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2008.05.31

鳥居みゆき「ハッピーマンデー」

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先日、ファンだと云う知り合いに鳥居みゆきのネタDVDを借りた。
鳥居みゆきと云う芸人の存在を意識したのもこの知り合いの強い押しに有る。
その頃はTVで放送出来ない様な危険なネタを数多く有する、
Youtubeやニコ動で話題騒然の、所謂ネット動画芸人として名を馳せていた。
それが今やバラエティ番組の到る所でその奇矯な芸が普通に見れる様に成った。
或る意味「旬の芸人」と言えるポジションに今居る訳で、
このDVDなども巨大なCDショップなどでは大々的な商品展開を見せていた。

彼女のTVでのブレイクの要因の一つとして、同じ事務所の小島よしおもそうだが、
昨今の「旬芸人」に共通のキャッチャーな「つかみ」が大きいだろう。
例の「ヒット・アンド・ラ~ン」で、TVではそればっかやらされてる様な・・・
勿論、本質的な芸の質はそう云う「つかみ」に無い事はDVDを見ると良く解る。

「ハッピーマンデー」とタイトルされたこの作品は、
無愛想なジャケを見るだに異様な雰囲気が漂ってくる作品で、
中身の方も昨今のJホラー的と云うか、荒れた映像の目まぐるしいカットバックや、
荒涼とした情景の長廻しが多用されていて、映像の凝り方は非常に激しい。
個人的に芸人のネタDVDと云う物を殆ど見た事無いので比較は出来ないが、
その芸人の持つカラーのトータリティとしては相当徹底した物に成っていて、
一つの映像作品と見ても中々に楽しめる出来に成っているのではなかろうか。
まあただ単純にネタだけを楽しみたいと云う向には相当冗長な映像だとは思うが。
基本的な構成はどこぞの研究施設に隔離されているらしい鳥居みゆきが、
質問されたり徘徊したり痙攣したりうわ言を言ったりする流れになっていて、
その合間に人気の無い深夜の浅草は仲見世商店街のシャッターの新聞受けを覗くと、
その向うで鳥居みゆきがネタをやっているのが挟まれると云う様な構成だ。

まあしかしそこで演じられるネタが非常にテンションの高い舞台向けのネタで、
或る意味わかり易いベタな一人突っ込み一人ボケのコントも多く、
全体的なトーンとして肝心のネタ部分が相当浮いている様に見えるのは確かだ。
プロデューサーにボツにされたネタを「水子」として供養する「水子供養」とか、
(お馴染みの紙芝居ネタで全部にモザイクとピー音が入っているのは笑うが)
アコムのCMのオーデションで小野真弓に負けた話とかネタに楽屋落ちも多いし、
凝った全体的なトーンのせいで素直にネタを笑えない感じが有る。
まあこの人の芸の場合、ゲラゲラ笑うと云うよりニヤっと笑う様なネタだし、
ビデオと違ってチャプターで飛ばせるDVDならば問題は無いのかもしれない。
それにしてもネタやってる時のテンション高いなぁ・・・・

他に「鳥居みゆきに100の質問」のコーナーが結構「素」っぽくて楽しめた。
これに関しては多分台本無しで、反射的に質問に答えている様なのだが、
かなりの部分、キャラクターに相応しい回答を出していて頭の回転の早さを物語る。
個人的には「お笑いを始めたきっかけは?」の質問に、
「のいるこいるさんに憧れて」と云う回答は相当ツボだった。
それから「最近見た夢の話を教えてください」と云う質問が2回繰り返される奴に、
「ハンドルだと思って握ったらバームクーヘンだった」と答え、2回目の時は、
「ハンドルだと思って握ったらポン・デ・リングだった」と云う返しには唸る。
ここら辺のアイテムのチョイスと天どん具合は絶妙だ。

ちなみにメニュー画面の選択を動かして行くと、
それとシンクロして鳥居みゆきの眼球の部分が動いて行くギミックが面白い。
彼女の場合その存在を特徴付けるのは、黑のアイラインがバッチリ引かれた、
必要以上に見開かれた眼球な訳で、それを意識したギミックは上手いアイデアだ。

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さて今の所順調にTVに出続けている鳥居みゆきだが、今後の展開はどうなるのか?
ブレイク以前の彼女は堕天使だったりジャージ女だったり眼鏡女だったり、
無暗にテンションが高いだけで、今ひとつ突き抜ける様な要素が無かったが、
サイコ系のキャラを前面に出す事でこの様なブレイクを迎えられた訳である。
余談だがお笑いの場合むしろルックスが良い方が芸人として足枷に成る事が多い。
美人がテンション高めにボケたりしてると妙に痛々しく見えたりする物だ。
かつてはアイドル並に水着のイメージビデオなんかも撮っていたりしたが、
そう云う経歴など無かったかの如き昨今の壊れっぷりは清々しい。
しかしキャラ故に番組内での扱い難さが表出して来たりと諸刃の刃なのは否めない。
「実は普通の良い人でした」的にキャラを扱い易い方向にシフトするのもアレだし、
やはりエキセントリックな女優と云う方面で売って行く感じだろうか?
ルックスは元より演技力に関しても間違い無く高レベルに居るわけだし。

最後に、彼女が本物なのか演技なのか?と云う話が良く出てくるが、
それは全くどうでもいい事だと思う。
本物でも特別人に迷惑かける事無く仕事が出来ていれば問題無いし、
演技でもそれが恰も真に迫っている様な演技に成っていれば問題無い訳で、
本当に見るべき所は芸人としてのポテンシャルでしかない。
まあそう云う点で見ればまだまだギミック頼りの中途半端さが目立ちはするけど。

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2008.05.24

「夜露死苦現代詩」/都築響一

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その昔、古本屋通いをしていた時には「見付けたら買え」が鉄則だったが、
最近は一般書籍にも言える様な事態に成って来ている。
この本も刊行当時に書店で見掛けて「お、これは中々」とは思っていたのだが、
忘れたり後回しにしている内についぞ書店の平台から姿を消してしまった。
文芸書で有るならば、著者別のコーナーが有って見付けやすいが、
こう云った本は書店のどのコーナーを探れば良いのか非常に悩む所である。

タイトルには一応「現代詩」と書かれているが、さりとて所謂現代詩では無い。
作者は著作も多いが、基本的にはカメラマンが本職の方である。
入れ代わりが激しい「サブカル」なんぞと云う棚にも見当たらない・・・・
所が先日、作者の写真集等と供に平台に展示して有るのを発見し無事購入出来た。
と云う訳で発売から随分経ってしまった訳だが、
やはり面白かった都築響一の「夜露死苦現代詩」である。

著者の都築響一氏は、
東京で暮らす人々の何の変哲も無い部屋を写し集めた「TOKYO STYLE」や、
観光名所とは云えないコクの有る場所を探訪した「珍日本紀行」でお馴染みだが、
廃業したラブホテルの内装そのままの写真スタジオを作ったり、
閉館した鳥取秘宝館の展示を現代美術としてトリエンナーレに出品するなど、
独特の臭覚で見えているのに見えない物を探り当ててくる達人であり、
みうらじゅん氏や「幻の名盤開放同盟」等と供に信用出来る御仁である。
そんな都築氏が探る、一般的な「詩」の世界や範疇から完全にシカトされながらも、
無視出来ないほど強力に訴えかけてくる「言葉」と「想いの」現場とは?

例えばそれは痴呆性老人が混濁した意識の中から発した独り言にある。
老人病院に看護助手として勤める或る人が、仕事の上で耳にした老人達の独白、
その意味不明ながら強力に訴え掛けて来る言葉を「痴呆系」と云う本にまとめた。
(・・・うぅ!アウトサイダー・ミュージックの所でも書いたが、
勤めていた老人ホームに居た、放って置けば延々と一人で唄い続ける男、
人間ジューク・ボックスのジャック・マデュリアンを発掘・録音した、
デヴィット・グリーンバーガーの様な男がこの日本にも居たとは・・・)
普通では想像も付かない言葉の組み合わせから出て来る老人達のたわ言は、
狂っているのに妙に衒学的で、生半可な現代詩など及びも付かない殺傷力だ。
解り易く言えば、伝説のインディーズ候補・三井理峯氏の言葉の様な・・・・
・・・って逆に解り辛いか?まあとにかく「人生八王子」な訳である。

例えばそれは知的障害者や統合失調症の人たちが綴った言葉にもある。
本人しか解らない様なクイズを何百と作り続けている辰巳公紀さんも凄いが、
中学時代の一時期に溢れ出る奔流の如く、自由なリズムの詩を大量に生み出し、
その後全く書かなくなって、現在も病院で暮らす友原康博さんの詩が物凄い。
三語とか四語くらいで次の行に移って行くその詩は異常にスピーディで、
恰もショート・カット・グラインド・コアの如き切迫感で迫って来る。
綴られる語句は意味不明な所も多いが非常に冴えた聡明さを感じさせるし、
その詩の若き撒き散らかし具合は、まるでかのランボーを髣髴とさせるではないか。
彼の場合、中学時代の美術教師が理解者と成り、その詩を保管していた物が、
後に詩集「いざつむえ 友原康博詩集」としてまとめられ出版された訳だが、
山下清に式場隆三郎が居た様に、その才能を見抜く理解者の存在は重要である。

そしてそれは「死」を目の前にした人たちの吐き出す言葉にもある。
圧倒的な境地に達している死刑囚たちの綴った俳句の凄みにも驚くが、
異常な迫力で迫って来るのが、「池袋母子餓死事件日記」の暗黒さである。
1996年に起った都会のド真ん中での餓死事件は今でも記憶に残っているが、
餓死する少し前の3年間に渡って付けられていた日記の事は覚えていなかったし、
あまつさえそれが出版されていて、こんな暗黒な内容だったとは知りもしなかった。
悲惨な事件なのは間違い無いし、明日は我が身かも知れない世界なのだが、
ここに綴られた「負のオーラ」とでも言うべく底無しな闇の感情は、
凡百なホラーなど太刀打ち出来ない意味不明の原初的な恐怖感を感じさせる。
「何かが変」なのだ、「静謐な狂気」とでも言おうか?とにかくたまらない。
抜粋されている文章を読むだけでもこれだけ気分が鬱々として来る訳だから、
その出版された本を読み通したら立ち直れなくなるかもしれない・・・・

勿論そう云う特殊な現場だけに「詩」の世界は有る訳では無い。
日本語ワープロの誤変換にも、ネット上のエロサイトの広告にもある。
そして常々書いている見世物小屋の呼び込みに於ける職人的な話芸や、
歌謡曲の前奏の僅か20秒ほどに詩情を盛り込む玉置宏の至芸などにもある。
特に玉置宏の「同じ曲紹介は二度としない」と云う信念の元に、
語った内容をノートに書きとめ、常に時代の新しさを盛り込もうとする姿勢、
新鮮さを求める為に曲紹介を集めた本でも五年で絶版にする心意気には打たれた。

後は多分ヒップホップなど聴いた事も無い読者の多そうな発表媒体の関係か、
現代のラップ・ミュージックのリリックに付いてかなりの章が割かれている。
「日本の中学生の99%が知っている」と云うのは明らかに大袈裟だが、
確かに70%くらいはエミネムの名前を知ってるであろうほど、
現在のユース・カルチャーにヒップホップの占める割合は高いだろう。
出すレコードが数百万枚のセールスを挙げ、総資産約350億のJAY-Zに付いて、
「そもそも世界文学史上で詩人と云う職業が、これほど経済的成功を収めた例が
あったであろうか?」と、喝破する部分は中々面白い。
個人的にはネイティブでなければやはりそのリリックの面白味は伝わらないし、
一時期のギャングスタ・ラップのサグライフ(ヤクザ渡世)自慢ばっかの内容には、
かなり辟易する部分が有るのだが、当然無視は出来ない世界だろう。
特にホワイト・トラッシュ層からエミネムの様な存在が出て来る所が面白い。

所で著者は大衆的に受け入れられているのに、専門の業界からは無視される様な、
所謂「相田みつお」的なものを本書で擁護している訳だが、
それなら何故日本のヒップホップを取り上げた章に関して、
もっとメジャーな人選をしなかったんだろう?
ヒップホップ好きにはディスられていても物凄く売れている人とかを・・・・

ともあれ、これを読んだ後は普段意識していなかった有り触れた文章が、
実は底知れぬ「詩」としての重みを持った物だったのか!と感を新たにするだろう。
何も同じ日本人なのに意味が全く解らない現代詩の本を買って来なくとも、
視点さえ変えれば貴方の周りにも素晴らしい現代詩が溢れているかも知れない。
例えばそれは注意魔のオヤジが激しく書き連ねた注意書きかもしれないし、
そんなオヤジに注意されるガキの書いたいたずら書きにも有るかもしれない・・・

Mitsui
各界に衝撃を与えた三井理峯氏の素晴らしい「現代詩」。

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2008.05.17

「フラワー・トラヴェリン・バンド」再始動記念・紙ジャケ再発!

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伝説のフラワー・トラヴェリン・バンドの再始動が決まった。
当時のサポート・キーボーディスト・篠原信彦を加えてオリジナルでの再結成だ。
既に今年のフジ・ロックへの出演や新譜のリリースも決定していると云う。
裕也さんにお迎えが来る前に、もう一つ花を咲かせとこうと云う奴か?(^_^;
ラスタファリズムに激しく傾倒していて、レゲエをやっていたジョー山中は、
もうこの手のハードな音楽はやらないもんだと思っていたのだが、
以前観たNHKの番組でツェッペリンのカヴァーを衰えぬ歌声で聴かせていて、
是非もう一度あのハイトーンを聴きたいと思っていたので実に嬉しい。
自ら開発したギターとシタールのキメラである変態楽器「シターラ」を駆使する、
石間秀樹とのぶっ飛んだ演奏で若い観客を叩きのめして欲しいもんだ。

フラワー・トラヴェリン・バンドの事を知ったのは勿論解散してからの事で、
あの「人間の証明」でお馴染みのジョー山中が以前に組んでいたバンド、
と云う認識で聴き始めた訳で、そう云う人は意外に多いのでは無いかと思う。
とにかく余りにも日本人離れしたその音には本当に驚かされた。
最初に聴いたのは「SATORI」だったが、そのカオティックな音の塊りと、
暗黒なリフに呪術的でメタリックな歌の混交に衝撃を受けた。
確かにこれなら海外のリスナーも相当惹き付けられるに違いない。
それに加えて痩身でアフロヘアのジョー山中のカリスマ的な佇まいは圧倒的である。
まあ今の耳からするとリズムの拍子やフレーズに日本的な味付けは有る物の、
曲やアルバムのタイトルほどに「日本人のバンド」的な要素が少なくて、
むしろ石間秀樹のシタールやラーガ奏法に代表されるインド風な所も強くて、
所謂外人が連想しそうな「汎亜細亜的」な要素がさらに洋楽っぽかったりもする。
個人的にはやはりアングラな雰囲気が臭う「SATORI」が大好きだが、
コンパクトながらバラエティな曲調を持った「Made In Japan」の完成度も高い。
「MakeUp」はアルバムの成立理由からどうしても散漫な印象が有るが、
堂々たる佇まいとある種の円熟味がバンドの到達点を物語る作品である。

さてそんなフラワー・トラヴェリン・バンドの再結成を記念して、
ストレンジ・デイズから05年に発売された紙ジャケ3作品が再発された。
前作はWeb販売とディスク・ユニオンの店頭のみの発売だったが、
今回の商品は一般での店頭販売もするようである。
前回の時は何となく買い逃がしてしまったのだが、
今回はまた美味しい餌が用意されていてついつい飛び付いてしまった・・・・

さてそれでは各アルバムの仕様と付属物を紹介しよう。
セカンドアルバムと成る「SATORI」はサイケな仏画風なジャケがお馴染みで、
見開きジャケの内側にも時代を反映するラーガなイラストが展開される。
何気に横尾忠則あたりを連想するがイラストを手掛けたのは石丸忍の物だ。
曲目やメンバーのクレジットが書かれたゴールドのカードも付属する。
「SATORI」に附いてくるシングルのミニチュア・スリーヴは2種類、
一つは「SATORI」のパート1,2をシングル化した物で、見開きの内ジャケに、
イラストを手掛けた石丸忍の曲から得たイマジネーション詩が綴られていて面白い。
もう一つは日野皓正クインテットとジョイントしたシングル「クラッシュ」、
これは全くの未聴曲なのだが激しく興味をそそられる1曲だ。
これだけは是非ともボーナス・トラックに欲しかった所である。

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お次は航空便荷物を模したダンボール製のボックス・ジャケットに、
カナダ遠征時に現地の新聞に掲載された記事を表に貼り込んだ、
驚異的に凝りまくったサードアルバム「メイド・イン・ジャパン」。
航空便荷物だけ有って裏には消印や壊れ物シールにスタンプまで押されているが、
それらも総てミニチュア化して再現している紙ジャケの出来は正に「神」である。
縮小してもちゃんと新聞記事の文字も鮮明な所とか実に出来が良い。
アルバムの付属物である、朱色のライナーの紙質も再現されているし、
当時のレコード会社のディレクターによる別紙の解説書、
更にはディレクター宛に送れるポストカードまで縮小化して再現している。
「メイド・イン・ジャパン」に附いてくるシングルのスリーブは2種類、
1枚目はアルバムからのシングルカットで「KAMIKAZE」と「天国と地獄」、
裏ジャケのシタールを抱える石間秀樹の写真が中々カッコいい。
もう一枚はアメリカのバンド「Jo Mama」とのスプリット・シングルで、
その曲「Map」は初の日本語詞によるアルバム未収録曲である。
こちらも是非ボートラで収めて欲しかったなぁ・・・・

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そしてそして最後はラストアルバムに成った2枚組みの「メイク・アップ」。
こちらは中身の見開きジャケに関してはアナログで見た事有ったのだが、
それが入れられる様に成った手提げ鞄風のアウタージャケは見た事が無かった。
なので再現度に付いてはアレコレ言えないのだが、壮絶なシロモノである。
一応素材は紙なのだが、革を模した特殊紙で三辺が縫製されていて、
手提げ部分と挿し込み部分も作られ、タイトルとバンド名がプリントされている。
当時の事を考えると前作、今作供にコストも馬鹿に成らないだろうし、
それだけディレクターがバンドの事を理解して力を入れていた証拠であろう。
アルバムの付属物は仰々しいアウターに対してシンプルなライナー1枚のみ。
で、今作に附いて来るシングルのスリーブは最大で4枚、
その内3枚は「メイク・アップ」で、その内2枚が日立テレビのTVCMに、
この曲が使われた時に出されたジャケ違いの2枚だ。
歌舞伎役者の市川門之助が「鷺娘」を踊る「キドスカープ」のCMらしいのだが、
当時ガキだった事も有って全然記憶に無い、まあ見たら思い出すかもしれないが。
もう一枚は「ウーマン」で渓谷に佇むJoeのジャケが素晴らしい。

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で、その渓谷に佇むJoeの別テイク写真を使ったのが、
今回セット商品の特典として附いて来る国内編集盤LP「TIMES」。
これはバンド解散後に国内で出された所謂ベスト盤と云う位置付けであるが、
雑誌「TIME」を模したジャケが洒落た出来で洋楽のアルバムの様である。
そして特典のもう一枚はカナダ盤のLP「FLOWER TRAVELLING BAND」。
内容はセカンドとサードから選曲された7曲が納められているが、
1曲「Lullaby」と云う「五木の子守唄」を編曲した未発表曲が収録されている。
見開きジャケでバンドのロゴの雰囲気が非常に洋楽作っぽい。
それに対して中ジャケは北斎の「神奈川沖浪裏」なのがエキゾチックだ。
特典の2枚は盤無しでジャケのみだが、「TIMES」にはライナーまで付いている。
特典はアルバム三枚まとめ買い付属の物で、ディスク・ユニオン各店と、
ストレンジ・デイズのWeb販売のみの特典なのでお気をつけて。
で、その特典の2枚も収録出来る特製のBOXも付いて来るぞ!
それから前回発売時の特典は復刻帯だったが今回は付属せず。

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ちなみに裸でバイクに跨り疾走するジャケが余りにも有名な1st「エニウェア」は、
いまならユニヴァーサルから1300円と云う低価格で発売されているが、
以前に出たハガクレからの紙ジャケもまだ店頭に残ってる所も有る様なので、
総てを紙ジャケで箱に収めたいと云う方は探してみるの一興だろう。

さてニューアルバムではどんな世界をみせてくれるのか、楽しみである。

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2008.05.10

これまた微妙な「少林少女」

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公開1週間後のネットでの評判が異常に悪くて、
「ババ引きに行くのはやだなぁ・・・」と少々二の足を踏んでいたのだが、
言われるほど酷い出来ではなく、少し安心した「少林少女」である。

勿論、映画などは年に何本も観る訳ではない普通のシネコンの客と、
日本に輸入される事も無い香港のB級映画を好きで観る人間と感覚の違いは有るが、
正直この位の出来なら合格点は付けても良いレベルの作品だとは思うが、
だからと言っても褒められた出来でも無いのは確かだが。

誰でも一番感じる駄目な部分は、話の主軸のブレだろう。
結局制作側は女の子を使ってハードな「死亡遊戯」をさせたかったのか、
「スポーツと友情で成長」みたいな「少林ラクロス」をさせたかったのか、
どっちなんだろう?結局どっち付かずで共倒れしている訳だが。

個人的に一番残念に思うのは、せっかく主役に柴咲コウを持って来て、
しかもみっちり功夫まで習わせておいて、
何故もっと情念渦巻く様なハードな話に出来なかったのか、と云う事だ。
可愛い顔とか、渾身的な演技が出来るこのクラスの女優なら幾らでも居るだろうが、
情念を孕んだ剣呑な表情で殺伐とした演技が出来るのは彼女しか居ない。
梶芽衣子の傑作「女囚さそり」の後継者にマニアが推すのも当然の存在感だ。

だからして・・・・・・・
不戦の誓いを立てる柴咲コウに更に卑劣な罠が襲い掛かり、
満身創痍の上、心を通わせた仲間も無残に殺され、
焼け落ちた我が家の前で炎を瞳に映しながら復讐を誓う柴咲コウ。
そして敵が待ち受ける「死亡の塔」に形見の道衣を着て現れた彼女は、
鬼人の如き表情で次々と相手を粉砕して塔を登り詰めて行く。
相手の返り血を浴びて朱に染まった道衣姿で最後の敵の前に現れる柴咲コウ。
それをあざ笑うかの様に捕えていた人質を傷つける敵の親玉、
彼女は怒りの雄叫びを放って敵に超絶的な功夫技を繰り出す。
宙を飛び、地を割り、血飛沫を上げて繰り出される拳と脚と気功、
からくも敵を倒した柴咲コウに笑顔は無く、浮かぶのは悔恨の表情だけである。
塔に駆け付ける仲間達だったが、そこに柴咲コウの姿は無い。
誓いを破ってしまった彼女は再び当ての無い放浪の途についたのだった・・・・

・・・・ってまあ、こんな全盛時のショウ・ブラザース映画の如き内容じゃ、
GW時期のファミリー向け映画には成り様が無いですわな。
だからして安易に「死亡遊戯」とか李小龍な要素を踏襲しないで、
「スポーツと友情で成長」な「少林ラクロス」に絞っておけば良かったのである。
まあしかし「少林拳」+「スポーツ」と云う話になれば、
どうしても本家のあのパターンに成るのは致し方無い訳で、
そう云う部分を回避する意味でも「死亡遊戯」的な展開の導入だったんだろうが。
(そう云う点、周杰倫の「少林ダンク」は上手く出来てたなぁ・・・)

まあ何はともあれ柴咲コウのアクションは中々良く出来ていたので、
是非鍛錬を怠らず身体の切れもそのままに世界に出て行って欲しい物だ。
今作は武術指導を香港などから呼ばず日本人が担当いる所は面白いが、
独自のカラーやアイデアが足りない所はやや残念だった。
塔を登ると云う時点でトニー・ジャーの映画「トム・ヤム・クン」が、
かなり究極的なアクションを見せているのでもう少し見せ場は欲しかった。
敵役の仲村トオルは流石海外でも活躍するだけに身体のキレが良い。
ナイナイの岡村はもう少し岡村らしいアクションをあてて欲しかった所だ。
周星馳組のティン・カイマンとラム・チーチョンは中々美味しい役だったが、
あれはしかし「少林サッカー」を観てないと全く理解に苦しむ起用だろう。
彼らのシーンには何気に「少林サッカー」ネタがくすぐりとして入っていたが、
「少林サッカー」を観てないのか、もしくは全く面白くなかったからか、
客の反応が殆ど無かった所が気に成った。
それから驚いたのがキティ・チャン(張雨綺)の出番の多さ。
ヒロインだとは云え周星馳の「長江七號」ではさほど出番も多くなく、
教師役だった為に演技の方も大人しめで余り印象無かったのだが、
今回は主要人物の一画として殆ど日本語で大事な役柄を演じている。
趙薇の様に今後の中華圏の映画での活躍が期待出来そうだ。

最終的に万人にお薦め出来る映画では無いけれど、
良く言われる言い方だが、テレビ放映でたまたま観たりすると、
「結構面白いやん?」と云う感じのスケールの作品である。
まあこのテーマで出来るだけリスクを少なく創るとこんな感じだろう。
やはりテレビ局の創る映画はメーターの振り切れ方が足りんよなぁ・・・

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2008.05.03

巨乳はうらやましいか?/スーザン・セリグソン

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「今この様な本を書いている」と作者が友人たちに話した所、
男どもは決まってこの様な事を言ってくるらしい。
「ふ~ん、で、それって写真は載ってるの?」

多分この本のタイトルだけ聞けば男は何やら楽しい物を連想するかもしれないが、
想像した様な楽しい筈の物は一つも無く、ただただ圧倒されるばかりの内容だ。
楽しい筈の二つのアレが、かくも様々な事象を内に抱いているとは!
好きなればこそ、真面目に考えたい二つのアレのあれこれについての本である。
あ~ちなみに写真は載っていません、1枚も。

本書は、Hカップと云う規格外に大きい胸を持った女性ジャーナリストによる、
おっぱいを巡る現代の様々な事象を追い掛けた現場レポートに成っている。
男の手に拠る物なら、学者から風俗ライターまで数多く残されているが、
女性の手に拠る、況してや自身も大きな胸を抱えた当事者に拠る物は珍しい。
規格外の大きさによる苦難の数々は筆者の実体験だけに非常に事細かである。
知り合い以外の世間が認識する筆者は常に「胸」である、顔では無く主体が胸だ。
胸が大きいと云うだけで降り掛かって来る数々のトラブル、
巨大過ぎる二つの塊りのせいで痛めてしまった背中、
そして何より、合うブラジャーが全然無く、合っても無粋で怖ろしく高価な事。
それでも「巨乳はうらやましい」と言えるのか?で、ある。

所がそれと反比例する様な悩みを、胸の無い女性は抱いている。
一向に胸が膨らまない女性がすがる物、それは怪しげな商品の数々だ。
食品、薬品、クリーム、運動、果ては怪しげな呪術まで数知れず有り、
その行き着く先は整形大国アメリカらしく、豊胸手術となる訳だ。
豊胸手術の現場に出向き、患者や医師に話を聞く部分は中々迫力が有る。
今日のアメリカではまるでカジュアルな雰囲気で語られる豊胸手術だが、
そのリスクは決して少なく無く、様々な問題点が有る事を報告する。
それでも手術を受ける人間は多く、中には有る程度の大きさの胸の女性も居る。
それこそはメディアにより無意識に刷り込まれた理想のスタイル、
自然界ではほぼ有り得ない、スレンダーな身体に驚くほどの巨乳と云う呪縛だ。
「自分の成りたい身体に成る」「私にはその価値が有る」と美容整形広告は謳う。
しかしそれは本当に貴方が望んでいる様な身体なのか?と著者は問う。
メディアが持ち上げ賛美する所を無意識に受け入れているだけでは無いのか?と。

勿論素人だけではなく、身体を見せる事を職業にしている女性の例も有る。
アメリカでは女優にしろモデルにしろダンサーや歌手に到るまで、
何処かしら身体にメスが入っている、などと云う話も有るが、
一種奇形的なまでに膨らませた胸を商売にしている女性たちも居る。
その中のギネス級の一人、マキシ・マウンズに会いに行く件は中々面白い。
著者はマキシに会いに、ベガスで行われているヌードダンサーの祭典に出掛けるが、
人工的に膨らませた巨大な胸の群れに著者自身の胸さえ貧乳に感じる辺りは笑う。
結局マキシには会えずじまいだったのだが、その理由と云うのが、
日本人のテレビクルーが一日中付きまとっていたから、と云うのが何とも言えぬ。

またその逆に、その大き過ぎる胸が日常生活に支障を来している女性が、
胸を小さくする為に受ける「減胸手術」の話も取り上げられている。
確かにそれで商売しようとする以外は日常生活では邪魔な存在であろう。
しかしその手術に関するリスクもまだ馬鹿に成らないと著者は指摘する。

昨今日本のエロ業界では「着エロ」なるジャンルと云うか用語が有って、
「乳首」その物を直に見せていないと云うだけでヌードではない、
と言い切るほぼヌードなジャンルが存在するが、論点は「乳首」である。
本書にもそう云う話題が載っていて、勿論そんな卑俗な話では無いのだが、
公共の場で男と同じ様に女性が上半身裸に成るのが何故いけないか抗議する、
所謂、行動するヌーディストの皆さんと行政の解釈の違いを綴った箇所だ。
(彼女達はそれを「トップレス」では無く「トップフリー」と呼ぶ)
アメリカでは公共の場でのトップレスを禁じる法律が所によってまちまちなのだが、
その場合、何処まで見せるのがOKで何処からがOUTなのか?と云う話だ。
何故「乳首」は駄目なのか?何故「乳輪」だとOKなのか?
多分に恣意的な問題であるが、同じ乳房の一部なのどうして違いがでるのか?
・・・・かくも「おっぱい」は謎に満ちている。


事ほど左様に二つの脂肪の塊である「おっぱい」の存在感は凄い。
存在としての意味でも、性的な意味でも、形而上学的な意味でも計り知れない。
例えば男性女性を問わず、服装倒錯者や性倒錯者の多くが、
乳房とは女性性を本質的に象徴する物とみなしている所にも表れている。
そして誰もが本来好きな物なのに真剣に考えられていない存在でも有る。
「たかがおっぱい」「されどおっぱい」、好き嫌い、有る無しに関らず、
貴方もこの機会に「おっぱい」について考えてみては如何か?

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