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2007.11.24

あるラーメン屋に関する小噺

以前から某所に気に成っていたラーメン屋が有った。
最近は他でも見かける様に成ったが、所謂「坦坦麺」を看板に掲げる店だ。
基本的に辛い物は得意ではないのだが、たまに食べたくなる時が来る。
先日、某所近くへの用事の際、偶然その時がやって来た・・・・

その店は、その手のコダワリの店とは違って中身は普通の中華屋と同じだった。
入り口横の棚に並んだコンビニ・コミックの「鬼平」や「美味しんぼう」は、
変色した壁のパネル同様、汁や湿気でイイ具合にくたびれている。
ただ厨房に居る若い男女はイントネーションから大陸の人間だと云うのは解る。
入り口の所に写真入で各麺の解説が書かれていたり、
値段もそこそこだったりするから、有る程度のコダワリは有るのだろう。
ただし客の方は冴えない学生風だったり労務者風だったりとコダワリは無さそうだ。
「鬼平」を読みつつ、しばし待つ間に頼んでいた「排骨麺」がやって来た。
とりあえず汁を一口啜る・・・・・・!!!
そして麺を箸でたぐる・・・・・・・!!!!
こ・・・これは!!!!

・・・いや特別に美味かったとか、信じられんほど不味かったと云う訳ではない。
トータル的に味が余りにも「現地の」と云うか「大陸の」の味だったのだ。

ラーメンと言えば大陸から渡来して来た物の一つとしてお馴染みだが、
その他の渡来物同様に日本に来てから独自の進化を遂げている訳だ。
なので大陸及び中華圏にはじめて出掛けた人間が「本場のラーメンを味わうぞ!」
等と意気込んでいると非常に拍子抜けした事に成る。
明らかに現地の麺類と日本の各種ラーメンは別物なのだ。
それは香港や台湾などで日本のラーメン屋がかなり人気が有る事からも解る。
どちらが美味いか?と云うのは各々個人的な領分の問題だが、
大陸の麺類は、麺にしろ汁にしろかなりプリミティヴで味にパンチが有る。
素材の主張が激しい味、とでも言おうか?
日本のラーメンはやはり麺も汁も繊細で洗練された感じが有る。
素材がでしゃばり過ぎない調和の取れた味わいが特徴だと思う。
そして何よりも弾力の有るちぢれた麺が特徴的だ。
勿論これは物凄く大雑把な分類で例外的な物もそれぞれ多いだろう。
しかしその店で出て来た「排骨麺」は完全に大陸の味と麺だった。

勿論、頑なに大陸の味わいを残した店と云うのも有るだろうが、
やはり日本人相手に商売するならこの味は余りにもトゥー・マッチ過ぎる。
客筋はどう見ても日本人ばかりだし、中華街が近くに有る訳ではない。
日本人の舌に迎合せずにこの店を続けているとは凄いなぁ・・・・
等と思いつつカウンターに置いてある笊の中からゆで卵を取り出して殻を割った。
・・・・いやこの店週末を除いた隔日でゆで卵が喰い放題なのだ。
「喰い放題」だとか言われても4個も5個も喰えねえよなぁ・・・・
等と思っていたら目の前の学生が3度目の御飯のお替りを頼んでいる。
・・・・いやこの店連日御飯のお替り自由なのだ。

( ゚Д゚)ハッ!
この店は辛い汁で飯をお替りし、ゆで卵で腹を膨らます様な連中でもっているのか!
大陸の味関係ね~ぢゃん!・・・・まぁそんなもんか実際は・・・・

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味も見た目もパンチ有り過ぎる台湾の牛肉麺

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2007.11.17

演劇実験室・万有引力「螺旋階段」

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「Constagion」
(①接触感染②接触伝染病③「思想・感情・噂・影響」等の蔓延・伝播)

毎度お馴染み、J・A・シーザー師率いる演劇実験室「万有引力」の新作、
(夢のコンタジオン劇)とサブタイトルの付いた『螺旋階段』を観に行って来た。

「演劇とペスト世界がコンタジオン・ロック音楽と供に、俳優の肉体から
現代の都会へと拡がり始める、恐怖の残酷伝染劇の一夜に乞う御期待」
と云うフライヤーの解説そのまま、ペストが蔓延した港町を舞台に、
疫病と悪意有る噂が不気味に感染して行く暗黒な演劇だ。

前回は小屋の規制から「万有引力」独特のはみ出した演劇が観れなかったが、
今回は小屋がお馴染みの笹塚ファクトリーと云う事で、
万有引力らしいトリッキーな仕掛けの数々が展開されていて楽しめた。

舞台装置はかなりシンプルな物で、舞台上に幾つかの木箱にテーブル、
素のままの背景に、組まれた鉄骨の左右上方にスペースを取っただけの物だが、
舞台後方に花道が走り、小さいスペースながら演じる場所が設けられていた。
今回はかなり最初の方から暗闇でのマッチ擦りが次々と繰り出され、
客席の中に設置された椅子の上でも釘を打つ群舞が行われる。
「疫病で死んだ人間の棺桶を打ち付ける」と云う意味での行為なのだが、
小屋の各所に散った俳優が、それぞれの場所で激しく金槌を打ち鳴らす。
するとそれがボディ・ソニックの様に直接身体に響いて来て中々に効果的だった。

それと同時に今回、劇中に観客を参加させると云う試みが成されていた。
これはかつて天井桟敷でも行われていた中々「演劇実験室」らしい試みであろう。
劇中、不意に舞台に明かりが差し、進行役の役者が素のままの声で進行する。
この方、非常に達者な進行で若い役者のアドリブに絶妙に突っ込みを入れてくる。
達者過ぎて場が一気に和んでしまうのは良いのか悪いのか解らないが・・・
その後役者が客席に下りて客を5人ほど舞台上にスカウトして来て、
劇団員の動きに合わせて躍らせたりして完全に場を和ませた後、
3人ほどを舞台上に残して中断していた劇が始まると云う試みである。

「接触伝染・伝播」を主題にした劇と云う事での観客参加なのは解るし、
実際こう云う試みは中々面白いとは思うのだが、如何せん意味が無さ過ぎる。
客を舞台に上げてまでやってる事の意味が皆目掴めない。
お客さんを和ませたい、と云う事なら確かに和ませては貰ったが、
それが「恐怖の残酷伝染劇」とどう云う関係が有るのか不明だ。
確かに桟敷の頃の様に客を挑発する様な芝居は今の御時世難しいとは思うし、
挑発しといて無反応とか、不意にキレられたりしたら洒落には成らんが、
それでももう少し意味の有る「観客参加」芝居が観たかったと思う。

それから瑣末な事ながら・・・群舞の時の俳優のシンクロ度下がってませんか?


さて今回は「万有引力」ネタでもう一つ、
ようやく待ちに待った万有引力に於けるシーザー師の劇伴集CDが出た!!
それがアジア・クラックから出た「万有引力Vol・1 1994~2007」だ。
94年の「電球式アンモナイト」から前回公演の「カフカの卵鐘」まで、
二枚組みのCDにぎっしりと濃厚な音楽が詰められた暗黒演劇音楽曼陀羅であり、
世界でもシーザー師だけが創り得る真にオリジナルな世界が繰り拡げられている。

96年位までは公演の度に劇伴のカセットが売り出されたらしいのだが、
近頃はそれも無く、是非まとめて出して欲しいと常々思っていた所だ。
しかしシーザー師の過去の再発ではない単独楽曲集が出るのは何年振りだろう?
例のアニメ「少女革命ウテナ」の「薔薇卵蘇生録ソフィア」以来だろうか。
それなりの予算が掛けられたアニメのオリジナル・サントラや、
桟敷の頃の様に大人数のバンドを率いて演奏されている楽曲とは違い、
バックトラックは殆ど打ち込みで、ギターなどの上物が重ねられているのも有るが、
旋律もシンセで演奏されて曲も多く、初心者にはやや敷居が高いCDではある。
ただ意外にロック的なエッジの有る疾走感を伴った曲も多く、
これを4ピース位の生バンド形式で是非聴いてみたいと思う。
勿論シーザー師の特徴である土俗的・童謡的な和のメロディも健在である。
それらが劇団員による字余り的な合唱で謳われる様はやはり実に独特の味わいだ。
蘭妖子さんの歌唱でお馴染みな「惜春鳥」の変奏曲も収録されている。

収録曲は楽曲として完成されている物と云うより劇伴そのままの物で、
素材的と云うかある種マテリアル集と捕らえる事も出来る。
つまりこれらの楽曲を編曲し色々なフォームでの演奏を想像する事が出来る。
やはり万有引力の楽曲と言えば思い出すのはマグマのクリスチャン・ヴァンデ、
と云う事でルインズの吉田達也の周辺ミュージシャンを組織して、
これらの楽曲を是非ともマグマの様な怒涛の変態プログレに編曲して欲しいもんだ。
コンセプトが近い所から吉田の「高円寺百景」が万有引力のバックを務める、
と云う方向性もアリかも知れない。
元々桟敷の頃よりシンパが多いフランスなどに行ったら大受けだろうになぁ・・・

CDの店頭販売は今の所無い様なので次回公演時に再発売と云う感じだろうか?
ちなみに今回、チケットとCDの先行予約特典で、
今回の公演「螺旋階段」の劇伴が6曲収録されたデモCD-Rが附いて来る。
デモとは云えそれ成りの形には成っていて芝居の追体験が出来るのは嬉しい。
ついでにブックレットにはシーザー師の直筆サイン入りだ!

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2007.11.10

暗黒の奇書「神州纐纈城」

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「伝奇文学の最高峰と讃えられ乍ら、神秘と伝説の彼方に埋もれる事四十余年、
遂にその全貌を現わした”幻の名作”。
全読書人渇望の、邪悪と陰鬱の異端の傑作、昭和元禄の今に甦る・・・・」

昭和43年に桃源社から復刻された時のコピーをそのままに今に変えて、
平成の新世紀に贈り出したい、国枝史郎の「神州纐纈城」久々の帰還である。

「神州纐纈城」が、今でも幻の本だとか禁断の1冊だとか思っている訳では無い。
桃源社の「大ロマン・シリーズ」の冒頭を飾る1冊として世に出てから、
講談社の「国枝史郎伝奇文庫」と「大衆文学館」で2回文庫化されているし、
六興出版からは単行本が、そして未知谷から巨大な全集も出版されている。
それでも新たなパッケージで書店に並ぶたび、何か奇妙な禍々しさを感じるのは、
本物の「毒」を持った小説のみが醸し出す瘴気の様な物なのだろうか・・・
95年に大衆文学館シリーズの1冊で出て以来、12年振りに書棚に帰って来た。
「神州纐纈城」河出文庫からの唐突な復刊である。
・・・・びっくりした・・・・

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時は永禄元年、場所は武田信玄統治下の甲府、花も朧な春の宵。
信玄の近臣・土屋庄三郎が奇怪な翁から布の購入を勧められる所から話は始まる。
妖しげな美しさで輝くその布こそ、人血で染め上げられた纐纈布であった。
庄三郎はその布に誘われるが如く、行方知れずの父母を求めて甲府を後にする。
辿り着いた先は富士の裾野・・・しかしそこは魑魅魍魎が跋扈する魔界であった。
富士の裾野を通る旅人を窯で蒸し殺す、三合目の陶器師を名乗る殺人鬼。
窟屋に一人住む謎の整形術を会得した美貌の造顔師・月子。
信玄の命により庄三郎の後を追う凄腕の殺し屋・鳥刺しの高坂甚太郎。
その甚太郎が迷い込む事に成る、霧深き本栖湖に浮かぶ水城、
そここそが業病を患った仮面の城主が住まう血塗られた場所、
さらって来た人間の生き血を搾り取り纐纈布を染める「纐纈城」だったのだ。
一方庄三郎は聖者・光明優婆塞率いる富士教団の隠れ里に居た。
そこで明かされて行く庄三郎の父母の秘密から光明優婆塞との関係。
その頃、業病に脳まで冒されかけた纐纈城主が望郷に駆られて甲府へ、
纐纈城主の出現と供に甲府の町は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す・・・・

奇怪な話の道具立てと錯綜する内容に結末が気に成る所だが、
実はこの話、完結していない、未完なのである。
「何だそれは?」と云う所だろうが、実は国枝史郎の作品に未完は多い。
桃源社版に併録されえている「暁の鐘は西北より」も未完の作品だし、
纐纈城同様の代表作な大長編「蔦蔓木曾棧」も未完で終っている。
流石に「蔦蔓木曾棧」はここまで読んでそれは無いよなぁ・・・とは思うが、
「神州纐纈城」に関しては、むしろ未完な所がまた絶妙な味だったりもするのだ。
そんな部分を利用して、漫画家の故・石川賢が纐纈城を独自の解釈で完結させた。
正直内容は完全に石川賢の世界だし、相変わらず「聖魔伝」なラストはアレだが、
未完で有る事が決してマイナスでは無い良い証拠に成っている筈だ。

この作品が桃源社から復刊された時に、三島由紀夫や澁澤龍彦に絶賛されたが、
今回の文庫の巻末に、解説のかわりに三島の評論が掲載されている。
その冒頭で三島はこの作品をドイツ・ロマン派と同列に論じているが、
確かに纐纈城は、大衆小説で有りながら戦前の翻訳物の様な不思議な感触がある。
元々国枝史郎は早稲田時代に演劇に夢中に成り、戯曲も多く発表してはいるし、
最近続々と復刻されている現代物の探偵小説や「沙漠の古都」の様な冒険小説等、
時代物の大衆小説のみで語り切れない作家である事は明白なのだが、
それでも「蔦蔓木曾棧」辺りと比べると同じ時代物でも明らかに感触が違う。
それは何も鳥刺しの甚太郎が鳥刺しとして唄い歩く時の唄の内容が、
シェークスピアの「魔笛」に出て来るパパゲーノの唄を使っているとか、
そう云う瑣末な事では無く、明らかに雰囲気にゴシックな感触が有るのだ。
何故纐纈城だけにそう云う雰囲気を感じるのかは解らないが、
ゴシックで漆黒な筋立てに、血みどろ絵草子の如き原色が色を添える、
見世物ともグランギニュールとも附かない世界観に魅かれるのは間違いない。

最後に、この作品の最も忌まわしい部分に触れずに終わる訳にはいかない。
その手で触れた人間はその場所から瞬時に腐り果てて死んで行く奇病、
纐纈城主の患っているその業病と云うのが「奔馬性癩」、
今で言う所の「ハンセン氏病」をモチーフとした忌まわしい奇病だ。
勿論これは作者の創造の産物であり、元よりそんな病気は存在しないし、
元ネタとしてアンドレーエフの怪奇短編「ラザルス」が挙げられるのだが、
(ちなみに人血染めの纐纈布に関しては「宇治拾遺物語」がネタ本)
いずれにしろハンセン氏病患者差別に繋がる様な記述なのは確かだろう。
(それでも橘外男の「青白き裸女群像」に比べれば全然マシな方だが)
勿論正確な知識さえあればそれが余りにも荒唐無稽な設定だと認識出来るのだが、
この禍々しさが本書を「幻の1冊」にも「奇跡の1冊」にもしている要因でも有る。

何にしろ常に本屋の棚に並んでいる類の本で無いのは確かなので、
気軽に入手出来る今こそ、伝説の1冊を手に取れるチャンスなのだ。
興味の有る方は是非!

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桃源社版の神州纐纈城


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2007.11.03

弘法大師は唐の都で楊貴妃の夢を見るのか

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夢枕獏の「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」。

ハードカバーの本が4冊まとめて出版された時から気には成っていた。
気には成っていたが、流石にハードカバー本4冊とも成ると、
経済的、及びその他の理由で右から左へとは手が伸びなかった訳である。
まあ仮にもベストセラー作家の夢枕獏の事、文庫に成らぬ訳が無いだろうから、
文庫に成った時にでもまとめて読んだろうかい!とその時点で諦めた。

そうこうする内、普段余り目を留める事も少ないノヴェルのコーナーで、
「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」が新書ノヴェル化されているのを発見した。
昨今、文庫も随分と価格が上がりノヴェルと殆ど変らない値段に成っているし、
それなら何を躊躇する事があろうか?と、例によって一気読みに勤しんだ訳なのだ。

・・・・いやあああああ凄い!
ここまでスケールの大きい話だとは思ってもみなかった。
一巻辺りはそれほどでは無いのだが、二巻辺りから面白い様に話が転がり始めて、
三巻目の頭辺りからコレは何かとんでもない方へ話が動いているのを思い知らされ、
哀愁と余韻が漂いまくる最終巻までもう一気に叩き込まれてしまった感じである。
・・・そんなとんでもない物語は貞元二十年(八百四年)大唐帝国の長安に始まる。

橘逸勢は同じ遣唐使船の中で不思議な仏教僧・空海に出会う。
底知れぬ魅力と謎を秘めた空海は、その才でもって幾つかの難問を解決する。
能書家であり文才も有る空海は唐人同様に唐語を操る語学力も有し、
更には胡人の幻術を見破るが如き不思議な術さえ会得していた。
興味をそそられ、供に行動する様になる逸勢の様に、
長安の街でも様々な人々が空海に興味を持ち、多様な交流が始まる。
そんな時、空海に持ち込まれたのが怪猫に屋敷と妻を乗っ取られた男の話、
そして夜な夜な奇怪な話し声が聴こえて来ると云う綿畑の話。
それらは同時に唐王朝の行く末を暗示する様な不気味な予言を残している。
尻込みする逸勢と供に調査に乗り出した空海だったが・・・・

・・・と云う様な話が大体第一巻で展開される訳なのだが、
「長安の街で起こった奇怪な事件の数々を、逸勢をワトソンに空海が解決して行く」
と云う話を横軸に、「実際の空海の唐での修行」を縦軸に描いて行く・・・
みたいな感じに成るのだろうと勝手に想像していた。
所がどっこい、話はそこからとんでもない方向に展開されて行くのだ。

探って行く内に、どうもその事件の発端は六十年前の玄宗皇帝の御代、
歴史にお馴染みな玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋の物語が絡んでいるらしい。
その事を空海に指摘した人物こそ、後の大詩人・白居易こと白楽天なのである。
やがて判明して行く驚愕の事実・・・安禄山の乱で都落ちした玄宗皇帝が、
臣下の離反を防ぐ為に泣く泣く行った最愛の楊貴妃の処刑には或る企みが有った。
謎の道士・黄鶴の奇怪な尸解の術により仮死状態にした楊貴妃を死亡と偽り、
玄宗に随伴していた安倍仲麻呂の手により日本へと逃げ延びさせ、
そこでほとぼりを冷まそうと云う驚愕の企みだったのだ・・・・

ここで話は同じ唐代ながら二つの時間を行き来しながら、
李白と白楽天、安倍仲麻呂と空海や逸勢などの様に相似形に展開して行く。
その辺の発想は実に見事に噛み合っていて正しく伝奇小説の醍醐味を味わえる。
ラスト前、空海と逸勢が長安を離れる時に、一人遅れて駆け付けた白楽天が、
出来上がったばかりの「長恨歌」吟じて友を送るシーンにはしびれる。

例によって夢枕獏のあとがきが面白い。
ハードカバーでこの本が出た時は丁度NHKが司馬遼太郎の空海を特集していて、
何気に空海ブーム的だった様な記憶が有って、最初「便乗?」とか思ったのだが、
何とこの作品雑誌連載が始まったのが1988年からだそうで、
その後掲載雑誌を四回も変えて足掛け17年もの長きに渡って連載された物らしい。
よくもそれだけモチベーションが持続したもんだと感心するが、
すると空海と逸勢の関係が、自作「陰陽師」の晴明と博雅に酷似しているのも、
連載時期が近い所から、当時こう云うバディ物が好きだったのだろか?と伺える。
そして実は最初に抱いた想像があながち間違いで無かったのだとも思えるのが、
当初からこう云うスケールの話を企画していた訳ではなく、
連載を進めて行く内に、自ずと話が転がりだして行ったと云う所だ。
だから後の展開を考えると最初の怪猫の件は如何にもスケールが矮小である。
余りにもどうでもいい感じで人が死んでいて何気に笑えるくらいだ。
まあもしも当初の予定通り空海が長安の魔を祓う連作短編の様に成っていたら、
それはそれで面白いが、余りにも「陰陽師」と似過ぎてしまっていただろう。
それにしてもよくもまあ上手い具合に話を展開させた物だ、感服する。

夢枕獏を読んでいたのはそれこそまだ学生の頃で、
あの頃はまだ朝日ソノラマ文庫の背が緑色だった。
思い出した様に作品が文庫とかにまとめられると読んではいたが、
菊池秀行の作品なんかと供に熱心な読者とは言えなくなって随分と経つ。
しかし久し振りにまとめて読んでみて思った事は、「やはり上手い」と云う事だ。
悪文に近い様なとっ散らかった最近の作家の文章なんかを読んでいると、
実に解り易く平明な文章ながら、その実奥の深い表現が多くて唸らされる。
これぞ大衆文学の有るべき文章と云う奴だろうか?
この歳に成ってみて改めて感じ入る次第と云う奴だ。

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