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2006.06.29

「還珠姫/瓊瑤」

実は連続テレビの「還珠格格」は何度か観た事がある。
香港だったか台湾だったかに出掛けた折、丁度再放送していた。
しかもタイミングも良く最終回を含むラストの何回かで、
今思えば小燕子と紫薇にサイアが、それぞれの相手と轡を並べ草原を駆けていた。
如何にもおきゃんそうな趙薇の小燕子が中々微笑ましく、
あ~確かにこれは良いキャスティングだとか納得した覚えが有る。

「還珠格格」の話は勿論「少林サッカー」の趙薇のプロフィールで知った。
華流ブームのお陰で台湾ドラマが注目されている今とは違い情報も殆ど無く、
現地に行った時にでも確かめてみるか?と云う程度だったのだが、
確かに頻繁に再放送されているのを見ても人気の程が知れようと云う物だ。
ドラマの原作が人気作家の瓊瑤の手による物だと言うのもその時知った。
日本で紹介されている作品が割と昼ドラっぽい内容の物だった瓊瑤だが、
こう云う古装片っぽいのも手掛けるんだ?と少し意外な感じがした。
原作を読んでみたいが日本では出ないだろうと勝手に思い込んでいたが、
何と目出度く原作が「還珠姫」として徳間から出版された。
しかしこれ残念な事に抄訳と云う形での刊行に成ってしまった。
「人物の心理描写や展開が急だな」と感じる様な部分は有るし、
多分小燕子が宮廷内で巻き起こす騒動の幾つかが削られているのだろうが、
全編を知らないが故にさほど抄訳と云う違和感は感じられなかった。

話は完全に「王子と乞食」と云うか「とりかえばや物語」と云うか、
ある種、定石なパターンの作品で新鮮味は薄いが、
それが清代の宮廷内で行われると云う所が妙味と成っている。
清の全盛期で最も華やかだった乾隆年間が舞台で、
その乾隆帝の御落胤である紫薇と市井の孤児・小燕子が取り違われ、
天衣無縫な小燕子が宮廷で巻き起こす常識破りな騒動が描かれる。
勿論そんな小燕子を怪しみ正体を暴こうとする皇后との暗闘、
型破りな小燕子に魅かれて行く美青年の皇子との淡い恋、
計らずも入れ違ってしまった二人をどうやって元に戻すのか?
様々な要素が絡み合い、正しく金庸や古龍の武侠小説を読むが如く、
ページを繰る手が止まらぬ面白さであっという間に読了した。

最終的に総てがまるっと納まる所に納まる幸せな結末にホッとさせられる。
それから乾隆帝の聡明さと人間臭い描写も少し新鮮な感じがした。
「清」と「乾隆帝」と言えば武侠小説では殆ど憎むべき標的であり、
朝廷は「反清復明」を掲げる江湖の武侠達の共通の敵だったりする訳だ。
巻中に於いて巡行中の乾隆帝が所謂「大岡裁き」を見せる部分が有るが、
武侠小説描かれるのとは真逆な粋な計らいに何とも可笑しな気分に成った。

感触として70年代の少女漫画を読む様な懐かしさも有ったりして、
多分中華圏の少女達は小燕子の姿に自分を重ねてドキドキするのだろうが、
オッサンの立場からすると小燕子は余りにも無芸過ぎて少々鼻白む所がある。
例えば「鹿鼎記」の偉小宝なら智恵と言わぬまでも、
頭の回転の早い切り返しで窮地を脱する面白さが有ったりするのだが、
小燕子は無分別に状況を騒がすだけ騒がして只それだけと云う感じで、
本当に良い所は「天真爛漫で可愛いだけ」と云う感じがしてしまう。
むしろそれだと苦労人の紫薇の方に肩入れしたくなってしまう所だ。
まあそう云う所が読者が身近に感じられる様な所なんだろうが・・・
何気に「キャンディ・キャンディ」のキャンディに近い感じだろうかなぁ。

しかし徳間が抄訳をしてまで早々に出版させる意図と云うのは、
近い内に何処ぞで「還珠格格」を放映すると云う事なんかな?
う~ん今度新たに「楚留香伝奇」も制作されるとF4のワンフの皆さん騒いでるし、
是非とも地上波で放送して「チャングム」辺りに続いて欲しいもんだ。

Zhaowei

↑それこそ趙薇と言えば小燕子と云う位のもんでして・・・

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2006.06.22

夢幻紳士~逢魔編/高橋葉介

以前ここでも紹介したミステリーマガジン誌で連載している、
高橋葉介の「夢幻紳士」シリーズの新刊「逢魔篇」が順当に発売された。
前回同様、今回もコンセプチュアルな出来で、しかも更に話が凝っていて凄い。

夢幻紳士シリーズは基本的に短編集の形を取っていたが、
前回の「幻想編」そして今回の「逢魔篇」と連作短編とでも云う趣の作品だ。
何と話が前回の印象的なラストのコマから始まって、
総ての話が料亭の離れの一間で繰り拡げられると云うトリッキーさ。
しかもラストは再び「幻想編」同様夢の世界に還って行くと云う離れ業である。
掲載誌を意識してのトリッキーさなのだろうか?非常に面白い。

「逢魔篇」と云う事で今回は妖怪が話の主軸に成っているのだが、
夢幻魔実也が妖怪に祟られると云うよりは、
妖怪の方が夢幻魔実也に弄ばれて酷い目に合わされると云う話だ。
変に妖怪退治話に行かなかった所が作品の妙と云うか作者の腕の見せ所である。
今回もあとがきで妖怪同様、作者も夢幻魔実也に弄される所が書かれているが、
所謂これが「キャラさえ起っていれば自ずと話が動き出す」と云う奴だろうか?

話の途中から居座り、結局話の入れ子の構造の入れ物と成る、
半妖?の「手の目」が良い味を出している。
夢幻魔実也の底なしさに辟易しつつも魅かれて行く可愛らしさも良いし、
背中に居座る「牛鬼」のエピソードが最終回にも繋がっていて感慨深い。
多分今回キリの出演と成るのだろうが別の話でも読んでみたいキャラである。
他には1話目の「血塗れ心中」が「猫又」に繋がる件も面白い。
「猫又」の話によって1話目の女に仄かに情感が宿る所が見事。
杉浦日向子の「百日紅」に出てくる「瀧夜叉」の様な酒に酔わぬ芸者の真相話、
妖しげな女の情念を独自に折り込んだ「件」なんかも捨て難い。

それにしても高橋葉介の画力はまたも洗練されて来ている感じだ。
特に妖艶な年増を描いた時の筆のラインは見事としか言えない。
髪の毛や眉の輪郭に描かれた震える様な細いラインが、
極太の墨塗りと良くマッチして、唇の描写は浮世絵の様である。
「毛羽毛現」に出てくる女のアールデコの様な模様を描いた髪や、
その髪に縁取られて輪郭の消え失せた白昼夢の様な顔は、
デビュー作の頃の若々しさが戻った様にも思える。

また1年後には新作が見れるのだろうか?
どんな趣向で現れるのか、楽しみでしょうがない。

Oomahen

作者のサイトに掲載された「手の目」のイラスト↑

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2006.06.17

あのドラキュラが980円!

Dracula02


英国はハマー・プロ謹製の名作「吸血鬼ドラキュラ」が、
何とこの度980円と云うショック・プライスで再発されたので買い込んだ。
確か2年位前だったかハマー・プロの諸作品が渋いアウターケース付きで出て、
その中の目玉は当然「吸血鬼ドラキュラ」だった訳だが、
ごく普通に3980円辺りの価格設定だったと云う事で、
二の足を踏んでいる内にずるずると買わずにここまで来てしまったりした。
それだけにこの廉価版の発売は嬉しい。やはり洋画は待つに限るな!

等と例によって「しわい」話から始まった訳だが、作品は本当に最高だ。
ドラキュラ物の古典と言えばベラ・ルゴシ演じるユニヴァーサル作品と、
クリストファー・リー演じるハマー・プロ物に決まっている訳だが、
(あ、番外編としてムルナウとヘルツォークのノスフェラトゥもな、
ついでにそこに岸田森なんかも入ると更にカルトな)
モノクロ時代の気品のある恐怖演出で見せるユニヴァーサル版に比べると、
展開の軽快さと残忍な描写が増したハマー・プロ版は現代的だ。
そしてやはりベラ・ルゴシやボリス・カーロフ、ロン・チャーニーJrの如く、
役者と役柄が不可分に相俟ったクリストファー・リーのドラキュラが見事だ。
最近は「スター・ウォーズ」やら「ロード・オブ・ザ・リング」やら、
超大作に出演して「老いてなお御盛ん」な所を見せているが、
「ドラキュラ役者」としてだけ見られる事に色々と葛藤も有ったであろう。
しかしそれでも殆どの人が今ドラキュラとして浮かぶその顔は多分リー師の物だ。
今に成ってみればそれは結構幸福な事なのではないかと思う。
リー師が存命の内にアクション物に逃げない気品の有るドラキュラ映画を、
何処かで製作してくれん物か望む所だ。

余談だが子供の頃ハマー・プロのドラキュラはテレビで何度も見ているのだが、
これがビデオ全盛時に成ってみるとなかなかソフト化されなかったのである。
「ドラキュラ物は子供の頃テレビで何度も見ている」と言っても、
数有るドラキュラ物がごっちゃに成ってはっきり内容まで覚えてなかったりする。
ちゃんと原典を知ってから、かの名作を見返してみたいと思った訳だが、
そう云う訳でソフトが日本では未発売状態だった。
と云う事で当時思いを同じにしていた先輩と神保町の「ダンウィッチ」に出掛けた。
好事家なら誰もが知っている伝説のホラーキャッスル・ダンウィッチだが、
まあホラー映画専門のレンタルビデオ屋だったりする。
日本に入っていないホラー作品も馬鹿高い値段でレンタルしているここならば、
まあ名作と言われる「吸血鬼ドラキュラ」も有るだろうと踏んだ訳だが、
有った、有るには有ったがこれが地方のテレビ番組を録画したシロモノだった。
「こ~云うの有りなんか?」とか言いつつCMも入っているそれを鑑賞した訳だが、
正直テレビ放映版なんで何処かカットしてるんじゃないか?と疑っていたが、
今見返してみると結構ちゃんと放映してたんだ、と云う事に気付いた。

そのテレビ放映の吹き替え版を長らく観ていたせいで、
冒頭の「ジョナサン・ハーカーの日誌・・・・」の部分に、
どうしても吹き替えナレーションが重なってしまってしょうがない。
今と成っては何気にあの吹き替え版も欲しかった所か・・・
やはりVHSは棄てられんなぁ。

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2006.06.10

「下山事件・最後の証言」

名著「謀殺・下山事件」を読んだのは多分中学生の頃だと思う。
夢中で読みまくっていた探偵小説も主だった所を読み尽くしてしまって、
「さて何か面白そうなものは?」と云う感じで手に取った様に思う。
下山事件は確か同時代に発表された探偵小説で知ったのだと思うが、
勿論推理小説の延長線に実話物の迷宮入り事件を選んだに違いない。

怖かった。

とにかくぞくぞくするほど怖かった記憶が有る。
脳みそや内臓が散乱する轢断現場の図解もかなり怖かったが、
遺体の顔に付いた傷の詳細図等、稚拙な図解だけに怖さがいや増しだった。
探偵小説では怪奇な道具立ての中、大量殺人が行われる訳だが、
たかだか人一人が轢断された位で何故にこんなに恐ろしいのだろうか?
硬質なドキュメンタリーなだけに叙情性や感傷なぞは寸分も挟まず、
解き明かす度に錯綜して行く事実の列挙に只々圧倒されるのみだ。
そして事件現場が比較的自分に近い所だったと云う部分もある。
当時まだ国鉄だった頃の田端操車場は古い建物が多く残っていて、
勿論終戦後とは比べ様も無いだろうが、まだ闇が多く残る場所だった。
現場が頭に描けると云うのはやはり映像の喚起力が違うと云う物だ。
操車場の端を渡る踏切の上に立って下り方面を眺める時に、
湾曲する線路の果てに暗い物を感じる事は度々有った。

とにかく凄い本なだけにその後何人にも貸し出して来たが、
少なからず皆「下山事件」に不思議と魅了される所が面白かった。
その中の一人が昨年刊行された「下山事件・最後の証言」を貸してくれた。
この本の事も、その前に出た森達也の「下山事件」も本屋で見掛けてはいた。
しかし少なからず手が出なかったのは「犯人が身内」と云う様な部分に、
「トンデモ本の一種か?」と思わせるが如きニュアンスが感じられたからだ。
大体既に時効から何十年も経っていて今更新説など出るか?と云う思いも有った。
まあしかし「凄かった」と云う意見を信じて借りた本を読み始めたのだが、

・・・凄かった。

勿論関係者が身内に居たと云う僥倖は有るにしろ、
事件に関する取材や掘り下げ方等、驚くほどの執念には頭が下がる。
最初に下山事件の本を読んだ時に感じた事件の奥に広がる闇の深さに慄然としたが、
真相はそれ所では無かったと云う所だろうか?
あの時感じた闇はそれ以上の深さで読み手に迫って来る。
闇の発端は満州から始まって、張作霖から731部隊にまで延び、
そして戦後は明らかに清算されずに見事に今も続いて居ると云う訳だ。
期せずにして戦中・戦後・現代の闇を見せられた感じだ。
関係者の中に「革命を売る男」伊藤律の名前が出て来る所にも唸るが、
最近は米国になびかなかった日本には数少ないダンディな男として、
取り上げられる事の多い白洲次郎のダーティーな側面が垣間見れたのも面白い。

それにしても下山事件の本と言えば矢田喜美雄と松本清張位しか読んでなかったが、
その後も多くの人達によって事件が検証されていたと云う事実には驚いた。
この作者や矢田喜美雄の同僚の斉藤茂雄の様にこの事件にとり憑かれた人間は多く、
それだけ事件の孕む闇が人を惹き付けると云う事なのだろう。
それにしてもこの作者が新たに提示して来た推理には改めて唸らされる。
下山総裁自殺説の鍵である末広旅館の長島フクの事を、
作者の母が知っていたと云う部分にはページを繰る手が止まった。
闇夜に光るルミノール反応の蛍火が印象的な轢断現場の血の道の事、
そしてお馴染みロープ小屋の解釈などには納得される物がある。
更には矢田喜美雄でさえ事件の霍乱に一役買わされていた事実には唖然とする。

今作の白眉は事件の中心に位置する作者の身内が勤めていた亜細亜産業の主、
矢板玄との不思議な感覚に満ちた取材の部分だろう。
重大な事を事も無げに言い放つ矢板との駆け引きは実に面白かった。
しかし矢板玄、これが国士とでも言うのだろうか?悪党だが実に魅力的な男だ。
多分、頭山満や杉山茂丸もこんな感じの人物だったのではなかろうか?
正しく黒幕、正しく裏のフィクサー、正しく闇将軍である。

矢田喜美雄のある種ハードボイルドなまでのストイックさとは逆に、
激動の時代を生きた父祖や家族への想いが滲み出た今作は感傷的だが、
それ故に救いの無い時代の事実に拮抗する様に個人に優しい。
嫌悪しつつもモノクロのあの時代に対する愛情が垣間見える所が何とも言えない。

さて今作中でも事実の捏造を何度も批判されている森達也の「下山事件」だが、
そもそも今作の作者・柴田哲孝の話をまとめた様な本らしい。
その本人がしかもこれだけ重厚な作品を書き上げてしまった時点で、
森達也の本は完全に用を成さなく成っていると思うのだがな・・・・

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2006.06.05

霊的な再開発

Ruins01


人が死ねば墓が要る。
しかし土地には限りが有る。
そこで諸々の手段に講じる。
ロッカー式の墓だったり、ネット上の墓だったり。
しかし一番原初的な方法は古人の墓所を横取りする事である。

と云う訳で都内の古い霊園では今、霊的な再開発が進行中だ。
江戸開闢の歴史と供にある谷中墓地は将軍の菩提寺・寛永寺と供に出来た霊園だ。
現在でも歴代の将軍の巨大な墓所が幾つも残っているが、
それと似た様な規模の幕臣やら眷属やらの墓が幾つか残っていた。

庶民にしてみれば何故にこの様に巨大な墓所が必要なのかは解らないが、
苔むした巨大な石碑やら灯篭が並ぶ一画は往時を偲ぶには格好の場所だった。
風雅な文人は墓所に在りて墓を眺めつつ散策し、
故人に思いを馳せる事を記し「掃苔録」等と称したと云うが、
久し振りに墓所の深い所に足を踏み入れてみたら斯様な惨状が目に付いた。

石塀で囲われた鬱蒼とした巨大な墓所の幾つかが、
モノの見事に破壊され分譲されかかっている。
古木が切り払われ白日の下に晒された歯抜けた墓所は何とも言えぬ風景だ。

しかしどうなんでしょうなぁ・・・これ。
確かに無駄に成っている土地の有効活用と云うのも有るんだろうが、
霊園的に言っても墓の存在意義とかって殆ど感じられない風景だと思うのだが。

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