
阿部ちゃんは基本的に最近何をやっても阿部ちゃんなのでまあ良いが、
果たして宮迫があの位置に居ると云うのは如何な物だろうか?と云うのは有る。
いしだあゆみももうちょっと鬼気迫る見せ場を用意しても良かったのでは?
後は実相寺の乱歩物で小林少年役をやっていた特殊女優三輪ひとみが、
いきなり死体で登場したのには笑った、さすが三輪ひとみだ。

それにしても京極先生、芸達者ですなぁ・・・あんなに出番有るなんて。
「妖怪大戦争」では宮部みゆき先生も達者な所を見せてるらしいし、
「文士劇」なんぞと侮れませんなぁ・・・昨今の作家先生は。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »