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2007.05.31

鬼が来た!

Maziora01


昨年の秋頃に予約受付して以来、何度もの発売日延期を繰り返し、
待ちに待ったと云うよりは、半ば忘却し掛けていた様な所に持って来て、
よ~やく発売された・・・メディコムの「ProjectBM・仮面ライダー響鬼」が!

何気に家に届く前から不穏な噂の数々は聞いていた。
「スーツの素材がタイト過ぎて関節の可動が著しく悪い」とか、
「シュッ〆の手が付いてるのに、シュッ〆のポーズが取れない」とか、
「メディコムは見本通りに造れんのか!」などなど・・・・

と云う訳で取り出して動かしてみて色々やってみて感じたのは、
「まあ確かに動きは悪いが、所謂G・I・ジョーとかってこんなもんぢゃん?」
(例えが古くて申し訳ないが、この響鬼は所謂アレのフィギュアなんすよ。)
と云う様な感想である。

メディコムのアクション・フィギュア製品を買うのは初めてなので、
他のフィギュアに比べて、この「響鬼」がどうだとは言えないのだが、
スーツ素材の事を考えれば可動の犠牲は致し方無いのではないかと思う。
このフィギュアの目玉はテレビ用のスーツと同様のマジョーラ・カラーであり、
本物のスーツのパーテーションをかなり再現した新素材のスーツなのである。
所謂あのテレビで観た質感を手元に持てると云う部分が眼目で、
その為に広範囲な可動を犠牲にした、と云う風に理解したい。
そもそもこう云う高価な物で「ごっこ遊び」をするとは思わないし、
思い思いのポーズを付けて飾って悦に入ると云うのが大方なのではなかろうか?
まあ確かに「シュッ〆」が出来ないのは問題だが(うちのは出来ました)
やはり立ち姿の美しさ、玉虫色に輝くマジョーラのスーツは文句無しだと思う。

それより気に成るのが手首の交換パーツに付いてなのだが、
アレって他の製品もあんなに汗かくほど付けたり外したりが大変なんだろうか?
まあアレだけ着脱が大変だと手首がグキッと成る事も無いだろうが、
ドライヤーで温めないと先端パーツが入って行かないと云うのがどうも・・・・
それからS・I・C・でさえやってた事なんだし、変身音叉は別個に造型しないで、
角が可動する様な物を作って欲しかったと思うなぁ・・・
箱から出して飾って置くぶんには問題無いと思うけれど、
箱に入れて置くとスーツの素材がブリスターに癒着して塗料が剥げそうである。
マジョーラ塗装の経年によるひび割れや剥離も気に成る所だ。
それから個体差で単に家に来た奴がアレなんだろうけど、
ベルトは中央に来る様に造れよ・・・・基本だろうが・・・(^^;

以前メディコムのこれが出たら「正に究極の1品に成るだろう」と書いたが、
S・I・C・とか装着変身とか他の響鬼の可動玩具なんかと比べてみると、
どれもまあ一長一短と云う感じで未だ決定打は無しと云う感じの結論に到る。
出来も良いし色々と遊べて楽しいが、所詮は玩具な装着変身。
スタイリングは抜群で可動範囲も広いしグッズも豊富で最高だが、
動かしてると方々がポロポロと外れまくってイライラするS・I・C・。
質感はスーツその物でリアルだが遊べる幅が狭いメディコム。
・・・・と云う感じだろうか。
まあ質感に関してはS・I・C・展のみの限定商品では有ったが、
マジョーラ塗装の響鬼が出たので、ややS・I・C・の方が優位かな・・・

しかし何にしろ響鬼の優美で革新的なスーツのフォルムはやはり素晴らしい。
これだけはどの商品に関しても共通する要素なのは間違いない。
願わくばもう一度、鬼達がその身を輝かせて自然の中を走る姿を観てみたいな。

Maziora02

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2007.05.28

「龍虎門~ドラゴン・タイガー・ゲート」

Dragontigergate


ようやく公開されたマニア待望の「龍虎門-ドラゴン・タイガー・ゲート」。
頭に「かちこみ」とか云うどうでも良い邦題が付けられてたりする。
今回は最近のパターンとして「字幕版」と「吹き替え版」の2本が公開されたが、
吹き替え版にはどう見ても関係無さげなアン・ガールズが吹き替えをやっていたり、
イメージソングとか云う括りで、気志團の「OneNightCarnival」が使われたそうだ。
・・・しかしヤンキー唄と何のイメージの係りも無いと思うがなぁ・・・
まあそれにより公開劇場の数が増えるのは悪い事では無いけど。

この作品、現地の奴なら問答無用に著名な漫画の映画化と云うのは有名だが、
香港に行き始めた90年代の初頭に、現地で購入した事が有る。
香港の漫画は所謂アメコミ同様のプロダクト方式で作られていて、
一人の作家が殆ど総てを手掛ける日本と違い、
原作・脚本・線画・着色・効果・などを専門職が分業して作られている。
刊行形式もアメコミ同様の薄っぺらいB5版の冊子にて週間で売られる。
なので、たかだか1週分の冊子を買った所で話の内容は全く不明だったし、
当時はその漫画がどの位の歴史が有るか等解り様も無かった。
最初期の「龍虎門」の表紙を香港漫画のクロニクル本で見た事が有るが、
「コロコロ・コミック」辺りに載ってそうなギャグ漫画風な絵で、
書いている人間が代っているとは云え、余りの作風の違いに驚いた。
まあ香港のコミック事情を書いているとキリが無いが、
それだけの有名作品なだけに、現地と日本での受け止められ方は全く違うだろう。
と云う訳で飽くまで映画としての「龍虎門」を観て行きたい。

やはり最初に感じるのは上映時間の短さだろうか?
いや香港映画なら決して短いと云う訳では無いのだが、
別に2時間くらい有っても良かったんじゃなかろうか?と思う短さだった。
と云うのも中心と成る三人のキャラを起たせるまで描かれていない気がするのだ。
やはりこれは原作を知っている側には必要無いと感じた部分なんだろうか?
甄子丹扮する王小龍は当然主役なだけに一番見せ場も多い役なのだが、
世話に成った「江湖」を脱け「龍虎門」に戻ろうとする動機が余り見えて来ないし、
その希薄さ故に葛藤する部分がこちらに迫って来ない感じがするのだ。
謝霆鋒扮する王小虎は登場シーンこそ華々しく印象的だがその後が続かない。
その後は強さより甘さが際立ってしまう所が非常に残念だ。
三人の中では多分、余文樂扮する石黑龍が一番人間的な部分を描かれていた。
生意気な態度を「龍虎門」に入門する時点で打ち砕かれたお陰で、
飄々とした中に宿る熱さと優しさが表出した感じで非常に良く描かれていたと思う。
そんな訳でもう少し王兄弟の心の襞が描かれていても良かった様に感じる。

まあ同様の事はそれぞれのヒロインたちにも言える事で、
総体的にキャラを描き切れて居ない、もしくは描き切る時間が無かった様に感じる。
それは多分日本人の我々が良く知った漫画原作の映画を観る時に感じるが如く、
原作を上手くトレース出来てるか否か?ばかりに視点が行ってしまって、
そもそものキャラの性質を二の次に考えてしまうのと同様の事なんだろう。
やはり原作を知らない人間には、その辺がネックと成ってしまう。

アクションに関しては流石に甄子丹!と言えるハイクラスな出来だった。
甄子丹に関してはもはや言う事無しの美技と気迫に圧倒されるが、
今回感心させられるのはやはり謝霆鋒と余文樂のがんばりだろう。
なにせ原作では「龍虎三皇」と称される武術の達人たちを演じる訳で、
現地のファンが求めて来るレベルもかなり高い物が予想される訳だが、
爽やかなルックスと供にかなり高度なアクションを見せてくれたと思う。
始まってすぐの海上レストランで披露される打点の高い謝霆鋒の足技、
巻き込まれた日本料理屋で炸裂する余文樂のけれん味有るヌンチャク技など、
アクションに掛ける若手の並々ならぬ意気込みと心意気にグッと来る。
なので最終決戦以前に、彼らの瑞々しいファイトをもう少し観たかった所だ。

さてハイライトと成る最後の火雲邪神との戦闘シーンに関してなのだが、
アクション的にはCGを使った凄い物なのだが、映画的にはやや不満が残る。
火雲邪神を演じているユー・カンは甄子丹のチームの1員で、
アクションの質とか甄子丹との相性なども文句無い人なのだが、
なんせ火雲邪神と云う存在がこの映画の中では異常に曖昧な存在であり、
その仮面のせいも有るのだろうが、単に強い敵の象徴と云う風にしか見えて来ない。
なので最終決戦に於ける死闘のカタルシスが著しく減じている気がするのだ。
現地の人気漫画の映画化と云う事で、当然制作側も意識していた事だろうが、
郭富城と鄭伊健の主演による名作「風雲~ストーム・ライダー」が前に有る。
「少林サッカー」に先立つ、映画CGに於ける漫画表現を確立した傑作だが、
あの作品が傑作足る所以の一つに最終決戦の相手が千葉真一だった事が挙げられる。
造形的に似ていたと云うのも有るが、あの作品での千葉真一は圧倒的だった。
あの千葉の存在感がCGに溢れる漫画世界を映画に繋ぎ止めていた楔だったと思う。
残念ながらこの映画に欠けているのはそう云う存在感なのではないかと思った。

あと個人的に残念だったのが、最近多くなって来た大陸の女優の起用だ。
馬小靈を演じた董潔も羅刹女を演じた李小冉も、当然悪い訳では更々無いが、
やはり出番が少なくなっているだけに香港の女優に出番を与えて欲しかった。
「龍虎門」の師匠である王降龍を演じるのは最近格の上がった元華だ!
まあ元華の経歴とテクニックを考えれば別に何ら違和感が有る訳では無いが、
「功夫」からこの方、馬鹿作品への出演ばかりを見ているので少し微妙な感じが。
でもって映画を観終わった後に指摘されて驚いた事が、
「江湖」の馬坤役が、かのショウ・ブラザースの武打星・陳觀泰だったと云う事。
流石に「功夫」の梁小龍(ブルース・リャン)に比べれば現役感は強いので、
滅茶苦茶驚いたと云う訳ではないが、そこに甄子丹の心意気を見る思いがした。

最後に、主役3人のレトロ・ポップな衣装が中々カッコいいのだが、
これは王家衛映画でお馴染みの張叔平が「形象顧問」として手掛けていた様だ。
特に袖無しGジャンにボロボロのセーターを組み合わせた石黑龍の衣装が最高だ。
しかし話の設定が微妙に現代・・・と云うか近未来と云うか謎な感じで、
別にそこにレトロな衣装をまとわせる事なかったのではないか?と思うのだが・・・
まあその辺のトータル・コーディネイトの緩さも香港映画らしい所では有る。

話では「龍虎門2」の制作も決まったらしい。
甄子丹以外のキャストはまだ未定だがどんな規模に成る事やら・・・
原作は長大に続いているだけに続編のネタにも困らないだろう。
やや不満の残った一作目で有るが、人気シリーズとして続けば面白く成りそうだ。
是非とも石黑龍が活躍するスピンアウト・シリーズなんかも企画して欲しい。

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2007.05.21

「西尾正 探偵小説選」Ⅰ・Ⅱ

Nisio01

年齢的な物なのか、フィクションを余り読まなくなった。
意図している訳ではなく、自然と手に取る物にフィクションが少なくなっている。
別に「物語」に倦んだ訳ではないのだが、実際の人の生き様に興味が有るし、
そう云う物に余分に感情移入出来るほど馬齢を重ねてきたと云う所かもしれない。

戦前や戦後の探偵小説を読む楽しみも、実はそんな部分が有ったりする。
勿論書かれた事件の背景や世界観、当時の世相や風俗も面白いのだが、
それ以上に今では殆ど知る人も居ないであろう作者の生涯が、
作品の背景に透けて見えて来る様な所になんとも言えぬ面白さが有るのだ。
そう云う訳で、評伝が書かれている様な有名作家はいいとして、
たった数編を残しただけで、経歴も解らない作家などに興味惹かれるし、
当時の好事家の中でのみ、その名前が知られていた様な作家などもいい。
そう云う点では今回、作品集が刊行された西尾正などはうってつけの人である。

西尾正の作品はアンソロジーに採録された作品を読んだのが始めだったと思う。
本書の巻末の解説を読むだに多分、鮎川哲也編「怪奇探偵小説集」が最初だろう。
同じく鮎川哲也の「幻の探偵作家を求めて」にも西尾の章が有るが、
掲載作家の一人として読み過ごしていた様に思う。
(余談だが、この名著も文庫化するなり手に取り易い形で再刊して欲しい物だ)
光文社文庫から出ていた「幻の探偵雑誌①「ぷろふいる」傑作選」にも、
西尾の「陳情書」が掲載されていた様なのだが余り記憶に無い。
「西尾正」と云う名前を始めて意識したのは多分、
雑誌「彷書月報」の「探偵小説の迷宮」特集を読んでからだと思う。

その中に「西尾正と単行本の無い探偵小説家」と云うページが有る。
アンソロジーに採録される事は有っても、単行本が出ていない作家は実は多い、
その中でも執筆者の記憶に残っていたのが西尾正だったと云う話であった。
「西尾正は、その余り多くない作品の総てが、異常な人間性から起こる、
怪奇と幻想の世界を書いたもので・・・」と執筆者に解説されていた。
そう云う異形な作風が執筆者の記憶に強烈に焼き付いていたのだろう。
自分もそんな部分を読んで、俄かに「西尾正」の名前を記憶したと云う次第だ。
そうする内、05年に刊行された東雅夫編の「日本怪奇小説傑作選②」に、
西尾の経歴と供に「海蛇」が採録され、興味深く読んだ。
「これは何としても他の作品を読んでみたい!」と思っていた矢先、
生誕100周年を記念する本年に論創社の「論創ミステリ叢書」から、
西尾正初の作品集が2冊に分けられて出版されたのである!これは正に快挙だ!

西尾正は「亀の子タワシ」でお馴染みな西尾商店の一族らしい。
裕福な家庭に育ち慶大卒と云うしっかりとした教育を受けていながら、
生まれながらに虚弱体質で、度々鎌倉に避暑を兼ねた療養に出掛けており、
後に鎌倉に居を移し、終戦を挟んで後、結核で四十二と云う若さで死去した。
書かれた作品の殆どが鎌倉及びその周辺を舞台にしているのはそのせいである。
それ故に他の作家に無い独自の雰囲気が流れて居る所も特徴に成っている。
創作と供に掲載されている探偵小説の評論などを読むと、
中々に舌鋒鋭く、理知的に作品を分析する理論的な部分が有るのだが、
書かれた作品はと云うと、所謂探偵小説の王道な機械的なトリック等は殆ど無く、
有ったとしても非常に牽強付会な物が多くて、そのギャップが面白い。
作品の資質を、その作家の環境に求めてしまうのはややイージーでは有るが、
病床の合間に書かれた故だろうか、人間の暗い情念が渦巻く妖しい作品が実に多い。
西尾は評論の中で「昨今の探偵小説の不振な状況を変えるのは、
やはり乱歩ではないか?」と云う様な事を述べているのだが、そう云う点も含めて、
王道の探偵小説を模索しながら結局「猟奇」にまとわり憑かれた乱歩の姿に、
己と同じ様なシンパシーを感じていたのではないかと思ったりもする。

さて肝心な作品の方であるが二巻読み通してみて感じるのは玉石混交と云うか・・・
石の方が結構多い感じな内容であった。
しかし、石ではあるけれどこう云う機会でしか読めない作品だったりもするし、
傑作選として編んでいれば其れなりに形には成ったであろうが、
西尾の作品をまとめて読める形にした所は評価すべき所だと思う。
そして内容がどうであれ「彷書月報」で大場啓志氏が書かれている様に、
「好みと評価は別事なのがファン気質」と云う所に尽きると思う。

西尾は野球が好きで、地元でもよく草野球に講じていたりしたらしいのだが、
そう云う趣味を生かした野球絡みの作品が上巻に二編収められている。
「打球棒殺人事件」と「白線の中の道化」がそれだが、
これは中々今に劣らぬ当時の野球に熱狂する市民の様が伺えて面白い。
どちらも大学野球で前者はつとに有名な「早慶戦」が舞台に成っている。
何せ当時はエンタツ・アチャコの漫才に成る位の大イベントだった訳だが、
こうして作家の筆に成る神宮の緊迫した空気は中々に新しい発見だった。
が・・・作品としては非常に腰の砕けた作品でトリックも言うべき所無しである。

他にもコントの様な作品や時代掛ったメロドラマなんかも有るのだが、
やはり白眉はアンソロジーにも取り上げられている鬼気迫る作風の、
「骸骨」「青い鴉」「海蛇」辺りに止めを刺すだろう。
憑かれた男たちの妄念が奇怪な結末を辿る「骸骨」も良いが、
生霊が映し出されるフィルム、災いの象徴の如く不気味な鴉、
静かな海辺の街で淫蕩な女を巡って剣呑な関係に陥る二人の男、
鴉の拡げた災いの翼の下で起こる惨劇が不気味な「青い鴉」が特に印象に残る。
ただ個人的に怪談話の小品とでも云う「床屋の二階」、
夢野久作を髣髴とさせる奇怪で残酷な因縁談である「線路の上」、
そして倫敦を舞台にした牧逸馬風ハードボイルドな「放浪作家の冒険」などは、
曰く言い難い味わいで非常に好きである。

続いて戦後の作品を集めた二巻を見てみると、
戦前に書かれた物と比べて、かなり理に落ちない怪奇物が増えている。
戦前の物は怪奇的な筋立てで有っても解決に探偵小説らしい結末が着いていたが、
掲載誌の関係も有るのだろうか?其の物ズバリな怪奇小説が多い。
しかしそれこそが作者の質に有っている様な気がするし、
現代的な眼で見れば中々興味深い作品は多い。
勿論、伝統的な探偵小説の味わいを持った作品も少なくない。
「跳びこんで来た男」「試肝会奇譚」「女性の敵」等がそんな所だろうか。
個人的に「試肝会奇譚」は落語調な語りと怪談実話的な味わいが楽しかった。
「怪奇作家」も「女性の敵」同様な現実が創作を模倣する風な犯罪譚なのだが、
デビュー作から作者が耽溺する「ドッペルゲンゲル」譚が効果的に使われ、
昨今のメタ・ミステリーに通じる奇怪な話が興味をそそる。
同様に垢抜けない話だが「路地の端れ」も入れ子細工形式な話が面白く、
夢の中の風景や狂人のモノローグが夢野久作風で楽しめる。
「地球交響楽」と「幻想の魔薬」は供にSF風な奇妙さが横溢する話だ。
「幻想の魔薬」はネタが馬鹿馬鹿し過ぎて別な意味でトンデモな話だが、
(これビジュアル化したら壮絶に下らなくて面白いだろうなぁ・・・)
「地球交響楽」はマッドで天才的な音楽発明家による、
森羅万象を音に変換する「完全音楽」と云う狂った発想も素晴らしいし、
最後に語り手の眼前で繰り拡げられる結末の、やるせなさも最高だと思う。

さてこの巻の中で個人的に一番興味深く読んだ作品は「墓場」である。
東雅夫氏がこの作品を「米国のパルプマガジンに掲載された作品に想を得た」
「異色な作品」と書かれていたが、確かにかなり毛色の変わった話である。
舞台が完全に異国の話で、それを語り手が聞くと云う風に話が進行するのだが、
それ故に海外の話の翻案とも読めるバタ臭さが「異色」な所以であろう。
良く有る設定では有るのだが、怪異が具体的な姿を露にしない所が面白い。
今では普通に良く使われる手法だが、日本的な因果応報話が多い西尾の著作の中で、
いきなりこの様なモダン・ホラー的な怪異が飛び出す所に驚かされる、
そう、これは恰もラヴクラフトを祖とする「クトゥルー神話」の如き話で、
素知らぬ顔でアンソロジーに加えておいても何ら違和感を感じぬ作品で有る。
その様な部分を敏感に感じ取っての、東氏の指摘なのではないかと思う。

と云う訳で、実に資料的にも素晴らしい作品集が完成した訳だが、
やはりネームバリューと云い、作品の質と云い、価格の事と云い、
気安く何も知らぬ者に薦められる様な書籍で無いのは確かである。
しかし是非とも出版社にはこのシリーズを続けて行って欲しい物だと思う。
先の「西尾正と単行本の無い探偵小説家」の中に列挙された作家の中では、
まだまだ闇に埋れた知られざる強豪達が数多く居る、
一人でも多く発掘し光をあてて欲しいものだ。

最後に個人的な要望だが、植民地時代の台湾を舞台にした探偵小説を執筆した、
人類学者・金関丈夫(林熊生)の作品集を何処かで出してくれんだろうかな・・・
日本植民地文学精選集の〔台湾編〕にまとめられているのは知っているのだが、
なにぶん現物は見掛けないし、個人で買うには高価過ぎるし・・・なのである。
多分、例の「外地探偵小説集」の台湾編辺りに再録されそうな気はするが、
これなど更に望み薄そうな作品集では有るわなぁ・・・・

Nisio02

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2007.05.14

カーヴド・エア・驚異の紙ジャケ

Curvedair01


「メジャー所のバンドの面白い紙ジャケは殆ど出尽くしたかなぁ」などと、
先日UKのレコード・ジャケ・アート関係の本を読んでいて思ったりした。
(何処かで読んだような書き出しですか?記憶に無いですなぁ・・・・(-_-;)

まあ勿論アレもまだコレもまだと、有名所ではないバンドを挙げる事は出来る。
十字型に展開すると巨大なトーテムポールが出て来るHeavenの「BrassRock」とか、
複雑なシェイプでお馴染みなHawkeindの「In Search Of Space」だとか、
開くと盾の形に成る同じHawkwindの「Warrior On The Edge Of Time」も有る。
確か以前に紙ジャケ化されていた様な気もするが持ってないので再発希望な、
フェイセスの「ウー・ララ」も有ったりするが、
なんせ「コレは無理かも」なファミリーも紙ジャケ化されてる訳だしな・・・
等と思っていたら、残ってました、結構肝心なバンドの変形ジャケが。
「カーヴド・エア」の1stと2ndってまだぢゃん!おぉ~!!
等と嫁の粗を見付けた姑の如くほくそ笑んでいたら・・・出ましたよ。
それもまあ、実に素晴らしい再現度の見事な紙ジャケが!
・・・・と云う訳で今回はプログレ最後の秘境?カーヴド・エアの紙ジャケを御紹介。

今回再発されたカーヴド・エアの紙ジャケは、所謂黄金期の初期三枚。
オリジナル・メンバーのダリル・ウェイとフランシス・モンクマン在籍時である。
この後バンドはVoのソーニャ・クリスティーナを中心に活動し、
解散・再結成を繰り返し、6枚のアルバムと1枚のライブ盤を残している。
後期にはソーニャの旦那でも有った「ポリス」のスチュアート・コープランドや、
これが初仕事と成ったエディ・ジョブソンなど錚々たる面子が顔を揃えていた。
初期三枚以降の4thの「エア・カット」は権利の関係で長らくCD化されなかったが、
去年(だったか?)に目出度くCD化され、それ以降も紙ジャケ化されていて、
実に待望の初期作の紙ジャケ化だったりする。

まずは1stの「エア・コンディショニング」であるが、
これは特殊ジャケと云うよりは特殊盤な、所謂ピクチャーレコードと云う奴である。
元々SP盤の時代からピクチャー・レコードは子供向け中心に作られていて、
その辺の技術に関しては日本のメーカーが特許を持っていたりするのだが、
今作はロックのアルバムでは「初」と言われるピクチャー・レコードだそうだ。
デビュー前から注目を浴びていた彼らのデビュー作に予約が殺到し、その数2万枚!
内1万枚がピクチャー盤でその他は普通の黒盤にジャケ付きで発売されたらしい。
ピクチャー・レコードは当然ジャケが付属せず、
ビニールケースに入ったまま流通していたので、紙ジャケもそれを再現している。
写真では解り辛いかも知れないが、パッケージの大きさが30%ほど大きい。
つまりCDの盤面を入れる円形のケースが普通の紙ジャケよりやや大きめに作られている。
表面はCDの盤面で再現出来るが裏面はCDの構造上プリントするのは無理なので、
一廻り大きな円形のケースが裏面の方を兼ねると云う仕組に成っているのだ。
普通にCDを丸のまま出して「ピクチャー・レコードの再現です」と言わなかった所に、
今回の紙ジャケ化の意義が有ったりする訳である。
だもんで付属のライナーも円形のライナーで、ちゃんとケースに納まる所が可愛い。
しかしCD屋の棚に収納不可なこの大きさは、バンコの壷以来かなぁ・・・・

そして2ndこそジャケ工芸の極致と言えそうな美麗な変形ジャケ作品である。
バンド名から「虹」を意識した様な淡いパステルカラーのグラデーションが、
切り抜かれた窓から段階的に覗いて行く冊子状な仕組に成っている。
こう云うブックレット的なデザインだとファミリーの「ヘルプレス」を思い出すが、
何とこれは一枚の紙を折りたたんだだけのデザインで構成されているのだ。
実際に展開してみるとそれほど複雑な工程で作られている訳では無いのだが、
窓の部分の切れ込みが非常に良く出来ていると感心させられる。
展開すると出て来る裏に印刷された写真なども芸が細かくて感心する所だ。
今回の3枚は皆発売当時の帯が再現されているのだが、
この2枚目だけは所謂ジャケを包み込む様なカバー状の帯が付いていて、
解説の書かれた裏側に、わざわざジャケの折り方等が書かれていて微笑ましい。

さてそんな驚くべき2枚に比べると3rdは如何にも普通なシングル・ジャケである。
「不思議な国のアリス」に出て来る芋虫を描いたイラストは表裏共通であり、
字体の同じ文字で表にアルバムタイトル、裏にバンド名が記されている。
まあその控えめで上品なデザインが邦題のサブタイトルである、
「ある幻想的な風景」と云う言葉にマッチしていると言えない事も無い。
内袋も付属しているがカンパニー・スリーブと云う訳でも無い、普通の無地の物だ。

さて肝心のカーヴド・エアの音の方なのだが、これが中々難しい所だ。
昔からこのバンドの総合的な解説を読んでいると、
評論家の方々も結構扱いに困っている様に見受けられる。
バンドの変遷と供に音が変化して行くのは別に不思議な事ではないのだが、
彼らは既に最初の段階から焦点が絞り切れていない様な音を出しているのだ。
プログレと云うには妙にコンパクトでポップだったりするし、
ポップなバンドと云うには妙に重厚でクラシカルだったりするし、
クラシカルと云うには妙に実験的なクラウト・ロックっぽい所も有るし、
そして実験的と云うには妙にフォーキーなかそけき歌を聞かせてくれるし、
これらは偏に、中心メンバーであるソーニャ、ダリル、フランシスの嗜好が、
余り重なる事無く発揮されている事によるのだろう。
それでも1stなどはまだまだ結成して間も無いだけに歩み寄りが見れて、
歪なりにも伸び盛りなバンドとして勢いで聞かされてしまう所が有るのだが、
2nd、3rd辺りに成るとA面B面をダリルとフランシスが別け合う様に成ってくる。
バンドの「売り」である、ダリルのヴァイオリン演奏が入っていない曲も有り、
まとまりの付かなさは相当なものである。
しかしそこまで言われると相当駄目なのか?と云う感じだが、
やはり個々の楽曲やバンドとしての佇まいは絶対的に素晴らしいのである。
「今日突然に」の豊かなメロディとポップなサビには心躍るし、
「ヴィバルディ」の攻撃的でクラシカルなダリルのヴァイオリンは最高だ。
大ヒットした「バックストリート・ラヴ」のリズム・チェンジは楽しいし、
「心のかけら」に於ける緻密な構成力には唸らされるし、
3rdアルバム全体の、所謂ファンタジックでは無い淡い幻想性にも魅かれる。

個人的には可憐と云うより弱々しく聞えるソーニャのVoと、
異常に奥に引っ込んだ感じで聞えるリズム隊には余り馴染めない所だが、
それは「エア・カット」後に一度解散してのちの再結成でのライブ盤で払拭される。
とにかくこのライブ盤でのソーニャのアグレッシブな歌い廻しには驚く。
がなると云うか吼えると云うか、パワフルに歌い倒す様にかつての可憐さは微塵も無く、
昔憧れの深窓の令嬢が、バツ一の肝っ玉母さんに成っていたのを見るが如くである。
それに伴いダリルのヴァイオリンも挑発的に激しく鳴り響き、
リズム隊も抉る様にソリットなプレイを聞かせてくれる。
だもんで個人的に一番のお薦めはこの75年のライブ盤だったりするのだが、
この3枚の内ではやはり聴き易さと若々しい可能性を秘めた1枚目に成るだろうか?

ちなみに色々と書いたが当時のソーニャ嬢は素晴らしくコケティッシュな美女である。
余り写真を見掛けないのだが、宣材写真には露出の多いカットが多い。
当時の彼らの爆発的な人気にはソーニャ嬢のこの美貌が加わっていた事を、
忘れていてはいけないだろう・・・ボンクラは常に美女に弱い・・・・

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2007.05.07

仮面ライダー響鬼の事情

Hibikibook01

納得の行かない終り方をしたあの番組に対する決着を皆何処かで付けたがっている。

それは一視聴者から制作者まで共通した思いの様だ。
この本の著者は係った創成期の頃を書き記して決着を付け様としている。
自分もその一人として当然この本を手に取り、再びあの番組の事を考える。

いやぁ~面白い本が出たもんである。
こう云う本が出る事自体番組の持っていたポテンシャルの現われと云う事だろうか?
著者の片岡力氏は「文芸協力」とクレジットされる位置に居た人で、
番組のプロデューサーである東映の高寺氏に乞われて参入した、
番組立ち上げから放映開始寸前まで参加していた外部のライターだった人である。
5作まで続いた平成ライダーシリーズに変わる新しい番組のブレインとして、
従来の路線を踏襲する事無く、新しい方向を模索した「完全新生」を掲げて、
話は「変身忍者・嵐」のリメイクと云う方向から始まる事に成る。

番組終了直後に出た響鬼スーツの写真集「魂」の末尾のページに、
高寺Pやデザインチームの談話による番組の創成期が語られていたので、
大まかな流れとしての制作秘話的な事は了解していた。
しかしかなりな量の没プロットや内部資料で窺い知る制作の裏側は凄まじい。
ここに出て来るプロットの幾つかは詰めて行けば普通に面白そうな話に成りそうで、
勿論番組としては不可能で有っても漫画やアニメなら通りそうな企画が多い。
「変身忍者・嵐」のリメイク案は是非何かに使って欲しいくらいだ。
しかしそんな甘い素人の助平心がプロの世界で安々通る訳は無く、
様々な要素で企画自体が変転して行く所がこの世界の難しさだったりする。

しかしヒーロー番組である事の難しさと云うのは想像を絶する物がある。
新たな案が出される度に乗り越えるハードルの高さに、
読んでいてもウンザリさせられる所が多い。
例えばスポンサーである所の玩具会社の玩具展開に於ける問題の数々。
番組のタイトルや細かい設定が決まっていない状態で玩具製造上の様々な工程の為、
早い段階で主力と成る変身玩具や武器の事を決定しなければいけないらしく、
毎年こんな綱渡りの様な事をしているのだと思うと空恐ろしくなる。

何処の世界でも業界の裏側は人知れぬ苦労が絶えないとは思うが、
「子供番組だからお手軽」ではなく「子供番組だから更に大変」と云う事は、
もう少し知られても良い事実なのではないかと思う。
人気俳優のスケジュールを押えたら、後は人気漫画の原作をアレンジして・・・・
と云う風な昨今のドラマと比べても劣る所など一つもないのだから。

番組の設定を詰めて行く前半の部分は「3歩進んで2歩下がる」状態で、
読んでいても中々に重苦しい感じがするのは確かなのだが、
見慣れた設定が数々現れようやく番組が形に成って行く後半は読んでいても楽しい。
屋久島で決まるOP、お馴染みな鬼達のコードネーム、細川茂樹の登板、
各キャストのオーディション風景、そして長瀞での媒体撮影と駆け足に進む。
しかしその晴れやかな舞台が著者の最後の仕事に成ると云う皮肉に、
著者の無念さが際立つと云う感じだ。
それ故に放映後の1、2話を見た著者の意見などは中々興味深く読めた。
響鬼のプロフェッショナルな部分を強調して欲しかった著者は、
1、2話での響鬼の行動に賛同する部分と違和感の部分を持っていた様なのだが、
そう言われた部分を改めて見返しても個人的に余り印象は変わらなかったりする。
放映された内容が総てな一視聴者として、観て来た物を信じるしか無い訳だが、
こうして「有ったかも知れない姿」を知る人の意見を拝見出来るのは楽しい。
叶わぬ願いで有るだろうが、やはりこうなったら高寺氏の書いた物も読んでみたい。
まあ実現出来たとしても何十年後かに「過去の仕事を振り返る」と云う、
回顧録的なスタイルの本しか出来ないだろうから、本書の様な「熱」は無いだろう。
そう云う点で制作者・視聴者の記憶も新しい「今」この本を著した意義は深い。
しかし現在(多分)最後の響鬼本であろう編集中の東雅夫氏の「響鬼探求本」だが、
こう云う本が出た事でまた内容の変更迫られるのでは無いだろうか・・・・

さて本書のタイトルを聞いた時点でファンはある種の事に思い至る筈だ。
そう、それは番組途中での高寺Pの降板とその後の展開についての事。
冒頭の「はじめに」でその事に着いて本書は触れていない旨を述べているが、
営業上そう云う臭いを何気に漂わせているのは隠し様が無いと思う。
勿論、一読者として事実を知りたいと思うのは確かな事なのだが、
例え高寺Pが係り続けていたとしても、内容の変遷は有ったであろう事は、
極端に二転三転して行く放映前の内実から窺い知れる。
(だからと言って後半あそこまで腰砕けな物に成ったとは思わないが)

著者は番組開始直前までしか係っていなかったから、
実際に検討されていたであろう後半の展開がどうだったのかは書かれていないが、
明日夢少年が響鬼に弟子入りしないと云う展開のまま、
納得の行く結末が迎えられたかどうかは、結構疑問視する様な部分だし、
本編の方でも非常にうやむやに処理されていた魔化魍側の仕組など、
高寺Pが係っていたとしても龍頭蛇尾的な結末に終りそうな要因は多い。
自分も含めて、不本意な要素で番組が改編された事で、
見る事の無かった本来の結末に幻想を抱いている部分が有るのは確かだ。
まあ無論あのまま奇跡的な結末が待っていた可能性も有る訳で、
多分その幻想はこのまま萎んだり膨らんだりを繰り返し続けるのだろう。
そう云う意味では最強のメタ・フィクショナルな特撮番組に成ったと云えるだろう、
高寺氏が決着を付けるまでは・・・・

結果的に不本意な形で「完全新生」の夢は挫折し、
現在も何変わる事無く「仮面ライダー」シリーズは続けられている訳だが、
その試みは間違いなくスタッフの心に生き続けていると思える。
響鬼の次作こそ、完全にセオリー通りな平成ライダーである「カブト」だったが、
(イケメン揃い、メタリックな外観、ライダー同士の闘い等、余りに従来通り)
今作の「電王」などは完全にこれまでのライダーとは違う質感の作品だ。
勿論、響鬼に比べればマスクの造型(左程意味は無いが)バイクに跨る所など、
極端にライダーのイメージを損なってはいないが、
敵側であるイマジンの力を受けて闘う「デビルマン」方式なところとか、
俄かに信じられなかった電車を取り入れた話などかなり異質な設定である。
そんな「電王」の設定の成立要因には間違いなく響鬼の経験が生かされている筈だ。
それは最初から躊躇無きまでにクライマックスな飛ばしまくりの内容と、
それでも従来のファンを取り込んでいける要素や設定のバランス感覚に表れている。
いつもなら多く聞かれる「これがライダーなのか?」と云う声より、
開始直後からの圧倒的な賛同の声に視聴者の「新生」への期待も伺える感じだ。
勿論まだまだ話は序盤な訳でこれからどう変化して行くのかは解らないが、
響鬼での経験則を生かした製作者側のしたたかな「新生」への思いを信じたい。

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