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2007.06.25

道を迷う愉しみ

Meisou01


道に迷う愉しさと云うのが有る。
勿論そんな大それた話では無く、単純に道が解らなくなる話だ。

それが深山の奥とか見知らぬ異国での出来事なら洒落に成らぬ話だが、
何の事は無い交通の便の良い都会での話である。

昔、閑と体力に任せて東京の主に下町辺りを走り回っていた、自転車で。
何故自転車なのかと云うと、単に金が無く体力が有ったからと云う事だ。
なので昨今の自転車ツーリニスト等とは全く違い、
普通の変速機も付いていないママチャリでだらりだらりと走っていた。

東京は広い・・・・
東京に住んでいると云っても総てを網羅している人は殆ど居ない筈だ。
そして都会と云うのは、実は思った以上に入り組んでいる。
特に新興住宅街ではなく、昔から続く古い街並は入り組み方が結構凄い。
そこに住んでいる人間でも、意外に活動範囲外は知らない事が多い。
3年も住んでいて、駅と自宅と繁華街以外は全く行った事が無い、と云う奴も居た。
基本的に歩く道筋はいつも同じで、そこから外れる必要はない訳だが、
そのもう一本先の道が面白かったりするのだ・・・まあ人にも拠るが。
道一本隔てて様相がガラリと違うと云うのも都市の面白さだったりする。

行った事の無い場所に行く時に、まず頼りにするのは幹線道路だろう。
車の為の道路表示板が有るし、駅など有れば場所が確認し易い。
何度か幹線道路を走っていると、何時しか気に成る場所や道が出て来る。
街を走っていて気に成る、所謂コクの有る場所は大概裏路地に有るのだ。
裏路地に進路を取ったら、何はともあれ道の向くまま気の向くままに・・・
古い木造家屋が並んでいる辺りを過ぎると不意に良い塩梅の看板建築が現れたり、
忘れ去られた様な古い社に今も明々と灯明が起っていたり、
区画された道とは関係無く蛇行する道に、かつての川筋を連想したり、
調子に乗って足を延ばしていると必ず自分が何処に居るのか見失う。

差し詰め今ならGPS携帯等と云う便利な物も有るし、
勿論当時も必ずポケットサイズの東京の地図を持ち歩いてはいたが、
そう云う物に頼るのは相当切羽詰った時で、基本は走りながら道を探す。
この時の、何とも寄る辺無い不安な気分が何とも云えず愉快なのだ。
まあ道に迷ったとは云え、何にしろ明るい都市の只中である。
状況から脱しようと思えば脱け出す手段は幾らでも有る。
例えば単純に「人に道を聞く」とか・・・・
しかし飽くまで自力で解決出来る所にまで辿り着きたいのだ・・・しかも閑だし。

そして何度か失望を味わいながら見知っている場所に辿り着けた時の感覚!
「成るほど!ここに出るのか」と云う様な発見が喜びに変わる瞬間だ。
そこで点から点だった土地が、自分の中で面積へと変わる訳である。
勿論とんでもない場所に辿り着いて半泣き状態で帰途に着く時も有る。
足立の辺りを走っていて迷って着いた先が埼玉だったりした時は気が遠く成った。
それでも相変わらず止め様としなかったのは余程性に有っていたのだろう。
ふと迷い込んだごく有り触れた路地裏に、
まるで時代から忘れ去られた様な祠などを発見する驚きはいつでも新鮮だ。

Meisou02


さて先日久し振りに道に迷った、所は勝手知ったる浅草の辺りである。
三ノ輪から山谷、待乳山、浅草に掛けてはそれこそ繰り返し廻った所だ。
よもや迷うまいと云うたかを括って暗い方・狭い方へと入っていったらやられた。
路地を右に入り左に曲がりしている内に方向感覚が狂って来た。

刻はあたかも「かわたれ刻」、闇がしっとりと街並みを浸し、
開け放たれたほの明るい民家の窓から洩れるテレビの音声が妙に淋しげに響く。
少し混乱している方向感覚とは裏腹に、心は不思議に浮き立ってくる。
変な話、こう云う感覚と云うのは自分で演出するのは殆ど不可能だ。
人々の群がる都会で、不意に存在を喪失して行く様な寄る辺なさと快さ・・・

けれどそんな感覚は曲がり角を曲がった瞬間に一瞬にして消失する。
見知らぬ異界の様だった街角は、路地を隔てて見知った街角に入れ替わるのだ。
日常とたった一本道を隔たった所に不思議な感覚を醸し出す場所が併在する、
そう云う感覚がたまらなく好きで、また見知らぬ路地に迷い込む事だろう。

Meisou03

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2007.06.18

夢幻紳士~迷宮編/高橋葉介

Yosuke001


最初に書店で手に取った時、帯に「夢幻魔未也、完結!」等と書かれていたので、
「うっ!夢幻紳士終るのか?」と少々焦ったりした。
まあ勿論、掲載誌を替えて長々と生き延びてきた「夢幻紳士」の事、
そんなに簡単に幕が引かれる事は無いだろうとは思っていたが、
「完結」ってなぁどう云う事った?と云う感じで読み始めた訳だが、
なるほど、確かにこれは思いも拠らなかった形である種「完結」していた。

今までの所「夢幻紳士」は「冒険活劇篇」「怪奇篇」とシリーズを重ねているが、
幻想篇」「逢魔篇」そして今回の「迷宮篇」と続いた今回のシリーズは、
結局3冊合わせて一つの話に成っている。
(便宜上、掲載誌に合わせて「ミステリマガジン」版とでもしておこうか?)
本刊のあとがきで、作者は例によって「夢幻魔未也自身の気まぐれ」と言いながら、
作者自身も「まさか三部作に成るとは思わなかった」と独白しているが、
読んでいるこちらも、よもやそう云う展開が待って居ようとは夢にも思わなかった。
それも中々巧い具合に話が繋がっていて、ある種嬉しい驚きである。
勿論夢のあわいの中で語られる様な話なのでもとより整合性は求めていないが、
それでもきちんと最初の最初に話が帰結して行く展開にはウットリさせられる。
作者の(夢幻氏のか?)鮮やかな手並に「完結」の文字は確かに相応しい。
なので前の2作が未読の方は是非とも前作にあたってから読まれる事を薦める。

以前「逢魔篇」が出た時にブログの記事にこの様な事を書いた。
『 夢幻紳士シリーズは基本的に短編集の形を取っていたが、
前回の「幻想編」そして今回の「逢魔篇」と連作短編とでも云う趣の作品だ。
何と話が前回の印象的なラストのコマから始まって、
総ての話が料亭の離れの一間で繰り拡げられると云うトリッキーさ。
しかもラストは再び「幻想編」同様夢の世界に還って行くと云う離れ業である。』

勿論今回も前の二作品同様のスタイルで話が進んで行く訳だが、
更にシリーズの完結篇として世界観をもう一度大きく連環させている。
謂わば「入れ子」構造の更なる「入れ子」とでも云うか、迷宮化も極まれりだ。
そう云うトリッキーさはこのシリーズの一つの特徴で、
「幻想篇」の各短編のタイトルが有名な映画作品から採られていた事に始まり、
「逢魔篇」はタイトル通り妖怪の名前がタイトルに使われ、
「迷宮篇」は短篇の表紙とタイトルがムンクの絵画から採られている。
今作の総ての作品がムンクから来ているのかは検証してないので解らないが、
まあ今までのパターンからするとそこまで統一しているのでは無いかと思う。

今作は巻頭の四話くらいまで連作ながら独立した話が続く。
しかし五話目に「逢魔篇」で活躍した「手の目」が現れる辺りから様相が変わる。
(ちなみに四話から登場するこの少年の名前「本郷義昭」と父の妄想話は、
山中峯太郎描く日東の剣侠児や、押川春波作品が元ネタなのは間違い無いだろう)
続く六話に登場するのは「迷宮篇」の前に出た作者の別短編集、
「夜姫さま」のタイトル作に現れる、夜を駆ける幻想少女なのだ。
そして今回はその少女をヒロインとして、連作のキャラ達が再び相見える。
夢幻魔未也が思わぬ騎士振りを発揮した「幻想篇」のヒロインに迫る更なる危機、
そこに到って今作の一話目から夢幻氏に降り掛かる怪異の源泉が垣間見える。
夢を媒介とした悪との拮抗を制するのは果たして?・・・・

最後に寝床に集まる各作品のヒロインたち、勿論待つは夢を操る漆黒の騎士。
鮮やかな手並で夢魔を葬った漆黒の騎士に「夜姫」の少女は尋ねる。
「最後に聞かせて頂戴、あなたの名前を聞かせてよ」
実にこの鮮やかなラストシーンを迎えた事で、彼は実に其の名に相応しい、
「夢幻」魔未也と云う存在に成ったのでは無いだろうか?

さてそれではついでにその「夜姫さま」が出て来る短篇集も紹介しておこう。
「夜姫さま」はぶんか社の「ホラーM」と云う少女漫画誌に連載された、
グロテスクで幻想的な連作短編集である。
「鷹姫さま」「泥姫さま」「闇姫さま」「井戸姫さま」などなど、
怪奇的だったり、寓意的だったり、紙芝居風だったりと多彩な表現で女妖を描く。
最後の最後に夢幻氏が特別出演する、殆ど「夢幻紳士」の世界な「沼姫さま」、
作者の資質の一つである、悪乗りした悪趣味なギャグ物の「星姫さま」、
作者が手掛けた「学校怪談」を思い出すポップな「口裂け姫さま」、
丸で「手の目」の様な怪奇芸人が出る見世物テイスト溢れる「猫姫さま」などなど、
色々な作品が揃っているが、やや出来にバラつきが有る様な気がしないでもない。

しかし今作でも遺憾なく発揮されている黒々とした絵の独自さはどうだ!
あの木版画の様なかすれたタッチは、パステルか木炭でも使っているのだろうか?
バックが黒の一枚絵などは黒地に白い墨でも使ったかの様なタッチに成っている。
特に今作はトーンを使わずに描線で処理している部分が多く更にそう感じる。
全く素晴らしい、まさに「この世界にこの画有り」と云う感じだ。

Yosuke002

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2007.06.11

水族館劇場「花綵の島嶼へ(はなづなのしまじまへ)」

Suizokukan001


その昔、夏が近付くと近所の神社の祭礼に見世物小屋が掛った。
小屋の仮設の関係で、普通の屋台に比べて早くから何時もの場所に設営が始まる。
明日から始まる祭りに気も漫ろに成りながら学校帰りに神社に寄ると、
既にあらかた組み立て終わった小屋がそこに佇んでいて、
それを見ると既に祭りと云う「非日常」が侵食し始めている事を肌で感じた。
見世物小屋は、あの華やかでうら寂しい狂騒的な幾日かの象徴の如き物だった。
そんな見世物小屋が祭りから消えて随分経った頃、
夏を迎え様とする季節に再び、あの懐かしい小屋が近所に現れる様に成った。
現れる場所は違うが、その小屋から漂って来る物は、確かにあの雰囲気だった。
それが劇団「水族館劇場」・・・・

随分と長い間続いた「大観音」境内の補修期間が昨年の冬頃終り、
そろそろやって来るのでは無いか?と、通る度に境内を伺っていた所、
怪しげなポスターとぶら下げられたフライヤーがその到達を告げていた、
「水族館劇場」の小屋がが三年振りに帰って来る事を。
やがて境内に足場が組まれ、徐々にあの懐かしくも怪しげな小屋が姿を現す。
「風の栖」と名付けられたその小屋は、
見知らぬ通行人には得体の知れない奇異な存在に映るだろうし、
かつて「非日常」に侵食された事の有る人にはたまらなく蠱惑的に映るだろう。
そう、仮設小屋興行こそが「水族館劇場」の舞台なのである。

「水族館劇場」を既存の演劇の範疇で語るのは難しい。
勿論「劇団」な訳だし、演じられているのは「演劇」な訳だが、
それだけで判断してしまうとこぼれ出てしまう物が多々有る。
例えば戯曲の内容一つとっても、看板女優の「千代次」大姐を中心に描く関係上、
どうしても毎回似た様な話に成ってしまうきらいが有る。
歴史に語られる事の少ない、被差別民や虐げられた人々の記憶や場所を、
時間や歴史や場所を縫う様に現れ消える女を軸に語られる話が多いのだ。
或るモチーフを執拗に描き続けるのも作家性だとは思うが、
芝居にしてみると、毎回何処と無く概視感を覚える所が有るのも確か。

そして毎回如実に感じるのは役者たちの素人臭さである。
主要な役を演じる何人かの役者は所謂、演劇的なメソッドを身に付けた人達で、
発声にしろ所作にしろ存在感にしろ何ら問題は無いのだが、
脇を固める役者達の素人臭さはかなりの物である。
劇団に出演する時以外は、ピンク映画に出て凌いでいる、
今や絶滅種に近い様なアングラ女優の大道を歩む、綺麗どころの葉月蛍嬢などは、
相変わらず台詞回しや発声が拙くて微笑ましくさえある。
ただ演員に関しては、この公演を前に劇団員がかなり入れ替わったそうで、
ここの芝居を観るきっかけを作ってくれた人も今回は名前が見えなかった。
その代りいつもは単なる「飛び道具」的な山谷玉三郎が役付きに成ってたりする。
新顔では「はっちゃん」を演じた女優がかなり素晴らしかった。
全く何処であんな凄い玉を見つけて来るんだか、ある意味視線が釘付けである・・・

多分これが定期的に小さなハコで公演を続ける劇団ならば、
演員の質のばらつきと云うのはかなり致命的な事だと思う。
所がだ、これが外を走る車の音が聞え外気の吹き抜ける小屋の中での芝居と成ると、
そう云う要素が何とも不思議な味わいの芝居に変容してくるから面白い。
これこそが「場」の醸し出す魔術とでも云う物なのだろうか?
以前、浅草の木馬座で行われた屋内芝居を見た時に更に強烈にそれを感じた。
あの場所で動くから、あの場所で喋るから、素人同然の拙さで有ったとしても、
それがある種のハプニング性として観客の胸に入り込むのではなかろうか?
そもそも「アングラ芝居」の持つエグさというのはそう云う物だった筈だ。
存在感の面白さだけで舞台に上げられた素人が、
予定調和では無い異物として芝居にエッジを加えていたのではなかろうか?
そしてそれが歴史の狭間で図太く生き続けた「見世物」との共鳴だった筈だ。
そう、アングラと云う観念が既に洗練されてしまった昨今、
未だに「演劇」と「見世物」に片足づつ掛けているのが水族館劇場なのである。
勿論これは一観客側の思い込みであり、ある種迷惑な見方なのかもしれない。
劇団の側はもっと純粋に「芝居」を追及したいと思っているのかも知れないが、
少なくとも突っ込み所の多いここの劇団に入れ込む理由はそこだったりする。

「見世物」性は以前から有ったのだが、今回は更にその部分が強調されていた。
舞台装置の変換の幕間にちょっとした紙芝居や見世物芸等が催される。
靖国の「御魂祭り」でも興行している、なんちゃって見世物小屋で、
微妙な芸を見せていた太夫が「河童の三平」役で登場。
幕間に、御魂の時とは打って変わって快活な喋りでお馴染みの芸を披露していた。
(しかし河童の三平と云うのも懐かしい見世物の出し物では有るよなぁ・・・)
まあ見世物芸にしろ紙芝居にしろ幕間のつなぎ程度の物でしかないが、
目先の雰囲気も変わり、場内の雰囲気も和らいでいて面白かった。
何より毎回上演時間が長い芝居が多いので、足を伸ばせたのも嬉しい。
今回のこう云う演出は特殊な事情による措置だったのかもしれないが、
この路線は中々興味深いので是非今後も検討して欲しい所だ。

さて水族館劇場と言えばその特設劇場を生かした演出でもお馴染みだが、
今回も中々に素晴らしい・・・と云うか非常に素晴らしい舞台装置を見せてくれた。
舞台中央、左右の高所、梁の近く、そして奈落と様々に芝居が展開して行く。
そして劇団の名前の由来でもある凄まじいまでの水を使った舞台効果。
この劇団は常に板の前面にプールが作られているのだが、
今回はいつもに比べてプールの面積が小さいな・・・とか思っていたら、
なんと升席の様になった最前列が劇中にいきなり二つに別れ、
その合間に、より大きなプールが現れそこから噴水の様に水が吹き上がるのだ。
まさかそこに仕掛が有るとは思わなかったので度肝を抜かれた。
そして終盤の「屋台崩し」の時に天井から降り注ぐ瀧の様な水・・・
それだけでも驚きだがその後、その飛沫の奥で舞台後方が完全に開放され、
小屋と別に建てられた大木の下の櫓に向かってゴンドラが渡され、
ゴンドラに乗った千代次が彼岸の岸に渡って行く様が演じられるのだ。
この仕掛の大掛りさを観るだけでも木戸銭払った甲斐が有ると云うもんである。
それから今回は二幕目の終戦後・焼け跡のガード下の出来がかなり良かった。

毎回恒例の生き物出演は、上のフライヤーにも出ている白いフクロウだ。
犬やロバ、別の所では馬なんかも劇場に登場させたらしいが、
まあ今回は瞬間芸と云うか一瞬のインパクトで勝負した、と云う感じか?

今回驚いた事に、公演中に朝日新聞などと云うメジャー紙に記事が載った。
劇評と云うよりは単なる舞台の紹介と云う感じだったが中々驚いた。
舞台監督が客入れ時に「昨日は三百人入りましたぁ」とか言っていたが、
流石にあの小屋にそこまで人は入らない様な気もするのだが、
何にしろかなりの客が詰め掛ける様に成ったのは感じる。
メジャーな存在に成って行くのか?水族館。
メジャーに成れるべき要素とメジャーに成り切れない要素を供に持つこの劇団は、
今後何処へ行くのか?

取りあえずは、初夏の風物詩としてあの場所に再び「風の栖」が佇む事を願って。

Suizokukan02

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2007.06.04

「悪魔とダニエル・ジョンストン」

Daniel01


今でも思い出すが、この映画の公開当時にわざわざ渋谷くんだりまで観に出掛けた。
渋谷など特別な用事でも無い限り面倒臭くて出掛けたくない場所なのだが、
単館上映なのでしょうがない。
それに「こんなマイナーな作品俺が行かんでどうなる」みたいな、
韜晦な意識が有ったのは確かだ、だってダニエル・ジョンストンなんだし・・・
所がだ、最終上映時間の少し前に劇場に着いて唖然とした。

「この作品には整理券が必要に成りますが、本日の整理券は総て売り切れです」
「尚、その他の日の整理券も次週の週末まで売り切れております」の文字が。
驚いた!コントじゃないが二度見した。
「しょうがない指名してやるか」等と云う優位な気持ちで指名した風俗嬢が、
実は物凄く人気で手が出なかった世間知らずな小親父みたいな状態か?(^^;

そうか・・・・何時の間にかダニエル・ジョンストンはそんな知られてたのか・・・
まあ確かに日本公演まで行ったアーティストだもんな・・・
等と負け犬の遠吠え宜しく渋谷を後にした訳だが、
そんな「悪魔とダニエル・ジョンストン」がDVDに成った。

韜晦な小親父を唖然とさせるくらい日本でも人気が有るダニエルだが、
殆どの人間はその存在すら知らない事だろう。
ダニエル・ジョンストンの扱いは中々に難しい所が有るが、
当たり障りの無い言い方をすれば「ピュア」なアーティストである。
「ピュア」過ぎて警察のお世話に成ったり、精神病院に出たり入ったりしている。
彼の創る歌は「ピュア」故に、昨今の音楽に物足りなさを感じている人達に響く。
多くの有名アーティストが彼の作品を取り上げていて、
アウトサイダー・ミュージックの世界では多分最も成功した人間であろう。
今や外資系のレコ屋に行けば「D」の列にちゃんと彼の作品が並んでいるが、
かつてはその音源を手に入れる事も中々に困難な人だった。

ダニエル・ジョンストンの名前を始めて知ったのは、
多分グランジから派生したローファイ・ムーブメントの頃だったと思う。
今や一流アーティストの仲間入りしたベックや、ペイヴメントなんかと並んで、
アウトサイダー・アートの様な素晴らしいジャケを音楽誌で見掛けた。
わざと外して演奏している様なローファイ音楽は特に心に響かなかったが、
お陰で、本当に外した音楽をやっている連中が注目を浴びたのは素晴らしかった。
「ヴォーカリストが精神障害の為に政府から就労を禁じられていて、
国に手当てを貰ってバンド仲間とキャロライナー・ハウスで共同生活している」
と云う触れ込みで話題に成った「キャロライナー・レインボー」等は、
結局アート系の人達によるパフォーマンスだと云う事でネタばれしてしまったが、
派手な噂は無い物の、ダニエルは常に「本物」として語られていたものだ。
そんなダニエルの音を始めて聴いたのはカセットでリリースされていた作品が、
CDとしてまとめられ、リイッシューされ始めた頃だったろうか?
その時感じたのは「あれ?以外に普通なんだな・・・」と云う感想だった。
確かにチープな録音環境に於けるぺナペナな音質と、
ピッチが不正確で妙に震える様な声はメジャーな作品では在り得ない音像だが、
そこで歌われている唄は普通にメロディアスな楽曲で有った。

いや、別にそれがいけないとか云う訳ではない。
例えばアウトサイダー・ミュージシャンの作り出す音楽を聴いていると、
普遍的なポップスやロックに根幹が有るのは間違いない。
ただそこに何らかの、彼らなりの「違和感」と云うフックが存在する。
伝説の「シャッグス」がそのフック度100%だとすると、
伝説の「シド・バレット」がフック度50%辺りで、
ダニエル・ジョンストンはフック度が30%当たりだと言えるかもしれない。
なのでダニエルの音楽は取っ付き易い。
子供がでたらめに歌う唄が結構心地よく聴けてしまうのと似ている感じだろうか。
だとすれば誰もがノー・ギミックで子供の様に唄えばウケるかと言えば、違う。
技巧を廃した所から自然に出て来る歌を唄い続けて行けるのが彼の凄さだろう。
それ故に日本でも多くの人間に受け入れられたのだろうと考える。
ただそう云う音楽にフックを求める自分の様な人間には少々退屈に聞える。

Daniel02

アウトサイダー・アートとしても素晴らしい彼のイラスト。


そんな音を作り出すダニエル・ジョンストンとは如何なる人間なのか?
その実像に迫ったのがこのドキュメンタリー「悪魔とダニエル・ジョンストン」だ。
映画を観る前に少々不安が有ったのは、日本のテレビ局が良くやる様に、
「障害者=純粋な心の人」みたいな安手の図式で作られていないか?と云う事だ。
しかしそんな心配は杞憂だった様で、実に多面的にダニエル本人が描かれていた。

とにかく全編が特筆すべきエピソードに溢れていて総てが見所だと言えるが、
やはりダニエル自身が幼い頃から記録した膨大な記録やカセットが使われていて、
その自分記録魔的な偏執的な記録の数々には唖然とさせられる。
学校に行きたがらないダニエルを叱る母親のヒステリックな声から、
ダニエルの創作のミューズ(女神)となる女性、ローリーを隠し撮りした映像、
自由の女神に落書して警察に捕まった時の警察とのやり取りまで録音されていて、
余りにも過剰な「The俺・クロニクル」の数々に普通でない物を感じる。
ただ本当に昔からの創作の数々(音楽・映像・イラスト・等々)を観て行くと、
才能のきらめきを感じさせるのは確かだし、容易に使いたい言葉ではないが、
「天才と狂人は紙一重」を地で行っている感じしてくるのは確かだ。

自分の創った音楽を積極的にメジャーに売り込みに行く様な山っ気や、
MTVに出演し有名に成りたいと願う自己顕示欲の旺盛さも、生臭くて好きな所だ。
そしてようやく掴み掛けたメジャーの梯子を前に自分を見失う所は痛々しいし、
そこからの錯乱した精神が引き起こす迷惑な事件の数々は暗澹とした気分に成る。
何だかんだ言っても、そこまで重かった訳だ、ダニエルの症状は・・・
「伝説」をネタの一つとして受け取る自分等の様な部外者は良いが、
やはりダニエルの世話をする年老いた両親や友人、マネージャーは本当に大変だ。
そんなダニエルが遠く日本にまでライブしに来たと云うのは本当に大変な事だ。
だから今のダニエルのささやかな成功を喜びたい・・・・

まあとにかく、特異な一人の人間の記録としても、
何の変哲も無い米国郊外に渦巻く、白々とした狂気の記録としても、
迷惑掛けっぱなしの巨大なティディ・ベアに翻弄される普通の人々の記録としても、
懐深い米国オルタナ・シーンの生きた記録としても、
(しかしケツ穴サーファーズのギビーは何で歯の治療中の場面だけなんだ?)
最高に面白いドキュメンタリー作品としても、文句の無い1本だ。

ダニエル・ジョンストンに興味を持った貴方は、是非彼の歌を聴いてみて欲しい。
日本で発売されているアルバムは割と最近の「音楽としてまとも」なCDばかりだが、
この前彼の名作カセット作品「Hi ,How Are You」と「Yip/Jump Music」が、
デジタル・リマスターと云う不必要以外の何者でも無い処理を経て再発された。
(大体、宅録のカセット音源をデジタル処理する意味は何処にあるんだか)
大手の外資系CD屋で入手し易いので是非そちらの方を手に取って欲しいもんです。

Daniel03

迷惑掛けっぱなしの巨大なティディ・ベア、ダニエル先生近影。

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