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2006.07.24

「メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー」

Metal


研究などと云うものは料理と同様に、美味しい素材を用意した時点で、
その中身の半分は決まった物だと言うが(本当か?・・・)
その伝で言えばこの映画の旅人と成る人類学者のサム・ダンは、
そのネタを選んだ時点で成功はほぼ決まった様な物だろう。
「何故世界的に大規模な支持者を持ちマーケットも成立している
へヴィ・メタルと云う音楽が、世間に唾棄され馬鹿にされる対象に成るのか?」

その問いに答を出す為、サムは世界中にフィールドワークの旅に出掛ける。
それは恰も独自の文化を築く未開の部族(トライブ)を訪ねる学者の旅の様だが、
一つ違うのはサム自身もそのトライブの一員だと云う事だ。
話はまず最も身近な自分自身のメタルへの拘りを確認する所から始まる。
この映画が抱える諸刃の刃な部分はその視点が完全にメタルの側から描かれる事だ。
メタル・ヘッズと云うトライブの仲間に注がれる若干ロマンティックな視点は、
ややもすれ外部の人間から観たら鼻白む部分だと思う。
まあしかし学説であるのならそう云う視点の偏りはマイナスと成る部分では有るが、
事ドキュメントとして見た場合主張するべき視点は明確な方が良い。
何にしろサム自身が現在進行形のメタル・ヘッズだと云うのは非常に大きい。
とにかく拘りの大きいマニアが多く居る世界なだけに、
中途半端な知識と通り一遍な知識だけでは当のマニアの方から拒絶される筈だ。
過去に公開されたその手の映画でもマニアとして納得出来ない出演者や、
見当外れな選曲などで失望させる事が多かったものだ。
その点この映画は出演者と云い選曲と云い申し分の無い出来なのが嬉しい。

メタルの起点を題目に語られる、リフ・マスター、サバスのトニー・アイオミや
同郷の英雄、ラッシュのゲディ・リー,その話で流れるブルー・チアーの映像、
ショック・ロックの元祖として登場するアリス・クーパー辺りは基本で、
アイアン・メイデンのブルース・ディッキンソン、モーターヘッドのレミー、
モトリー・クルーのヴィンス・ニールや小さな巨人ロニー・ジェームス・ディオ、
トゥイゥテッド・シスターのディー・スナイダー辺りは普通なのだが、
スリップノットのコリーとショーン、アーク・エネミーのアンジェラ・ゴソウ、
酒が入ってグダグダなメイヘムの連中やエンペラーのイーサン等ブラックな面々と、
この辺は最近のトレンドも知らなければ登場しない連中なだけに流石だ。
VoiVodのピギーの在りし日の姿が見れると云うのも泣ける。

その辺のミュージシャンに加え、業界関係者、DJ、出版に係わる連中、
社会学、文化人類学、社会心理学、教会関係者(笑)等の皆さんに、
やはり傍から見ると結構イタそうな一般のメタル・へッズの皆さん等々、
独自の視点で語られたメタルと社会の関係論が面白い。
メタルの歴史と事件を簡単に俯瞰する意味でも興味深い内容である。
しかしそれにもましてやはりライブ会場のPAの様に大音量で流される名曲の数々、
モーターヘッドの「Ace Of Spade」にはついつい足がリズムを取ってしまうし、
アクセプトの「Ball To The Wall」にはついつい首が前後に揺れる始末だ。
やはり小難しい事は抜きにして要はあの「音」な訳だよなぁ・・・・

さて「何故メタルは嫌われ馬鹿にされるか」と云う問いを日本人として解釈すれば、
大筋の所は多分この映画と同じ理由に拠る所が大きいのだろうけど、
日本では「お笑いのネタの一つ」に堕されたと云う部分が挙げられるだろうか。
基本的に人間は正体の不明な物に対して分類して安心すると云う所が有る。
それは特に日本人が好んでやる部分で有ったりする訳だが、
メタルが一般に全盛を誇ったあの頃に、バラエティ番組のコーナーの中で、
ニューハーフやマッチョなどに混じってメタルが登場した事は大きい。
ある種メタルのパブリック・イメージを徹底的にカリカリチュアライズした姿で、
バラエティ番組に貢献していた「メタル軍団」な連中のお陰で、
一般に「あ~そう云う物なのか?」と認識された事が要因の一つで有る気がする。
一般人云う所の「メタルって・・なんでしょ?」とか
「メタルって・・・しちゃいけないんでしょ?」的な物言いに代表される奴である。
それによってメタルを愛好する人間は更にコミュニティの奥に住まう様になった。
昔は自分の好きなアーティストで笑いを取ったりネタにしたりした物だが、
笑われた経験から妙に潔癖と云うか生硬なコミュニケーションしか取れない、
余りにもハード・コアなファンが多く成ってしまったのも事実だ。
専門誌で少しでもお笑いの入った企画をやると批判されると云うのにも現れている。

ちなみにそのバラエティ番組で中心に成っていた「エックス」は、
出て来た所も、やってる音楽も、その格好も完全にジャパメタの一端なのに、
その後「ビジュアル系」なんぞと云う曖昧なジャンルに逃げ込み、
相変わらず音楽は典型的なジャーマンスタイルながらメタルから隔絶した。
それも一つの方法だからまあ否定も肯定もしないが、
北欧の某バンドが日本でライブをやった時に、日本で売れている曲だからと、
エックスの曲をカバーしたが観客の反応は殆ど複雑だったそうだ。
「え~だってあれメタルでしょ?」とは某バンドの発言。
・・・そ~なんですけどね、ま~色々とある訳ですよ・・・

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2006.07.17

ヘヴィな夏の2枚

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さていつもは紙ジャケばかりをを紹介しているこのブログだが、
今回は普通に最近発売されたヘヴィな新譜を取り上げようと思う。

もう既にひと月で恐るべし数の紙ジャケが普通に発売される様になって、
よほどの待望作でもなければ中々追い付けない様な状況に成っているし、
大概紙ジャケは限定盤な故に、買い逃がして居る奴も無くなる前に即買いだしで、
ここの所は買い逃がしている旧譜を中心に買っている状態だ。
勿論紙ジャケの新譜もそれなりに買っているのでいずれ取り上げようと思う。
(って何かいつも誰かに言い訳してるような感じだわなぁ・・・)

さて最近かなりヘヴィー・ローテーションで聴き込んでいるのが、
この夏お馴染みのフェス、サマー・ソニックにも参戦が決まった、
米国出身のアヴェンジド・セブンフォールドの「シティ・オブ・イーブル」。
こ奴らは前作まではメタル・コアに近い様な音を出しているバンドだったそうだが、
それが本国では待望の新作に於いて劇的にその音のスタイルを変えた。
某専門誌に言わせれば、正に日本市場ど真ん中ストライクな音と云う奴だ。
確かにルックスを観ただけでは喰い付く筈は無い様な昨今のバンドなのだが、
そこまで言われるんなら聴いてみるか?と云う感じで店の試聴台に出向いた訳だが、
いや~もうそりゃあ1曲目のサビの部分で打ちのめされた。

日本では普通にジャーマン・メタルとかパワー・メタルと云うスタイルの作品が、
それこそ元祖のハロウィンの頃から連綿と聴き継がれて来ているが、
「メタル否定」のグランジのお陰か、米国ではすっぽり抜け落ちている部分である。
それが隔世遺伝なのかどうか知らないがいきなり不毛な米国シーンで発芽したのだ、
それもスタイルや音のエッジは昨今の米国のトレンドっぽいスタイルをまとって。
普通にジャーマン・スタイルと言った場合には流石に音に隔たりは有るが、
確かにこの音を説明する場合、ジャーマン・スタイルとしか言えぬ部分は有る。
まあ細かい事は抜きにしても、理屈抜きにキッズの首を振らすに足る出来なのだ。
これを日本人が好まんでどうすると云うのかね?と云うべき問答無用の1枚である。

邪悪そうなイントロからミッドテンポでグルーヴィに盛り上げて行き、
分厚いコーラスが重なるキャッチャーなサビに雪崩込む1曲目で掴みはOKだが、
更に驚かされるのがツインリードでハモりハモられる流麗なソロ。
あくどいまでにツボを押えたそのメロディアス加減につい頬が緩む。
そして曲間を挟まずに立て続けに繰り出される2曲目のイントロ、
ツインリードでピロピロと奏でられるパッセージは、
オッサンには懐かしく若い衆には新鮮な必殺のメロディである。
そしてダウナーながら聴かせる3曲目から1stシングル曲のポップな4曲目、
メロコアの様な疾走感で勢い良く走り抜ける5曲目までの前半の流れが素晴らしい。
後半は一転スローダウンしてまったりとした曲が続くが、
それとてもアコギとパーカッションによるエスニカルなパーツが有ったり、
バラード調の曲では何と、生のストリングスやオケまで挿入される。
勿論クラッシックとの融合等と云うプログレの様な難解さではなく、
飽くまでも曲をドラマティックに盛り上げる為のアレンジな訳だが、
そこまで金を掛けている所からしてレーベルの期待も違うと云う感じだろうか?
それからこいつらの曲は従来のAメロ→Bメロ→サビ→ソロの様な流れではなく、
Aメロ×2→サビ→Aメロ→ソロみたいな独自の曲調に成っているのが面白い。
ある種ベタな音楽なだけにそう云う部分で従来のパターンを崩している訳だ。

それと似た様な事はバンドのルックスにも言える事で、
これで長髪にスパッツ姿だったりするとある種の既視感も有ったりするのだが、
実に昨今のアメリカの若いバンドらしいというか、そこも微妙に外してると云うか、
黒ずくめにタトゥー入りまくりで、おまけにゴスっぽい化粧までしている。
プロモで観たのだが、ベースの奴なんてデヴィロック・ヘアだったりするし、
お前はミスフィッツか?と突っ込み入れたくなる様ないでたちだった。
しかしふと思ったのだがこいつらのメロディアスさの源泉って、
勿論ジャーマンは入っているにしろ、メロコアの影響も大きいんではなかろうか?
ある種のメロコアは曲の展開的にメタルに接近して来ているバンドも多いし、
どちらかと云うとそちらの方が地理的には有り得そうな感じもするのだが・・・・
まあ何にしろアメリカからこう云うバンドが出て来たと云う事実が面白い。
聴いてるキッズ達には自覚は無いだろうが、確かにアメリカでメタルは来てるな。

もう1枚はアメリカで絶大な人気を誇る暗黒の探訪者トゥールの最新作。
オジー・オズボーン一家の馬鹿騒ぎを追ったMTVの「オズボーンズ」にて、
ヘッドホンを付けたまま寝込む馬鹿息子のジャックに親父のオジーが、
「ヘイ、ジャック。パパはビートルズが好きで一日中聴いていたが、
寝る時は止めてたぞ!なのにお前は寝る時までトゥール聴いてるのか?」
等と嘆いていたが、事ほど左様にトゥールの存在感は大きい。
そんな暗闇の中で間欠泉の如く吹き上げる漆黒の蠢きが気持ち悪いトゥールの、
期待感溢れる4枚目に当る新作「10,000DAYS」な訳だが、
彼らの場合どう考えても一度聴いた位でその輪郭は掴めない。
未だに荒野に響く読教の響きを追いかける様な具合に聞き続けている訳だが、
雑誌のアルバム評に言われる様に今回は割とエッジの起ったメロが耳に付く。
一つ一つのパーツを取り出してみれば畏れるほどの難解さではないが、
これがアルバムとしてのパッケージに納まると見事なまでの闇に包まれる。
ゴブリンの「サスペリア」の如き不穏な爪弾きで始まる冒頭から、
チベット密教の和讃の如きメロディにスキャットが重なる中間へ、
そして荒涼とした大地があげる唸り声の如きSEが響くラストまで、
実にトータライズされた煉獄さ加減に感嘆する事に成る訳だ。

そして何と言っても素晴らしいのが実に凝ったそのCDのパッケージだ。
とにかく手に取っていただかないとその凄さは感じられないと思うが、
所謂ステレオ・カメラ形式と云う覗きメガネ形のジャケに成っているのだ。
ブックサイズのジャケに二つのメガネが付いていて、
それで中身の二枚の写真を眺めると立体画像が見れると云う寸法な訳だ。
発想した奴も凄いが、流通させる事にOKを出したレーベルも大した物である。
過去のトゥールのアルバムも何らかの特殊仕様に成ってはいるのだが、
ここまで大掛りな特殊仕様は中々お目にかかれる物ではない。
システム・オブ・ア・ダウンのメズマとヒプノの合体ジャケにも驚いたが、
流石に今回の奴は店頭で唖然としたもんだ。

紙ジャケに代表される様に、アナログ・ジャケの芸術性は語り尽くされているが、
正直CDであってもデザイナーの頭の捻り様で如何様な物でも出来る筈である。
音楽をダウンロードしてくるだけでは味わえないパッケージとしての美しさ、
その可能性を感じさせてくれるこのCDには計り知れない価値が有る。

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2006.07.10

怪談専門誌「幽」第五号発売

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さて時まさに怪談の季節を向かえ、滞りなく「幽」の5号が発売された。
「何号まで続くのやら」等と失礼な事を常に文頭に持って来た「幽」だが、
さすがメジャーな出版社だと云う事か?号を重ねる毎に充実して来ている。
創刊号に比べるとかなりのボリュームアップで、毎号どんどん厚く成ってる感じだ。
さて今回の巻頭特集はお馴染みの作家シリーズを離れて、
日本の夏と言えば「化け猫」と云う訳なのか「猫の怪」に成っていた。
非常に味の有る紙芝居「猫三味線」をイントロに持って来て、
橘外男の幻の怪談作品「私は呪われている」を持って来るまでは良かったが、
(ちなみに昔、古書店の通販で「私は呪われている」を入札したのだが、
見事に外れて非常に悔しかった思い出が有ったりする因縁の作品だ。請う復刊!)
お馴染みの紀行シリーズの「猫神様の島にて」がどうにもしまらない内容だった。
まあ怪猫と言えば久留米の有島、佐賀の鍋島辺りだがそれを外したのは良いとして、
正直その宮城の「猫を神様として祭る島」と云うのが余り魅力が感じられない。
取材成果の薄さをお馴染みな加門先生の「見える話」で茶を濁したと云う感じだ。
まあ確かに他で書いたネタとの重複を避ける意味で難しい所だったとは思うが、
ここはやはり作家シリーズで続けるべきだったのでは無かろうかと思う次第だ。

第2特集の「実話と創作のあいだに」は福澤徹三とデルモンテ平山の対談を中心に、
「実話怪談」を読み物とする上での創作態度等が語られているが、
これも既に「怪談の学校」なる怪談創作の本が同じ版元から出版されているが故に、
やはり喰い足りない内容に成っているのは致し方ない所だろう。
ただ前々号の時のブログでも書いたが、かなり印象の強かった福澤徹三の「食卓」。
これのメールで来たネタ元の文章と創作への変換を対照した部分は面白かった。
やはりあの「ふぁんふぉ~ん」はひらがなで書く方が印象が怖い。
それにしてもデルモンテと福澤の2人は強面過ぎ。

などと特集について文句ばかり述べてしまったが掲載作は相変わらず面白い。
今回結構楽しめたのが有栖川有栖の「テツの百物語」。
所謂世間的には目立たないが潜在的には物凄い数に成るテツ(鉄道オタク)ネタだ。
話される怪異自体は左程怖くは無いが、上手い所を発掘して来た妙味が楽しめる。
小野不由美の「マリオネット」はその画ずらを想像すると物凄く怖い。
毎回安定した怖さでお馴染みな安曇潤平の「山の霊異記」だが、
今回も「8号道標」がゾクゾク来るほど怖い、やはり山は異界だよなぁ・・・
新連載の工藤美代子の「日々続々怪談」は怖いと云うより哀しい話だ。
こう云う儚げな怪異もある種怪談の醍醐味であるが、しかし切ない話である。
今回も素晴らしい出来で安心して読めるのが山白朝子の「鬼物語」。
日本の中世辺りを舞台に小さき物と異形との関り合いが物悲しく恐ろしい。
毎度埋れていた「知られざる傑作民話」を読まされている様な気分に成る。
山白朝子はどうも覆面作家の様だが今度は長編を読んでみたいもんだな。

「新耳袋」の両人の連載は毎回面白いが今回も非常に良い出来だ。
プロのカメラマンと心霊写真との関わりなど成るほどと思わせるし、
北野誠と行く「やじきた怪談旅日記」は今回も怪異に遭遇出来なかったが、
人の殆ど通らない山奥のトンネルが内装工事され白色灯に変えられていた事実に、
そこで殺された少女の鎮魂の跡を見る部分が何とも言えぬ恐ろしさだ。
昔ながらの隧道さながらの旧旧トンネルに散乱する袋入りの粗塩もイヤな感じ。
そして寡聞にして今回始めて知った多摩川調布堰の奇怪な事件。
昔友人が住んでいたのでその近辺には出掛けた事は有ったが地理的には不明な所だ。
その多摩川ダムで昭和29年に起こった異常に連続した水死事故、
そして慰霊碑を建立した32年のその日の晩に起こった水難事故、
死体が見付からない事件が多いと云う不可解さも何とも云えぬ底怖ろしさを感じる。
科学的な見地からこの場所が危ないと云う事は指摘されている様だが、
それにしても不可解な事件が頻々と起こっているのが不気味だ。
以上は小池壮彦の「日本の幽霊事件」の記事である。

さて最近東雅夫が係っているオンライン書店の「bk1」で、
「ビーケーワン怪談大賞」と云うのを募っている様だが、
いずれはこの「幽」でも実話(創作)怪談を募集するのではないだろうか?
そんなこんなで広がりまくっている実話怪談の裾野だが、
こうなって来ると何処まで広がるのか楽しいやら怖いやら・・・・

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2006.07.06

「嫌われ松子の一生」

昔、世間的に号泣必至と言われたビョーク演じる牛乳瓶底眼鏡女が堕ちて行く、
女工哀史的映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観た友人が、
「あ~なんつうか、境遇が悲惨過ぎて笑える」と無意識過剰な感想を述べていたが、
「嫌われ松子の一生」を観てふとその事を思い出した。
(そういえばミュージカル映画と云う部分も共通してるな・・・)

勿論ビョークの方は不幸に外的な要素が強いから受ける悲惨な印象も強いが、
松子の方は自分で導いた運命故の不幸と云う感じなのでその点は素直に笑える。
しかし「だめんずウォーカー」等と云う作品が回を重ねているが如く、
世の中には見事に駄目な男の方に、男の方に、転がって行く女が多い。
勿論その転がって行く男の数だけ駄目で最低な男も多い訳だが・・・

そんな松子の生涯は、みのもんたの説教もビタ一文入り込む隙も無い駄目さ加減だ。
正に正統派、教科書の様な堕ち方な訳で、そのベタさ具合が爆笑なのだが、
それと云うのも映画の描き方が小ネタを散りばめたコメディだからであって、
物凄くシリアスに描いたら壮絶に陳腐な作品に成ったのではないかと思う。
その点でこう云う方向を当初から考えていた監督は大した物だが、
それでは原作の方はどうなんだろうと?と本屋でパラパラ読んでみたら、
何と!かなりシリアスな内容の作品な様だ。
原作で泣いた様な連中は映画がこんなんで大丈夫なんだろうか?
(しかし作家志望の男と同棲して暴力を振るわれ自殺されるなんつう、
昭和初期のメロドラマみたいな設定で、原作読んだ奴は失笑しなかったのか?)

まあとにかくこの映画は中谷美紀の鬼人の如き高テンションな演技に圧倒される。
監督は「男が変わる度に違う女のつもりで演じてくれ」と指示したそうだが、
その振幅の激しさには演じる方もかなり消耗したのではないかと思う。
若い頃のブリブリとした感じも不気味で良いが、
やはり堕ちて行くに連れ、どんどんスレて行く表情と口ぶりが上手い。
最終形態はもう顔も体型も中谷美紀が演じる意味が無い壮絶さだが、
激慌した時の叫び声なんぞは中々真に迫った狂気が感じられた。
それから面白哀しい部分な訳だが、危機が迫った時に「タコちゅ~」顔に成る、
と云う設定は最後の方まで使って欲しかったな~と思う。
それに加えて子供時代の松子を演じた子役が非常に上手かった。
父親の笑い顔を得る為に必死に「タコちゅ~」顔する所など可笑しくて泣ける。

所で最近の日本映画で良く有るTVのバラエティ番組の如き小ネタの散りばめは、
鑑賞する客の年代や国籍なんかを選ぶので歓迎出来る風潮ではないと思っている。
この映画の豪華ゲストを配した脇役陣にもそう云う感じが無きにしもあらずだが、
単純に「イイ顔の人間を集めてみた」と云う風にも取れるので、まあ良しだろう。
スカパラの谷中敦などは良くここにこの顔を!と感心するキャスティングだし、
劇団ひとりの奥さん役で松子に勝ったと思わせる顔のオアシスの大久保など最高だ。
中でも脇役で一番感心したのは極妻風なAV女優兼社長の黒沢あすか。
惚れ惚れする様な気風と口跡の良さで後半を見事に持って行っている。

しかしミュージカル・シーンの極彩色でドリーミィーな映像は、
冗談のようにゴージャスで悪夢観そうな程くどくどしくて最高である。
時代に合わせて歌謡曲を使ったり、トルコ嬢ボニー・ピンクが歌うロック調、
刑務所内でAIが歌うヒップホップ調と、音楽の選択も非常に楽しい。
それと供に松子の最後や、八女川が電車自殺する部分などで、
変に映像で誤魔化したりせずにキチンと残忍な部分を描いているのが良い。
転がり落ちた八女川の足が履いてる靴下の親指部分に穴が開いている描写など、
キチンと意味の有る描かれ方がされていて感心するところだ。

しかし「下妻物語」といい「嫌われ松子の一生」といい、
中島哲也・・・実に稀有な存在の監督である。

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