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2009.01.31

「Loads Of Chaos~ブラックメタルの血塗られた歴史」

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待望の・・・と言えば正に待望の邦訳出版な訳だが、
この本の初版が出たのが1998年だと云う事を考えると既に十年以上が経つ訳で、
その間に取り巻くシーンも激変していて、遅きに失した感も無きにしも非ずだが、
まあ何はともあれ、本国ノルウェーを恐慌と非難の坩堝に叩き込み、
欧州全域を蹂躙し、世界中にその悪の種子を根付かせたサタニズムの申し子達、
ノルウェーのブラック・メタルの狂乱を描いた「Lord Of Chaos」の初邦訳本、
名著の誉れ高い「ブラックメタルの血塗られた歴史」の出版を祝いたい。

さてその前に、知らない人間にとっては「ブラック・メタル」とは何者?
「従来のメタルとは何が違うのか?」と云う様な話に成ると思うが。
以前、映画「METAL-A Headbanger's Journey」公開時に、
複雑なメタル世界を理解するべく簡単な系統図が創られたりしていたが、
一口に『メタル』と言っても中々初心者には理解し辛い進化の過程が有る。
物凄く簡単に言えばメタルが先鋭化の方向を辿った系統樹の一つであり、
メタル→スラッシュ・メタル→デス・メタル→ブラック・メタルと、
過激さと暴虐さを先鋭的に推し進めていった先の一つのスタイルと言って良い。
更に現代ではブラック・メタルと言っても、それこそ様々なスタイルが有り、
明確に定義出来ないし、定義すれば有る程度の反論も出て来るだろうが、
この本に取り上げられている、謂わば原初のブラック・メタルのスタイルは、
デス・メタルにサタニズムと云う要素を注入し、先鋭化を図った物だった。
現在、ジャンルとして定着したブラック・メタルはイデオロギーも多様化し、
サタニズム以外に異教信仰・土着神信仰・神話や魔術など多岐に渡っており、
シンフォニックやフォーク・メロディの挿入と洗練された物に成っているが、
初期の姿は禍々しくサタニックで異形のデス・メタルだったのは確認出来る。
話はそんな原初的なカオス渦巻く八十年代後半の暗鬱なノルウェーから始まる。

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話の中心と成る重要なバンドの名前は「メイヘム」(無差別暴力)であり、
ユーロニモスことオイスタイン・アーセス率いるオスロで結成されたバンドだ。
過激なバンドとして地下界隈で知られていたメイヘムがその名を浮上させるのは、
88年に加入したヴォーカリスト、デッドの死によってからだ。
コープスペイントを施し、白目を剥いて写真に写るデッドは抜群の存在感で、
恰もサム・ライミの「死霊のはらわた」のゾンビの如き禍々しさだったが、
重度の鬱病を患っており、バンドが共同で住む家で自ら頭を撃ち抜いて死んだ。
しかしユーロニモスはそのデッドの死を利用し、自ら不穏な噂を流し、
メイヘムと云うバンドの禍々しさを最大限にまで押し上げる事に成功する。
カリスマ性の有ったユーロニモスの元には有象無象の不穏分子が集まる様になり、
その中にはユーロニモスのレーベルからデビューする事になる、
「バーズム」を創ったカウント・グリシュナックなども含まれていて、
ユーロニモスが経営するレコード店「ヘルヴェタ」を舞台に、
サタニズムの教義を中心にして緩いサークルを形成して行く事に成る。

何処の世界の若い反社会的集団と同様に、メンバーは自らの度胸を試すかの如く、
サタニズムの名を借りて競う様に過剰で悪逆な行為に手を染める様になって行く。
リレハンメル五輪で湧く街で、声を掛けて来た酔っ払いのゲイに付いて行き、
森の奥深くにて、その男をナイフでメッタ刺しにして殺害した、
ノルウェーのバンド・エンペラーのドラマー、ボード・ファウスト。
木造の伝統的な建築様式を持つ教会に火を放ったカウント・グリシュナックは、
焼け落ちた教会の写真をバンドのフライヤーに使う悪びれなさだった。
警察に検挙されたカウントだが、その後証拠不十分で釈放され、
その行為に刺激されたかの如く、各地で教会への放火事件が起こった。
メディアは若きサタニストの犯罪として好奇的に報道を繰り返し、
遂には英国のメタル専門誌「Kerrang」も表紙にカウントを取り上げ、
センセーショナリズムを煽る様な記事でノルウェー・シーンをレポートした。
雑誌に取り上げられた事で一躍名を売ったカウントに対して、
シーンを牛耳っていたいユーロニモスは反感を抱く様に成り関係は決裂、
お互いがお互いを付け狙う緊張感の中、手を下したのはカウントの方だった。
仲間を伴って、深夜ユーロニモスの自宅を訪れたカウントは、
面会を拒むユーロニモスを「契約の事で話が有る」と説き伏せドアを開けさすと、
有無を言わさずそのままナイフで襲い掛かり、逃げ回るユーロニモスを刺殺。
カウントはアリバイ工作などをしていたにも拘らず幾つものヘマを犯し、
数日後にはカウント・グリシュナック及び共犯者共々逮捕され、
サークル周辺も徹底的に調査され、迷宮入りしていたゲイ殺人事件も判明し、
仲間達が係った幾つかの犯罪も露呈し、サタニスト達の狂乱の日々は幕を下ろした。

この奇怪な事件が日本に伝えられたのは何時の事かは良く解らないが、
自分がこの事件の大まかなアウトラインを知ったのは二千年に入ってからだった。
その頃には既に件のエンペラーの作品などは聞いていたりした訳だが、
点として知る事件が実はシーンに蔓延する犯罪と云う線だった事をその時に知った。
そもそもその頃メイヘムやバーズムの作品などは日本で発売されてはおらず、
(メイヘムの作品は輸入盤に解説を付ける形で「狂魔密儀」が後に発売された。)
隔靴掻痒な気分を味った物だが、ようやくその詳細が読める事に成った。
ただ驚いたのは、この本が単にスキャンダラスな事件を取り上げた物などではなく、
非常に学術的と云うか、事実を踏まえた検証的手法に終始した「堅い」本であり、
ブラック・メタルの発生から現在までの経過やその思想を知る事の出来る内容だが、
猟奇的な動機から読み始めると結構途中で挫けそうに成るほど重厚な1冊である。
世界中で翻訳出版され、各種のメディアに取り上げられ、幾つかの賞も受賞し、
かの「コロンバイン高校銃乱射事件」ではコメンテーターや解説者として、
各メディアに呼ばれただけの事はある、実に特異な労作である事は間違いない。

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本書はまず、ポピュラー音楽の中でのブラック・メタル前史から始まる。
この手の音楽の直接的な始祖と云うべき偉大なるブラック・サバス、
ブラック・メタルと云う名の開発者であり、スタイルを完成させたヴェノム、
コープスペイントの元祖、キング・ダイアモンドや北欧の雷神・バソリー、
そしてスレイヤーからディーサイド等への過剰化の過程が解説される。
特に注目させるのはクォーソンのワンマン・バンドだったスウェーデンのバソリー。
その作品テーマの歩みが後のブラック・メタルの思想を先取りしている様で、
今更ながら注目したくなる存在である。

そしてそれらの影響を踏まえたノルウェーの狂乱の時代のレポートが始まる訳だ。
既に亡くなっているメイヘムのデッドやユーロニモスは無理としても、
(とは言っても生前、雑誌やファンジンに語った記事の採録が含まれる)
刑務所に収監中のカウント・グリシュナックことヴァーグ・ヴァイカーネスや、
ボード・エイトゥーン、など当事者に対する詳細なインタビューのみならず、
放火された教会関係者や信徒、識者や学者の論文も援用し、
一連の事件を多元的に検証するこの部分は非常に読み応えがある。
そしてその後、獄中でサタニズム的な思想から北欧神話にアーリア人的優位性見る、
白人至上主義的極右志向、有色人種差別主義、ナチズムへと偏向して行く、
長いスパンに渡るヴァーグ・ヴァイカーネスへのインタビューが続き、
ヴァーグがその思想の拠り所とした北欧神話的な民族主義の背景を考察する。
この辺の思想的な部分を扱った章は興味の無い人間には難解で退屈な物だろうが、
その後に各国で起こる同様の犯罪事件の背景を伺う意味で外せない部分である。
本書の後半はノルウェーの事件が各国に蒔いた悪の種子が萌芽させた事件を辿る。
ドイツで起きた「アブサード」と云うバンドのメンバーによる殺人事件、
隣国スウェーデンで起こった幾つもの教会放火事件や人種差別的な暴力事件、
フィンランド、フランス、イギリス、東欧諸国、その火は欧州全土を覆うかの様だ。
本書から引用すると「ヴェノムら~はジョークのつもりでサタニズムのイメージを取り入れていた。だが彼らの作った音楽がノルウェーに輸入された時、ティーンエイジャーたちは、ショービジネスとしてのサタニズムをまともに受け止めてしまった。そしてノルウェーのバンドはヴェノムの奇妙なファンタジーの世界を現実のものへと引き上げる―その現実が「論を説く」人だけでなく「その道を行く」人をも崇める若者文化においては、世界中で敬意と供に受け止められた。これにより今度はノルウェーが輸出する側に廻ったわけだが、ここから発生した物は更に過激さを増していた。~本人らが意識していたかどうかはともかく、彼らは手本としたノルウェーをまた1歩先へ―いい方へか、悪い方へか―進ませようとしていたかに見える。」

先に「狂乱の日々は幕を下ろした」と書いたが、それは始まりでしかなかった。
サタニズムやブラック・メタルはある種のきっかけでしかない。
「解決していない問題が積み重なり、遂に何処かで爆発する。サタニズムのせいにするのはスケープゴートに仕立てているだけ。悪魔だけ見ていたら本当の理由は見えて来ません」と本書の中で評論家が述べている。
ブラック・メタルを契機に始まった事件を追って行った本書は、
こうしてティーンを取り巻く危うい環境を「神々の黄昏」と憂いて終る。

気軽な気分で読み始めると、読了後に何とも言えぬ重い気分に浸れる1冊である。

本稿掲載の写真は総てPeterBeste「Norwegian Black Metal」より

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2009.01.24

燃え上がる厄除けツアー・後厄編

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さていよいよ厄除けツアーもこれで終いの「後厄編」である。

「本厄」である昨年は、体調・生活供に全くロクな事が無い見事な厄年だった。
しかし知り合いの中には不調で半年ほど通院していたと云う奴も居るし、
積み重なる家庭の問題で「死にたい」とか呟く奴も居たりと、度合いも様々で、
そう云う境遇に比べれば自分はかなり厄を軽減出来た一年だったとも思う。
それもこれも敬虔な厄除け祈願のお陰だろう!
と云う事で最後の〆も怠らずにしっかりと祈願しようと出掛けた訳である。

最後に選んだ地は、成田山新勝寺東京別院・深川不動堂。
何か遠方の地ばかりを探してきて、相当身近だったこの地を忘れる所だった。
近くの清澄に友人が住んでいた関係上、初日の出の時に良くここに寄った。
いつもメインは隣の富岡八幡だったりしたのだが、ここも必ず訪れる場所で、
新年最初の護摩行で盛大に炎が吹き上がるのをぼ~っと眺めていたのを思い出す。
車で葛西の方へ初日の出を見に行ってた時も懲りずに寄っていたりしたから、
正月に不図思い出し、懐かしいあそこで厄払いをしようと思い立った訳だ。

基本、店が閉まっている元日の早朝に来る事が多くて解らなかったが、
地下鉄の出口を出た深川不動の門前町は恰も縁日の様に賑わっていた。
暦や干物を売る年齢層高めな屋台も依然何軒か軒を連ねていて、
今月一杯は未だに正月の様な賑わいが残っている様である。
ここは高幡不動や西新井大師などと違って3千円台の木札が無くて、
5千円代がから始まると云うのが少々ナニな所では有るのだが、
境内の特設テントで申込書を書いて受付に持って行くと、
今年は後厄と供に方位も良くないと云う事で一緒に方難消除も薦められた。
特に料金上乗せと言う訳では無く一緒にやってくれるそうなので申し込んでおいた。

さて肝心の護摩行であるが、これもまた前2回とは違った趣が有って面白かった。
西新井大師がある種完成されたエンターテインメント演出だとすると、
高幡不動は何処か密儀的でアットホームな雰囲気を感じさせる演出だったが、
対して深川不動はライブな感じで音の凄さで圧倒する感じの演出だった。
(・・・まあ「演出」と云うのは比喩と云う事で、「行」が本当ですわな)
まず前後二台で四台ほどの「法螺貝」を鳴らして僧侶が入場して来る訳だが、
メロディの無い重低音が四台も重なると、かなり重厚なドローン音に成る。
そのドローン音が消える前に金物のカウントと供に読経に入る演出がにくい。
法螺貝のドローン音が何処かチベット密教のラッパのラグ・ドゥンを髣髴とさせて、
そこから何気にクリムゾンの「太陽と戦慄 Part1」を連想したりした。
その後に来るのは都合三台設置された大太鼓によるドラム・アンサンブルだ。
最初は読経に残響音を乗せる様に間延びした間隔で大太鼓の音を響かせるのだが、
炎の舌が長く伸びる度にテンポアップし、三台を使った乱れ打ちに突入する。
一台でも相当の迫力だが三台同時に狭い本堂で打ち鳴らされると音圧が実に凄い。
本堂の天井が余り高くない関係上、炎の燃え盛り方はイマイチな訳だが、
護摩壇の炎が音圧に成って迫ってくる様な太鼓を使った演出は文字通り燃える。
その時、隣に座っていた老婆が合わせる様に唱えていた念仏も最高潮だった。

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祈祷後の木札は、本堂の後ろの4階建ての内仏殿の地下に取りに行くのだが、
この内仏殿と云うのがまた仏さんのアミューズメント・パークと云う感じで、
本堂に続く1階には石を敷き詰めた枯れ池に石橋が掛けられていて、
橋の中央に梵時の「阿」が映し出される「阿字橋」と云うのが出迎えてくれる。
その先には十二支の守り本尊とか七福神とか不動明王の間などが有り、
更にその上の2階には「四国八十八ヶ所巡拝所」なんかが有り、
更に更に4階には最近描かれたと思しき色鮮やか大日如来の巨大な天井画に、
寄進された仏に囲まれた金ぴかで眩しい大日如来像を中央にそえた大日堂が有る。
殆ど新造された物ばかりで明るい照明と相まって妙に賑やかな感じだが、
中華圏の金ピカで派手な寺院が好きな自分にはこの御利益感が中々楽しい。
殆ど総ての仏像に御賽銭箱が設置されていて金が幾ら有っても足りません・・・

せっかく深川まで来た事だし、何処かシブい呑み屋で精進落しとか思ったのだが、
日曜と云うのは余り呑み屋もやって無い様なので、ブラブラと歩いていたら、
レトロ狙いな内装の居酒屋を発見してついついすい込まれた。
デミグラス・ソースのモツ煮とかレバカツなどと云うイカしたおかずに、
酒は神谷バーの電気ブランとかコーザン葡萄酒なんかも有って非常に良い感じだ。
そこで昨年亡くなった同級生の友人の事を考えながら杯を傾けた。

今年は是非とも、穏やかで息災な年に成って欲しい物だ・・・・

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2009.01.17

谷内六郎とローラ・ニーロ

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「光りの季節」、ローラ・ニーロ77年リリースのライブ盤である。

当初は2枚組みでライブの全貌を伝える筈だった作品なのだが、
結局1枚物でリリースされたと云うちょっと残念な逸話を持つ作品だった。
後に日本のみで本来収録する筈だったテイク等に入れ替え、
カットされていた部分も復活させたコンプリート版が発売されたのだが、
今回の紙ジャケ化に際しては更に、オリジナル盤に収録されていたテイク2曲も、
ボートラとして収録される事に成り、正に完全無欠の一枚と成った訳である。
彼女には静謐で神秘的なシンガー・ソングライター風のイメージが有ったのだが、
当時気鋭のジャズ・フュージョン系のミュージシャンをバックにした音は、
冒頭から非常に躍動感が有り、疾走するヴァイブラフォンの音も軽やかで、
ソロ・ピアノで歌われる曲も穏やかで有りながら非常に肉感的で、
そのイメージを裏切る様な聴き易さやグルーヴ感に圧倒されるライブ盤である。

ローラ・ニーロと云う人は常にその歌唱や音楽性を高く評価されながら、
その孤高な音楽性故に中々一般に浸透して行かない「通好み」なミュージシャンで、
ネームバリューは高いから、かなり若い頃にその作品に挑戦した事が有るが、
やはり端的に言って「良く解らず」敬遠していた時期が長かった。
有る程度ルーツ的な音を辿ってきた末に戻って来ると、
その音の輪郭や深みがはっきり聴こえて来て多少は理解出来た気に成った訳だが、
名盤と名高い「イーライと13番目の懺悔」や「ニューヨーク・テンダベリー」を、
聴いた位で熱心なリスナーには程遠かった。

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で、そんな熱心なリスナーでも無い自分が何故彼女の作品を買ったかと言えば、
(・・・いや別に熱心じゃなきゃ買ってはいけない、と云う訳ではないが・・・)
それはもう谷内六郎描くジャケ画に魅かれたからに他ならない。
最初にコレを見た時は驚いたし、ミスマッチさが妙に印象に残った物だった。
日本企画の独自のジャケかと思ったが、世界共通と云うのにも驚かされた。
解説を書いている長門芳郎氏によると彼女の強い希望による起用と云う事らしい。
アルバムの為の書き下ろしと云うより既存の作品の流用だと思うのだが、
燕尾服を着た狐と、何処か彼女の横顔の様な樹の組み合わせが実に合っている。
ゲートフォールカヴァーの内側、歌詞の書かれたインナースリーヴにも、
谷内六郎の絵が添えられていて、正に紙ジャケで買うべき1枚と成っている。

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名作!「上総の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」

谷内六郎と言えば「週刊新潮は明日発売されます」の人だよね・・・・
・・・と云う紹介の仕方も年と供に段々難しくなって来た昨今だが、
やはり或る時期、日本中の老若男女がその絵を知っている要因は週刊新潮だろう。
25年間一度も休まずに1336枚の絵を描いた、と云う事実は驚異だし、
毎週毎週あのクオリティの高い絵を生み出していた、と云う事実も空前だ。
彼の絵に関しては、勿論生まれた時から身近に存在していた訳だが、
谷内六郎と云う画家の名前を認識したのは、死後すぐの大規模な回顧展の時だ。
生前、何気なく記号の一つの様に認識していた彼の絵は、改めて良く観てみれば、
その豊潤なアイデアと淡い幻想性、そして確かな画力に驚かされるばかりだった。
雑誌の表紙と云う制約も考慮しつつ、そしてそれを表現する為の斬新な画面処理、
下の作品等は初雪を表現する為に、実際にレースを切り刻んでコラージュしてある。
他にも軍人将棋の駒やメンコを画面に貼り込んだり、組み紐を入れてみたり、
ろうけつ染めの背景処理や油絵風、水彩風と画風も多彩に変えてみたりしている。

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「初雪のレース」

しかし彼の作品に最も魅かれる部分は、その暗く原初的な幻想性だ。
それにしても人間ここまでプリミティブな驚きや恐れ・夢想などを、
何時までも持ち続けらていられる物なのか?その事自体がまず驚異的である。
例えば週刊新潮の表紙絵に「犬が沢山吠える夜」と云う絵が有る。
寝静まった街に犬の吠え声が響き、つられて他の犬も騒がしく吠えだし、
それを聞いた子供がテレビで観た青い怪人の暗躍を思い出し怖くなると云う絵だ。
誰しも子供の頃に経験する思いだろうが、それを記憶している人間は多くは無い、
荒唐無稽な夢想ほど早くに子供の心から消え失せてしまうものだ。
そんな夢想を大なり小なり毎週の様に描き続けて居た訳である、何と凄い事か。
谷内六郎のその凄みが味わえるのが週刊新潮以前の初期絵画にある。
とにかくトーンが暗いのである、暗黒と云うか原初的な恐怖感が横溢しているのだ。
それは病弱で、持病の喘息発作により何度も入院し生死の境を彷徨った半生故の、
病床にて抱いた暗い夢想の成せる技な訳だが、そこが画家の原点な訳である。
「じふてりあで死んだ子」とか「人さらいのあった晩」など題名だけで怖いが、
病院や病室を舞台にした作品は身近な絶望度も高くて更に寒々しい。
下の画像もその頃の作品で、全体から受ける印象は新潮の表紙と差異は無いが、
その孕む闇がストレートに表れた作品として実に素晴らしい。
国民的な叙情画家と云う称号の前にこう云う言い方もナニであるが、
ほのぼのとした画面の中に何処か幽明郷の様な白々とした透明さを感じさせる、
それがその他の所謂ナイーブ・アートの作家と隔絶した魅力だと感じる所である。

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「レントゲン室に行く道」

谷内六郎の作品は新潮文庫から横尾忠則の編集で「絵本歳時記」が、
そして四季の4冊に「夢」を加えた5冊が、最も入手しやすい作品集だったが、
どうもどれも絶版に成っている様で困った所である。
昭和の終りの頃に「週刊新潮・全表紙絵」が前後2冊セットで出ていたのだが、
それも最近見掛けないし、しっかりしてくれ新潮社と云う感じだ。
流石に全部で千三百点を越える数だけに「全表紙絵」も1万円近い商品だったが、
肝心な「表紙の言葉」と云うエッセイが全点未収録な状態なので、
是非とも新潮社は文庫でも良いから全作に表紙の言葉を付けた体裁の本を、
何巻組み成っても良いから出版して欲しい物だ。
「週刊新潮は・・・」以降に彼に出会う新しい誰かの為に・・・・

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2009.01.10

怪談専門誌「幽」第十号発売

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怪談専門誌「幽」が今号で10巻目に達した様だ。

ネタの終りに「次回も無事刊行される様に」的な事を毎回書いたりしていたが、
何だかんだと関連書籍も増え、とうとう二桁台とはめでたい事である。
好評ゆえなのか今号はページ数が一気に増え、厚さが半端では無くなった。
読み辛いは、持ち運びに嵩張るわで非常に難儀な10巻目である。
更に内容の充実度が厚さに比例していないのが少々残念な10巻目であった。

巻等の「日本怪談紀行」、今回は「怪談マニア」芥川龍之介の特集で、
所縁の地、本所・田端・巣鴨を巡る、個人的にもかなりご近所な紀行だったのだが、
ご近所ゆえに、何時ものオカルティックな展開に少々鼻白らんだ所だ。
まあ雑誌の性格上、単なる文学紀行に終始してもしょうがないのは解るが、
毎度毎度似た様な妖しげな展開が10回も続くとかなり飽きが来る。
そら近所の小学生も地域の有名な場所に、大人が数人集まったりしていれば、
カメラ構えた人間も居る事だし、察して話を合わせたりもするだろう・・・

あの大本教の信者であり、後に日本的なオカルティストとして名を馳せる、
浅野和三郎と芥川龍之介との海軍機関学校時代の接触を中心に語られる、
特集の中の一つ一柳廣孝の「オカルティスト・芥川龍之介」は面白かった。
海軍機関学校と言えば後に芥川の推薦で内田百閒も職を得る所である。
時代の先端である場所で密かに拡がるオカルトの水脈が中々に興味深い。

お馴染みの連載作は何時もながら安心して読める作品ばかりだが、
今回は怪談系の連載作品に余り個人的な好みの物が少なかったのが残念な所。
ただ「幽談」からタイトルを変えての京極夏彦の新連載「冥談」が良かった。
一気に2本掲載と随分作者も力が入っている様だが、
その内の一本である「庭のある家」が実に素晴らしい。
「冥談」と云うタイトルからして、そこを意識しているのは明確なのだが、
「冥途」や「サラサーテの盤」等の内田百閒マナーな作品なのである。
内田百閒的な「奇妙な味」の短編に挑戦している作家は数多く居るが、
中々あの漂白された様に空虚で有りながら、そくそくと迫る違和感とか、
軽妙な様で居て、何処か物哀しい雰囲気を出せている作品はそう多くは無い。
その点で言えば京極夏彦のこの作品は小気味良いほどに百閒を髣髴とさせる。
特に小山内氏とその細君の佐弥子の向うが透けて見える様な佇まい、
そして庭先の椿の花と幽かに漂う線香の香の妖しさがたまらない。
衒学趣味的なギミックを廃した京極夏彦の巧さが際立つ作品だと思う、お見事!

あと今回、中山市朗と北野誠による「やじきた怪談旅日記」が怖かった。
北野誠のお墨付きの都内某所のゲームセンターを尋ねる話なのだが、
怪異が頻発する廃墟同然な、ゲームセンターの入っているビルの4階、
その押入れの天袋の奥に、首の無いピエロの人形が何体も転がっている所には、
実際見たら漏らしてしまいそうな、何とも言えない不気味さを感じる。
人為的な物で有ったとしても、それをする行為自体怖ろしい訳だし、
それは冒頭の「一人かくれんぼ」のテレビ番組の実検に於いても言える。
訳がわからない事が一番不気味で怖ろしいですわな。

特集のその二は2回目と成る「幽・怪談文学賞」の発表である。
今回は長編部門の受賞が無く、短編部門で「枯骨の恋」と云う作品が受賞した。
「枯骨の恋」は怪談と云う括りで読むと左程怖い作品では無いのだが、
とにかく全編に「厭な」雰囲気が横溢する中々インパクトの有る作品である。
何が厭かって、とにかく出て来る人間の澱み切った造型がたまらない。
日常生活でもそう云う、澱んで腐れた人間に辟易していると云うのに、
何でまた小説でってな感じだが、それだけ描写が優れていると云う事でも有る訳で、
係わり合いたくないけど、つい覗き込んでしまう怪しい訴求力は中々魅力的だ。
余り読みたい類の話では無いが、是非この路線でがんばって行って欲しい所である。

特集その三は新企画で、有るテーマを元にした書き下ろし競作と成っている。
今回のテーマは「怪しき我が家」で家族や家庭に係る話で括られている様だ。
「幽・怪談文学賞」出身者が揃っているが、出色は黒史朗の「押入れヒラヒラ」。
ある年齢の人間ならたまらないガジェットを散りばめたノスタルジックな作品で、
特に昔は街に必ず一人は居て、子供にとって畏怖の対象でもあった、
身体の大きな知恵遅れや障害者、偏屈な老人の存在感が特に素晴らしい。
「ビグザム」と名付けられた知恵遅れの女(素晴らし過ぎるネーミングだ!)、
を怖れ「怪物」として認識する少年と、その女の関係も何処か淡く甘やかだが、
ややもすれば物哀しいノスタルジーで終わる所の回想話が、
最後に一気に不可解で不気味な展開を見せる所も非常に面白かった。

と云う訳で「幽」は是非とも今後拡大せずに凝縮する方向で行って欲しい所だが、
この調子だとまだまだサイズの膨張は続くんだろうなぁ・・・・

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怪しい気配が微塵も無い田端近辺の昼下がり

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2009.01.01

酔狂道・丑歳初勝負

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「酔狂道」とは、己との闘いである。
新年早々異常に大上段な論理展開であるが、まあつまりそう云う事な訳である。

酒を喰らってぬくぬくと暖かい部屋で高鼾を掻いている元旦早朝、
何故に随伴者も居ないまま霜も降りた薄暗い街に飛び出さねばいけないのか?
それもこれも総ては「己との闘いに勝つ為」に他ならない。
新年の朝に御来光を拝むと云う習慣をその身に刻んで二十七回目。
かつて小学校の恩師に「継続は力なり」と云う言葉を贈られたが、
一体これがどう云う力に成っているのか全く解らないまま今年もやって来た。

決して大袈裟な前振りを振らなければ本題に移れない訳では無い。
「絶対に押さないでくだいさいよ」と念押しした稲川淳二が、
その舌の根も乾かぬ内に井出らっきょに熱湯風呂に突き落とされた後に、
「喜んでいただけましたか?」と客に確認を求める様な物である。


と、昨年のブログの冒頭をまんまピーコして貼り付けてしまったが、
それと云うのも今回は直前までTVの前で爆睡していて慌てて出かけた為に、
ロクすぽ場所の選定もせずに昨年同様の場所に出掛けてしまったりした為、
昨年と全く同じ場所でデジカメを構えて初日の出を激写して来た物の、
後で見てみたら昨年と殆ど同様の、と云うか昨年の写真使っても解らない様な、
余り変化の無い写真が上がって来てしまった為に他ならない。
(興味がお有りの方は一年前の子年初勝負をご覧あれ)

う~む・・・1年を占う大事な初勝負だと云うのにこの体たらく・・・
今年もパーフェクツな初日の出が見れたから何も問題は無い訳だが、
「喜んでいただけましたか?」と身体を張る稲川淳二に合わす顔がない。
いや・・・・別に俺が稲川淳二に義理立てする意味は何処にも無い訳だが・・・

個人的に昨年は全く宜しくない事ばかりが多かった一年だったりするので、
是非とも今年は何とか復調を計り、平穏な日々を取り戻したいと願う所存である。
やはり私生活が荒れていては酔狂道を闊歩する気力も余裕も無くなると云う物だ。
「不健全な酔狂は、健全な日常に宿る。」

そう云う訳で今年も決意を新たに、霊峰に無事を祈るのであった・・・・

Hinode05

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