「ヤンキー文化論 序説」
書店で本書を手に取ってパラパラ中身を見た時に、
即座に「コレは上手い所に眼を付けたもんだ!」と非常に感心してしまった。
日本独自のサブカルチャーに於いて、確かに「オタク」は研究し尽くされている。
多方面からの切り口で語られ、既に世界言語として通用する言葉に成った。
しかし、その人口から言えばオタクをしのぐ物が有り、日本固有の物であり、
様々な方面に影響を及ぼしている割に殆ど語られていないサブカルチャー。
確かに「ツッパリ~ヤンキー文化」は未だ手付かずの領域として残っている。
社会学や文化学的な分析による学術的な研究書は幾つか存在しているが、
それは社会に対するある種の断面を捉えた研究にならざるを得ない訳で、
例えば、ある個人・ある作品を語っただけではオタク文化を評せない様に、
「ヤンキー文化」としての総括や定義は未だに成されていない訳である。
勿論、本書の中でその総括や定義が成された、と云う訳ではない、
それ故の「序論」なのである。
しかしここで出されたヤンキー文化を巡る評論の可能性は非常に深い。
確かに意識する・しないに係らず「ヤンキー的」な物の存在は非常に大きいから。
さて本書の内容だが、①「ヤンキー文化とは何か」②「ヤンキー系表現の世界」
③「地域社会の中のヤンキー」④「ヤンキー文化論の射程」の4章に別れている。
①では著作「夜露死苦現代詩」に於いて特攻服の刺繍に現代詩を見、
そして改造単車の写真集も出している都築響一氏の対談が面白い。
最近はスナックの写真を撮っているそうで、相変わらず眼の付け所が素晴らしい。
他に「ティーンズロード」の編集に係っていた永江朗氏が、ケータイ小説の内容が、
取材中に聞いた「友達の友達から聴いた」的な話に酷似していると云う件が面白い。
②ではファッション、音楽、漫画、美術等に表れるヤンキーセンスを追っている。
中でも一番面白いのが、成実弘至氏によるヤンキー・ファッションの件だ。
確かに世界中のサブカルチャーを見回してもその感覚は飛び抜けて凄い。
サングラス・リーゼント・アロハシャツなどのアメリカ文化由来の物、
学ラン・ボンタンなどの反学校文化、特攻服、鉢巻、日章旗などの右翼スタイル、
パンチパーマ、甚兵衛、ドカジャンなどの極道・労働者スタイルが混在し、
更にそこに女物の網サンダルを合わせると云う「外し」の妙味。
威嚇的な物とファンシーな物が共存するそのセンスは完全に独自の物だ。
こうして列挙されただけでもその異常さに唸らされるし、考察し甲斐が有るだろう。
森田真功氏による「ヤンキー・マンガ・ダイジェスト」は正にダイジェストだが、
これだけで1冊書けそうなヤンキー・マンガの時代による変遷が綴られる。
近田春夫センセーによる「ヤンキー音楽の系譜」は、私的な見解による、
キャロル、横浜銀蝿、BOφWY、氣志團へと連なるヤンキー音楽変遷史だが、
見解の違いや紙幅の都合も有るのだろうが、若干の喰い足らなさが残る。
個人的には、外道、アナーキー、そして尾崎豊辺りも加えて語って欲しかった所だ。
③は社会学的なフィールドワークで成された或る地域の暴走族の論考だが、
或る一時期、社会から逸脱して暴走行為を行うも、やがて地域社会に戻ると云う、
ある種の通過儀礼的な性格も有った地方の暴走族の存在が、
地域社会の崩壊と供に消滅し不良達の受け皿が無くなって行っている、
と云う報告には色々と考えさせられる物がある。
④では時代の変遷と供に、「暴走族」が「走り屋」に変わって行く事と、
その暴走族の落書がヒップホップ的なグラフィティに変わって行く様を、
ポスト・ヤンキー文化として都市/郊外の変転に合せて語っていく件が面白い。
面白いといえば「ヤンキー先生」でお馴染みの義家弘介氏の、
言動の変遷と立場による変わり身を早さを書いた章には笑わせられた。
そして最後は「日本人の5割は銀蝿的な物を必要としている」と喝破する、
今は亡きナンシー関氏のヤンキー絡みのエッセイで本書を〆ている。
個人的に言えば、自分はヤンキー文化の後期に青春時代を過ごした訳だが、
当時も、そして今もヤンキー文化に魅力を感じた事は無い。
只それでも当時周囲に充満していたヤンキー文化の影響は少なからず有る。
大体つるんでいる連中にツッパリ(当時は殆どこう呼んでいた)が結構居た訳で、
そんな中で学ランのズボンが細いと云うのは有り得ない話だった。
その頃には既に洋楽のロックを聴いていた訳だが、当時は横浜銀蝿の全盛期で、
ツッパリと縁も無さそうな真面目な女の子が、修学旅行のバスの中で、
今やネタの一つである嶋大輔の「男の勲章」を楽しそうに歌っていたりしたし、
今でもカラオケなどに行くと、銀蝿の曲を歌えば非常に盛り上ったりする訳だ。
当時は道交法のせいで殆ど大掛りな集会や走りは影を潜めていたが、
時々凄い台数の走りが有る事が有って、ツッパリの奴に誘われて観に行った。
正く地鳴りの様な音と供に2ケツ3ケツした竹槍付きの単車が乱舞し、
その後をハコ乗りした旗持を乗せた改造車がパトカー引き連れて走行する様は、
余りにも常軌を逸していて流石に物凄く高揚して観ていたのを思い出す。
数台程度の走りは単に迷惑だが、あそこまで行くと流石に強烈に印象に残っている。
殊ほど左様にある種の時代の思い出に結び付くヤンキー文化だが、
では何故今まで「ヤンキー文化」は語られて来なかったのか?
それは本書でも各所で語られ、幾つかの考察が成されているが、
オタクに比べると、元ヤンキーが発言する立場に居なかった事も大きいだろう。
本書の執筆者の中にも殆ど元ヤンキーが居ない様に、
内部から自らの文化や生態を発言する人間が少なかったと云うのも有るだろうし、
そもそもそう云う発想自体がオタク的でヤンキー的では無いのかも知れない。
実際ヤンキーは人生が早いから、早くから社会に出て所帯を持つ連中も多いし、
そう云う中で昔の悪行を振り返る閑など無い、と云う部分も有ったであろう。
では翻って、何故元ヤン以外に研究する人間が現れて来なかったのかと言えば、
ヤンキー以外にとって、連中は嫌悪と迷惑の対象でしか無かったからだろう。
実際にパシリにされてたり、カツアゲされていた様な餌食の連中が、
何を好き好んで悪夢の象徴の様なヤンキーの事を研究しなければいけないのか?
やはりこう云う物は有る程度距離を置いた者でないと研究は難しいだろう。
そう云う点では若い世代のニュートラルな研究者の登場を待ちたい所ではある。
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