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2005.10.30

「シン・シティ」~コミック表現の可能性

映画におけるコミック表現の新しいスタンダードを作った作品、と云う所か?

私見だがここまでの所、映画の漫画的表現は香港映画が改革者だった。
現地の有名コミック作品の映画化にして、漫画的なCGを見事に導入し、
格闘技に於ける超人技の表現を漫画的に成功させた「風雲」。
オリジナル作品ながら日本のスポコン漫画の影響を根強く持ち、
スポーツ漫画の超人技を圧倒的に描き切った「少林サッカー」。
車のバトルシーンを絶妙なカットワークで描いた最近の「頭文字D」等々。
或る意味ノリと勢いが要求される漫画作品の映画化は、
それ自体が漫画的で有った香港映画と中々の相性を見せて佳作を連発していった。

もちろんハリウッドでも多くのアメコミが昔から映画化されて来ている。
しかしそれはあくまでもアメコミが原作だったと云うだけで、
映像表現としてコミック的、漫画的だったと云う訳ではない。
古くは「スーパ-マン」から「バットマン」、「X-メン」、「デアデビル」等、
造形やCGでキャラクターを創造するも、あくまでも従来の映画の描写の内で有った。
ただサム・ライミの「スパイダーマン」に於ける摩天楼をクモの糸で飛び回る、
あの一連の描写はかなりコミック的な表現に成っていると思う。

さてそれらの作品に比べてみればこの「シン・シティ」が、
いかにフランク・ミラーの原作を描写する事を念頭に置かれているか解ると思う。
「コミックを原作に」映画化するのではなく「コミックを映画化」しているのだ。
何せ俳優は殆んどを何も無いグリーン・バックのスクリーンの前で演技し、
その後、原作通りの背景をCGで創り上げて合成しているのだから。
しかも俳優に演技を付けているのは原作者のフランク・ミラーなのだ、
これではせいぜい演じている役者がイメージに合わないと云う位しか、
文句の付け様が無いだろう。
それにした所でマーヴを演じたミッキー・ロークは素顔が解らない位、
原作に忠実な特殊メイクを施されていたりするので、
もうこうなると原作が好きか嫌いか位の極端な判断を迫られる感じだ。
しかし全編モノクロで印象的なパートカラーが挿入される画面創りは見事だ。
本来ならかなりの量の血が飛び出る凄惨なシーンの多い映画なのだが、
残酷なシーンを巧みなカラーリングや反転で描写し、ドギツさを抑えている。

映画は原作の3本のエピソードを織り交ぜて1本にしているのだが、
明確にパート分けしている訳ではなく、重なり合う様に重層的に描いている。
どの話もそれなりに面白いが、好きなのはドワイトとオールド・タウンの話だ。
娼婦たちが自治する、マフィアも警察も手が出せない街と云う設定が面白い。
結果的にオールド・タウンを守る為に戦うドワイトは、謂わば巻き込まれ型だ。
勿論、昔愛した女ゲイルの為に危ない橋を渡らされる訳だが、
そんな自分の境遇を常にぼやいている所が面白い。
特にタラ公がメガホンを取った、ジャッキー・ボーイの死体を捨てに行く場面。
「ペッツに成った」死体のジャッキー・ボーイが喉をヒューヒュー言わせながら、
警官の追走に怯えるドワイトに語り掛けるシーンは、まるで落語の一場面の様だ。
一言も喋らずに逆手持ちの日本刀二刀流で敵を仕留め、手裏剣で止めを刺す、
殺戮マシーン美少女ミホは、GOGO夕張に匹敵する最高のいかれたキャラだ。
このエピソードのラストでマフィアを皆殺しつつ、ドワイトがゲイルを抱きながら、
「お前は俺のワルキューレ・・・」と云うクサさ極まるモノローグを語るシーンが、
さながらレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説の様で楽しい。
確かに時代錯誤なまでに暴力的に愛に殉じる男たちの姿は、
古き良きハードボイルド小説を髣髴とさせる。
それさえもミラーの原作にしつこいまでに固着する部分なんだろう・・・

さて翻って原作だけは大量に有るものの、料理する術が鈍い我が国の現状は?
このままハリウッドに原作を売って出来上がるのを待っているのか?
それともテクとセンスで何とかする凄腕の料理人の登場を待つのか?
まあ半端な物しか出来ない様なら、むしろしないと云うのも賢い選択では有るが。

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2005.10.25

ベルベット・レイン~江湖

珍しく冷たい雨が降りしきる香港、或る夜、2組の男達の人生が錯綜する。
頂点に上り詰めた男達と、捨てる物など無い若さに尖った男達。
勢いを増して街を包み込んで行く雨の中、やがてそれらは重なり合う・・・

そしてそれと同時に、しのつく雨に包まれたこの映画の向こうに、
輝きに満ちた幾つかの香港映画が重なり合う。
それは「いますぐ抱きしめたい」だったり「天若有情」だったり・・・
商業映画初監督のウォン・ジンポーは、かつての黒社会映画の様な、
泥臭いアクの強さとは真逆のスタイリッシュさで非情な世界を描く。
しかしその中にどうにも消し様の無い香港映画臭が嗅げる所が面白く興味が有る。

香港映画ファンなら、劉德華と張學友の競演で、しかも兄貴分と弟分と云う設定に、
王家衛のデビュー作「いますぐ抱きしめたい」を思い出さぬ人は居ないだろう。
狂犬の様にキレるざらついた弟分を諌める冷静な兄貴と云う設定も同様である。
キャスティングした段階でそれを意識しているのは当然だろうが、
若さゆえに激しく散って行った2人のその後を思わせる様で胸騒ぐ物が有る。
そして本当に久し振りにスクリーンでその姿を見た呉倩蓮。
劉德華と呉倩蓮と言えば劉德華のナルシズムが最高の輝きを見せる、
「天若有情」での悲恋を思い出さずには居れない訳で、
劇中、子を生した2人の幸福そうな姿にオールド・ファンはグッと来る。
(余談だが劉德華が鄭秀文と競演した「Needing You」でも、
劇中で「天若有情」のパロディが入っていて泣けたもんだが、
地元でもあの作品は一つのアイコンに成っているんだろうか?)
そんな訳で新しい作風なのに同時に懐かしさも感じる面白い作品に成っていた。

そしてもう一つは、意識するしないに関らず「無間道」以降、
香港の映画の何処かに「無間道」を意識させる様な要素が隠れている事だ。
勿論、周星馳や成龍の様な自分のスタイルが出来上がっている人は別だが、
街の描き方、画面の質感等に「無間道」を感じさせる作品は多い。
まあこの作品はメインキャストの半分以上が無間道と重なる訳だし、
そもそもラストに「あ~これって無間道だったのか!」と、
感じさせる所がネタだったりする訳で、端からその影響力は強い。
無間道Ⅱで始まった陳冠希と余文樂の見事なまでの競演ぶりも、
ここに到って年上の2人としのぎを削れる程見応えの有る物に成った。
盛り場を器用に泳ぐ軽快さと、友に尽くす真っ直ぐさを持った陳冠希も良いが、
無軌道さとナイーブさを併せ持つ余文樂の陰の有る演技が素晴らしい。
もちろん劉德華の、家庭人と江湖の男の危うい二面性に、
大人の色気を漂わせた立ち居振る舞いの美しさは円熟に近付きつつあるが、
やはり久し振りにスクリーンで観る張學友の狂犬振りは素晴らしい。
今や別格として中華歌謡界に君臨するカリスマな訳だが、
冒頭の手下を従えてコート姿で現れる時の、オーラの出方が半端ではない。
しかも今回は単なる狂犬ではなく己に対する諦念さえ滲ませた悲哀を背負っている。
雨の中一つ傘の下、肩を寄せ合う2人の姿に言い様のない美しさを感じる。

子供をあやす姿と親分の女房としての非情さを使い分ける呉倩蓮は、
やはり埋もれさせておくには惜しい女優である。
楊采[女尼]も復活した事だし、円熟した演技をこれからも見せて欲しいもんだ。
今作のプロデューサーも勤める曾志偉の存在感はもう言わずもがなだが、
ちょい役で印象的な所を残し、主題歌まで歌うチャップマン・トーや、
拳銃奪われるセルフパロディの様な林雪は、既に欠かせない顔と云う感じだ。
眼鏡屋のチェーン店はどうした?と云う苗僑偉も異常に懐かしいし、
製作総指揮に劉德華と並んで譚詠麟の名前が有るのも「おお!」と云う感じだ。
(「頭文字D」に出てきた鍾鎮濤と云い「ちょい懐かしめ」が流行りなのか?)

流石、昨年のクリスマスシーズンに香港映画界の誰もが敬遠する、
周星馳の「功夫」との一騎討ちに挑んだ作品だけある!
・・・まあ興行では当然負けたけど・・・意義の有る敗北ではないか。

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2005.10.23

土俗とイデオロギー/民族とナショナリティ

批評社から出ている「歴史民俗学資料叢書」の「解説編」である、
「土俗とイデオロギー」「民族とナショナリズム」を読んだ。
「歴史民俗学資料叢書」はアカデミックな分野からは軽視される様な、
特異な、しかし日本人を語る時に決して外せない事象の数々を、
貴重な民俗学的資料の再録によって検証する非常に面白い試みの叢書だ。
この2冊は叢書を編集した礫川全次氏による各巻の解説を集めた本に成っている。
何故「歴史民俗学資料叢書」その物では無しに解説の本なのか?と云う感じだが、
正直、内容と云い値段と云いそう気軽に購入出来るような本ではないからだ。
だもんでせめて解説編である所のこの2冊で中身の一端に触れようと云う、
スケベ心の現われな訳だ。

「土俗とイデオロギー」には第1期発売本である、
「糞尿の民俗学」「人喰いの民俗学」「浮浪と乞食の民俗学」
「刺青の民俗学」「生贄と人柱の民俗学」の5冊の解説が収められている。
そして「民族とナショナリティ」には第2期発売本である、
「厠と排泄の民俗学」「犯罪と猟奇の民俗学」「男色の民俗学」
「無法と悪党の民俗学」「左右の民俗学」の5冊の解説が収められている。
各巻のタイトルを見ただけでもぞくぞくして来る様なラインナップではないか?
特に第1期のA5版上製函入の造本は本棚に並べたくなるシブイ体裁だ。

それでは「土俗とイデオロギー」に収められた解説の方から見て行こう。
「糞尿の民俗学」では漱石の俳句を導入に、糞尿の民俗学的問題意識を提示する。
1、糞尿の呪力とは。2、排泄の民俗学とは。3、厠神とは何か。
4、糞尿処理の歴史は。と、この4話題を中心に話を進める。
泥棒が犯行現場で脱糞すると犯罪が成功すると云う呪力的な逸話も面白いが、
いずれは昨今多く存在するスカトロマニアの進み過ぎた性癖の、
民俗学的考察を検証して欲しい物だ。
「人喰いの民俗学」は多分かなり興味をそそられる人も多いだろう題材だが、
この解説を収めた本の中にも面白い事例が幾つか紹介されている。
一つは、かのモースが大森貝塚で発見した縄文時代の「食人」の痕跡と、
それを巡る明治期日本人学者の反発やすり替え、許容の話だ。
文明開化後、欧米に追いつけ追い越せをやっていた当時の日本の知識人にとって、
その事実に反発するのは然りだろう、学説の成立話としても面白い話だった。
そして江戸期に於ける処刑死体の臓器の薬喰いとしての話から、
有名な野口男三郎事件に到る人肉食の猟奇的な迷信話も面白い。
まあ食人と言えばその事例も実態も豊富に存在する中国の話が面白い訳だが、
かつて河出文庫から出ていた「中国怪談集」の文字通り「人を食った話」や、
この本にも出てくる名著「食人宴席」など合わせて読むと面白い。
「浮浪と乞食の民俗学」は、ある土地に定着して生きる我々が、
心の何処かで思う、自由に漂泊して生きる事への憧れ等を含んだ、
物貰いや世捨てに関する話を扱っている。
中国の武侠小説の中に出てくる重要な集団に「丐幇」と云う名の、
乞食のギルドとでも言うべき秘密結社的な集団が出てくる。
そう云う話を踏まえて、例えば香港の街中の物貰いを観て行くと、
皆一律黄色いプラスチックのコップを持って物貰いをしている。
もしやあれは現在も続く丐幇のしきたりなのでは?等と想像を逞しくするが、
事ほど左様に乞食と云うのも中々謎に満ちた存在だったりする訳だ。
「刺青の民俗学」は多分この中でも類書が多い題材ではないだろうか?
昨今の気軽に入れる「タトゥー」などの隆盛を見ても価値観の相違は大きい題材だ。
本書の中では明治期の外国人医師ベルツが書いた論考で、
「普通、他の民族は外から見える顔や手等に彫り物を入れる傾向に有るが、
日本人は着物で隠れる部分に彫り物を入れている例が多い、
それは日本人にとって刺青は一種の衣服に他ならないのではないか?」
と云う話には中々眼を開かされる物がある。
確かにふんどし1丁の刺青が入った後姿は、正に服を着ているかの如くだからだ。
何故かか日本人には無視される事の多い論考で自分もここで始めて知った話だ。
「生贄と人柱の民俗学」は人喰い同様興味をそそられる題材だが、
残念ながらこの本では、柳田國男、南方熊楠、中山太郎ら、
民俗学者同士の関係の話に終始して本編の内容にあまり触れていないのが残念だ。
本編では、大正15年に皇居の二重櫓の下から発見された多数の白骨死体を巡り、
「人柱」論争が起こった話を取り上げているそうで、非常にそそられる話だ。
数々の民話にも登場する人身御供の話は有名だし、その辺も興味有る部分だ。

お次は「民族とナショナリティ」に納められた第二期刊行本の解説から、
第一期の一巻の続編とも言える「厠と排泄の民俗学」。
テーマが多岐に渡っていた「糞尿の民俗学」に対し、
こちらは近代日本人の糞尿に対する価値感の推移や再利用の変遷などを追っている。
今ほど目覚しい発展を遂げる前の上海に遊びに行った折、
街の公衆便所に、普通に収集容易な甕の様な物が置かれていて、
実際に糞尿を溜めたそれを収集している所を見た時は結構驚いた。
かつては日本でも日常に行われていた糞尿のリサイクルがまだ残っていたのだ。
その後、戦後日本人が体験した価値観の変転が上海でも行われて行ったのだろうか?
外国資本の店がひしめく今の上海に、糞尿収集は多分残っていないだろう。
「犯罪と猟奇の民俗学」は日本民族学の創始者、柳田國男の「遠野物語」に、
民族伝承に混じって意外なほど多くの血腥い殺人事件が取り上げられている事で、
柳田國男が持っている猟奇的な嗜好をあぶり出し、
後の「一国民俗学」として成立させる為に切り捨てて来たその本来の資質が、
成立時の民俗学に与えた影響も同時にあぶり出す様な論考がスリリングだ。
「男色の民俗学」は日本文化に深い影を落とす、秘められた、
しかし研究書はそれこそかなりの数に上る「男色」に付いての話だ。
森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の主人公が危うく男色の餌食に成る話から、
薩摩武士道と男色の深い関係、そして陰間茶屋の話と多岐に渡っている。
しかしマチズモと同性愛の関係は世界的に見ても無い話では無いが、
こうも豊富な文化を持つ日本の土壌と云うのはどう云うもんなんだろうか?
解説の後書きに書かれている芸能と男色の関係など今でも当て嵌まる話だ。
「無法と悪党の民俗学」は「皇帝と呼ばれる人間も元を正せば山賊だった」の様に、
悪党も無法も状況いかんではそれが正しくも成り、悪くも成るの譬え通り、
ヤクザや無頼、侠客やアウトロー等の「悪党」が醸し出す「無法」。
片や国家と云う「悪党」の中で生み出される権力と云う名の「無法」。
それらを相対化して論ずる事の危うさとスリリングさが光る。
「左右の民俗学」は古来から伝わる民族行事に於ける左右の意味。
死者の衣装が左前と云う部分にも現れる民族的な右尊左卑の事実、
ところが対照に神事における場面で表れる左尊右卑の現実。
果たして日本文化における「右」と「左」はどちらが「正」で「邪」なのか?
これまた普段は気付かないが根源的な謎を突き付けられる話である。

思ったより長くダラダラと書いてしまったが、いかがだったろうか?
まだまだ掘り下げて行くべき民族的ネタは数多く存在する。
興味を持たれた方は是非とも原典である所の分厚い、
「歴史民俗資料叢書」を手に取って一読して欲しい物です。
そして自分も、いずれは・・・いずれは購入を・・・(-_-;)

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2005.10.15

満艦飾

ここの所東京は週末と云うと雨だ。
せっかく良い気候に成って来たと云うのに出掛け様と思うと雨。
今週も週末は天気が悪いらしい。

予報だと金曜の午後から雨だったそうなのだが、
意外な事に金曜は晴天で温かい、結構な日和だった。

せっかくなんで良い天気の下、ぶらぶらと街を歩いていると、
陽が出ている内に洗濯物を干してしまおうと、
何処の物干しも洗濯物で一杯だった。
洗濯物どころか布団も干してしまおうと、
庭の其処此処に布団を並べている所も有る。

思わず「満艦飾だなぁ・・・」等と云う言葉が口を吐く。
流石に布団くらいで満艦飾は無いだろうし、
ましてや核家族化で一軒の洗濯物の数も少なくり、
旗竿たなびく光景も見なくなった昨今、
満艦飾等と云う言葉も使われなくなっているが、
それでもうららかな秋の陽射しに拡げられた布団を見ていると、
そう云う賑々しい言葉を使いたくなってしまうのだ。

布団の木蔭でまどろむ猫が、さして高くも無い空に眼を細めて、
大っぴらに欠伸をする様なぬるい午後の事だ。

mangansyoku


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2005.10.11

セブン・ソード~七剣下天山

雑誌等で読んだ前評判の如く、もういきなり話がヨレヨレだった。
芯を貫く話は非常に単純明快で、まあ黒澤の「七人の侍」な話なのだが、
とにかく観客を遥かに置き去りにして、抑揚も無くカクカクと展開して行く感じだ。
主軸に成る話が等閑なのに、話の伏線に関係ないエピソードに時間を割いたり、
焦点がぼやけているせいで人物造詣がいまいち良く掴めない等々・・・・
それでは駄作だったのかと言えば、決してそんな事は無い。
むしろ或る部分、妙に懐かしかったりして嬉しかったりもしたのだ。

思い返してみると、そもそも徐克の映画って話で見せて行く映画だったろうか?
近代化を迎える混乱の清朝末期にその頃の香港人のアイデンティティを絡めた、
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」シリーズとか、
民国初頭に生きた3人の女性にそれぞれ異なる立場を託した
「北京オペラ・ブルース」等監督の意図を深読みさせる様な作品も有る。
しかしそれらも殆んどが活劇に主軸に置いた作品だった筈だ。
監督作品では無いがプロデューサーとして作品に深く関っているだろう、
「東方不敗」シリーズや「新龍門客桟」等は明らかに今回のテイストに近い。
原作が有るのに話運びや心理描写が杜撰で、とっちらかってる印象なのに、
余りにも常識離れした漫画的な活劇にそんな事はどうでも良くなる映画だ。
昔、劇場で「新龍門客桟」を観た時は余りのテンションに、
熱にうなされる様な気分で肩そびやかして帰った覚えが有る。
間違い無く今回の作品もそんな徐克印がしっかり押された映画だったと云う訳だ。
(OPに御馴染みの「電影工作室」のマークが出なかったのが残念だが。)

結局今回、活劇にその当時ほどの感動を覚えなかったのは、
こちらが余りにも「すれっからしに成ってしまった」と云う部分も有るが、
やはり昨今の「臥虎蔵龍」や「英雄」、「天地英雄」などの武侠小説映画に、
余りにも真っ向から挑戦し過ぎたと云う感じだろうか?
徐克ならもう少しトリッキーなギミックに走っても良かったのではないだろうか?
今回、極力ワイヤー等は使わずに刀と刀の地に足の付いた殺陣を試みたそうだが、
むしろワイヤーのパイオニアとしてもっと派手に飛ばしても良かったのではないか?
例えば剣戟と云う事に関しては95年の監督作「ブレード刃」が有る訳だが、
あれが趙文卓一人の超絶的な殺陣に限っていたのに対して、
今回は七人も居てそれぞれ得手の剣も有る訳で、それなら中の何人かは
非現実的な技量の技が有っても良かったんじゃないかとか思ってしまう。
武侠小説映画として妙に抑揚の有る史劇的な方向に走ったお陰で、
何時もの徐克らしい漫画的な描写が控えめに成ってしまったのが残念だ。
とは言っても2001年の、自身の「蜀山奇傳」のリメイクである「天上の剣」は、
完全に漫画だったけど見事に外したりしてたので何とも言えぬ所は有るが・・・・

さてキャストであるが、大陸の役者が多く使われていて知らない顔が多い。
しかし今回は敵役の役者が中々素晴らしく印象に残る役者が多く居た。
異形の甲冑にコープス・ペイントの十二門将達は魅力的だし、
得物も懐かしい「空飛ぶギロチン」等などギミックだらけで楽しい。
特に片剃りモヒカンにトライバル・タトゥーが入った唯一の女性将門は、
酷薄そうな冷笑と爬虫類的な動きが強烈に印象に残る素晴らしさだ。
親玉の風火連城を演じたスン・ホンレイは「初恋の来た道」にも出ているそうだが、
こんな押しの強い顔の奴出てたか?と思うくらい強烈なキャラクターだ。
何気に金庸の「書剣恩仇録」に出てくる「火手判官」に共通する様な、
深みの有る悪人ぶりが最高に良い。
敵役の方が先に成ってしまったが、七剣のメンバーでは絶対主役は甄子丹だ!
七剣に於ける超絶ぶりを殆んど一人で体現しているのが甄子丹なのだから。
産まれ育ちから来る虚無的な表情と秘めた熱い思い、
そして「ワンチャイ~」の李連杰戦リベンジな狭い壁の間での戦闘の凄さ!
流石ハリウッドでも注目される身体能力の高さと美しさだけの事は有る。
そして病み上がりでなければ「若いもんにはまだまだ負けん」的な、
本物の武道家の凄みを見せてくれたであろう劉家良なのだが、
今回は参謀役に徹してアクションもスタントばかりだったのが惜しまれる。
復帰2作目で再び大作に出演の楊采[女尼]だが、今回は女としての魅力より、
埃っぽい大地を駆け巡る素朴で純真な役柄に全力投球だ。
描かれ方で、正直人物的には余り深みを出せていなかったが、
冒頭から泥水に何度も顔を突っ込まれると云う、
香港映画女優ならではの酷い扱いを凌いで根性を見せている。
他の七剣の皆さんは殆んど初見なので何とも言えないが、
キャラクター的にタイ・リーウーとダンカン・チョウの2人が印象に残った。
愛憎パートを一手に引き受けた韓国の女優キム・ソヨンは、
妖艶な中に悲哀を滲ませる「恨」な役柄が良くハマっていて、
流石に徐克、女性を描くのが上手い物だと感心するが、
パートをそこに集中してしまった為に他がスカスカに成った気がしないでもない。
あ~そうそう忘れていた「東洋一の優男」黎明の事を(^_^;
やはり役者にも得手不得手と云うものが有るからして、
こう云う役はいまいち「東洋一の優男」には向いていない様な気がする。
優柔不断で気持ちが入ってない笑顔の爽やかな男をやらすと東洋一なんだがな・・・

プログラムにはDVD4時間版の存在の事が書かれていたが、
確かに4時間も時間を掛ければかなり違った印象の作品に成るだろう。
是非日本で発売する時には4時間版も合わせて発売して欲しい物だ。
そして映画の公開に合わせて漸く、正に漸く原作の梁羽生の作品が翻訳された。
武侠小説の三巨頭の内、金庸、古龍に比べて翻訳が遅れていた梁羽生だ、
本来なら三部作の最初の「白髪魔女伝」辺りから始めて欲しい物だが、
何にしろ日本で出版されると云う事実だけでも嬉しい。
これを期に・・・と言いたい所だが出版事情的に中々難しい所なんだろう。
取りあえずは「七剣下天山」を読んで武侠小説好きの渇きを癒そうではないか!

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2005.10.08

懐かしの下町漫遊

昔友人が江東区の清澄辺りに住んでいて、かなりよくチャリで遊びに行った。
上野から秋葉原の方に出て、両国から川沿いに清澄まで出るコースを通る。

この前、秋葉原にヨドバシが出来た時にのこのこ出掛けて行った。
所謂電気街とは線路を挟んで反対側にヨドバシが出店した訳だが、
かつてその辺は専用のリヤカーでダンボールを収集してくる、
拾い屋のオッサン達のダンボール集積場が有った辺りだった。
最近は御徒町のガード下に何軒も店が入り賑やかに成ったが、
秋葉原のその辺は未だに戦後まもなくな感じが抜けない様な、
うらぶれた薄ら寂しい所でその感じが好きでよく通り抜けたりしていたもんだ。
所がその辺も再開発で随分と様変わりし、オフィスビルやらコンビニやらが、
味の有ったその辺りを一気に良く有る都心の街並みに一変させていた。
東京では良く有る事とは云え、昔を思い出し少々感慨に耽ったりした。

で先日、郊外に引っ越したその友人を含めて両国で逢う事に成った。
江戸東京博物館の「美しい日本~大正・昭和の旅」展を観に行く為だ。
昔、非常に閑だった頃はよく都心のマイナーな博物館に繰り出したりしたもんで、
久し振りに往時を思い出す企みと相なった。

この展覧会は、大正・昭和期の主に外国人向けの日本観光誘致宣伝物や、
外国人が滞在したホテルの概要や観光土産等を展示した珍しい物だ。
貴重な当時の東京の風景を納めたモノクロのフィルムや、
興行に掛けた物か、珍しい幻灯原板なんかも映写されていて驚いた。
外人向けのみならず、国内旅行勃興期の小冊子やポスターも展示されていて、
モダニズム溢れるレタリングとデザインワークは今見ても新鮮な物だ。

個人的に非常に楽しめたのが日本土産として作られた、
川瀬巴水の伝統的な版画手法による風景版画の展示だ。
江戸期の版画は専門の浮世絵美術館も有ったりと良く見る事は出来るが、
小林清親や井上安治辺りの明治期の版画家は展覧会の機会が非常に少ない。
それが近代美術的な版画と浮世絵の間で非常に曖昧な立場に有る、
大正昭和期の風景版画に成ると中々現物にお目に掛れる機会が無いのである。
川瀬巴水やその師、伊藤深水の作品をこれだけまとめて見れるのは珍しい。
絵画的な構図を持ちながら、浮世絵の叙情性も併せ持ったその作品は、
彫りや摺りの技術の見事さも相まって正に眼福な美しさだった。
そしてもう一点楽しみだったのが近年とみに再評価が高まっている、
「大正の広重」と呼ばれた鳥瞰図絵師「吉田初三郎」の絵図展示だ。
初三郎式鳥瞰図と呼ばれるその絵図は今では御馴染みな絵図と成っているが、
航空写真もない時代にこれだけの物を取材と頭で組み立てた事実と、
その優れたデザインとデフォルメ力には今更ながら驚かされる。
コンパクトに折り畳まれた絵図に細かく書き込まれた観光名所図は、
今ほど交通が便利でなかった時代の庶民の想像力を楽しく刺激した事だろう。

特別展を見終り、常設展の方に足を伸ばしてみると、
異国の観光客の皆さんが楽しそうに展示物の仕掛けに講じていたりした。
かつての様に「美しい日本」を目当てに来ると云うより、
キッチュでサイバーでマニアックな日本を見に来ると云う感じの昨今だが、
彼らは今の日本を楽しんでいるだろうか?

その後川沿いに溯り、蔵前橋、厩橋、駒形橋と過ぎ、
吾妻橋から左に折れて浅草の雑踏に紛れ込んだ。
浅草もかつてはよく来た場所で、「電気ブラン」で御馴染みの神谷バー、
建替えられる前の重厚なアサヒのビヤホールなんかに出掛けたりした。
今回は、まあリーズナブルに大きい提灯で御馴染みの「ニュー浅草」で呑んだ。
ここもそれなりに思い出の残る場所なのだが、何時もながら若い衆より、
近所の親父や一人で呑みに来ている親父が多く、
非常に落ち着ける場所だった。

しかし相変わらず浅草の店は押並べて9時に閉店する状況は辛い。
呑み屋くらいは改善したのかと思ったが、あっちゅう間にラストオーダーだ。
外に出てみてもやはり殆んどの店が閉める準備をしている。
しまりの無い気分で彷徨い出た宵闇の街角に、月はぼんやりと曇っていた。

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2005.10.04

最近買った紙ジャケ其の8

さて久々の紙ジャケ噺で有る。
こまめに色々買ったりはしているのだが、まとめて書くつもりで居ると、
いつも「最近買った」時機を逸してしまったりする。
それと最近レコード会社の紙ジャケリリースも、
多少手詰りに成って来ている気がする訳だ。
紙ジャケ化するべき美味しいアーティストは大概リリース済みだし、
知られざるアーティストも或る程度掘り尽くした感は有る。
勿論まだまだ知られざる強豪はひしめいているのだが、
商売として通用させられるものはそう多くは無い。
個人的にはユニヴァーサルの紙ジャケ物が停滞しているのが残念だ。
あそこのは紙ジャケの出来も良いし、なんと言っても安いのが良い!
・・・って誰に対して色々と弁明しているのか解らんのだが、
まあサクサクと行きまほ。

立て続けにリリースされる物だと思っていたのが、
第2弾は8月の末頃に漸く発売に成ったイタリアの重鎮バンド、
「イ・プー」の70年代中盤から80年代に掛けてのアルバム群。
その中でも以前ここでも触れた82年の珠玉のライブアルバム、
「パラスポルト」が1発目だ。
イ・プーを始めて知った思い出の作品で、昔良く聴き込んだアルバムだが、
やはり今聴いてもその豊かなメロディと確実な演奏力にはうっとりする。
70年代初頭のプログレッシブな時代では無く、
ポップでコンパクトな作品を生み出していた時代の作品が中心なので、
耳障りとしては欧米の産業ロックに近い感じのサウンドである。
実際メロディと云い、テクニカルな演奏と云い、欧米のバンドに引けは取らない。
しかしその哀愁溢れるクサいメロディは紛れも無くイタリアの音だ。
珠玉の名曲「あなた色のうた」で幕を開ける訳だが、とにかく客の声援が物凄い。
その熱狂振り、ヒット曲を合唱する一体感等、如何に彼らが本国で愛されているか、
如何に人口に膾炙されたヒット曲を量産しているかが良く解る。
「ヴィエンナ」等、一枚目の次々と繰り出される最新のヒット曲群も楽しいが、
やはり目玉は2枚目の古めのヒット曲の釣べ打ちだ。
プログレファンに一番御馴染みの「パルシファ」のバンドのみでの完奏、
そしてその後の初期のヒット曲のメドレーが最高だ。
「ペンシエロ」に於ける客の、「もう辛抱たまらん」感じで合唱される部分に、
国民的なバンドと呼ばれる彼らの人気の一端が垣間見える。
この時期のアルバムは殆んどがシングルジャケで、
イタリアが誇る特殊ジャケの醍醐味が殆んど無く紙ジャケでもそそられないのだが、
この「パレスポルト」は2枚組みだけ在ってゲートフォール物に成っている。
しかも昔聞いた日本盤のアナログでは仕様が違っていたのだが、
オリジナルは見開いた内ジャケのサウンドボードのメーター部分がくり抜かれ、
インサートの写真が覗ける様に成っている仕様だったのだ。
今回の紙ジャケ化ではミニチュア化による切り抜き部分の相違は在る物の、
オリジナルに忠実な仕様に成っているのが紙ジャケ冥利に尽きる出来だ。
しかしそのせいか、2枚組みの物にしても4千円超と少々値段が張る。
未聴のファンが気軽に聞けない値段は勿体無いがまあしょうがないだろう。

2発目はこちらも第1弾から少々時間を置いての発売に成った、
ドイツの前衛バンド、カンの「フューチャー・デイズ」だ。
カンのアルバムもシングル物が多く、見開きはアナログで2枚組みだった
「タゴ・マゴ」と今回発売に成った「アンリミテッド・エディション」位だったりするので、
紙ジャケ仕様としての面白みは余り無かったりするのが残念だ。
まあそれ以前にカンが国内盤として手軽に手に入るのが大事な訳で、
多分、音響系やクラブDJ好きの若いファンが手に取る事が多いだろう。
仕様から先に書くとシングルジャケながらコーティングされたジャケに、
文字や模様の部分がエンボス加工された、実は凝った細工が為されている。
工芸的な感じで中々美しい仕上がりなので店頭で是非手に取ってみて欲しい物だ。
さてアバンギャルドなカンのサウンドを解説するのは酷く難しい話なのだが、
「まとまり過ぎた」と、当のメンバー達が後に述べている様に、
静謐な音像が不思議なトータリティを持って描かれる、
カンと云うバンドが表すイメージを覆す様な、それでいてカン以外の何者でもない、
少し異質なポジションに有るアルバムだといえる。
半発狂のマルコムの歌を冷ややかに見詰るドイツ人と言った初期の感じも、
不思議でファニーな音感と憑かれた様な叫びを聴かせるダモに煽られて、
熱狂しつつも冷静に音を構築して行く中期の感じとも違う感じだ。
それまでが有ってこそ、この音に到達した訳で、
最高傑作だがこれから聴き始めるとカンのイメージを誤るかもしれない。
ベストアルバムと呼べるCD化された「サクリファイス1&2」にも、
トータリティの有るこのアルバムからは1曲も収録されていなかったりする。

さて最後は発売からかなり間が有るが、そろそろ店頭から姿を消し始めたので、
慌てて買っといた「サード・イアー・バンド」の「錬金術」。
サード・イアー・バンドを紹介する場合に、
よくチェンバー・ロックと云う言葉が使われる。
「室内楽的ロック」と云う感じだが、実はロックですらない。
昔、良く解らないままそのジャケと雰囲気の怪しさから聴く気に成った訳だが、
「何でこれがロックな訳?」と云う疑問がふつふつと沸いて出た。
今作のCDの解説に「エレクトリック・アシッド・ラーガ」とも書かれているが、
確かにそう呼んだ方が、まだ不可解さは和らぐと云うもんだ。
サード・イアー・バンドはロックで云う所の楽器編成が何処にも無い。
パーカッション、タブラ、チェロ、ヴァイオリン、オーボエ、リコーダーなど、
むしろクラシックに近い様な編成は確かに室内楽的である。
しかしそのサウンドは民俗音楽的と云うか、フリージャズ的と云うか、
或る意味、人力のメディテーション(瞑想)音楽とでも言う感じだ。
ビートも無ければ派手な展開も明確なメロディも少ない、
催眠的なパーカッションに薄暗い弦の音と暗鬱な管楽器がどんよりと流れる。
これをロック的なフィールドで発売しようとする所に、
当時のシーンの懐の深さを感じずには居れない。
ケルト的な螺旋文様に縁取られ「哲学の卵」の図を配した表ジャケも怪しいが、
中ジャケの遺跡と同化する様なメンバーの写真も相当怪しい。
尚、新たに書き下ろされたライナーと供に、かつてアナログ時代に添付されていた、
宮澤壯佳氏の異常に力の入ったライナーが再録されているのは嬉しい。
正にこれぞ正調なライナーで有る!この頃の解説者は良いなぁ・・・

さてストレンジ・デイズのレーベルから出た「スパイロジャイラ」買わねばな。
「イット・バイツ」とか「マリリオン」の紙ジャケはどうすっかなぁ?

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