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2009.05.30

「チョコレート・ファイター」恐るべし!

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その存在を最初に知ったのはYoutubeにアップされた予告編だったと思う。
正しく最初に「マッハ」を観た時同様の興奮が甦って来たのを覚えている。
「マッハ」以降タイ映画には何度も驚かされて来た訳だが、
ネット上で、信じられない動きと無茶苦茶なアクションをこなす少女を見て、
一体こんな逸材を何処から発掘して来たんだ!とその底知れなさに唸らされた。
その後現地で公開され、ヒットを飛ばしている等と云う話は聞く物の、
日本人の阿部寛が出演しているに係らず、中々日本公開の話が出て来ない状態で、
海外のDVDを入手した筋から「アクションは凄いが話が駄目」等の話も出たりで、
期待が膨らんだり萎んだりする中、ようやく公開のラインナップに名を連ね、
その間1年以上待たされての待望の日本公開な「チョコレート・ファイター」だ。

まあ何はともあれ、総ては主役のジージャーことヤーニン・ウィサミタナンだ。
「美少女」と云うと好みが別れるが、可愛らしい普通の女の子なのは間違い無い。
それが何故にあそこまで超絶的なアクションをこなして行けるのか?
元々はテコンドーをやっていたそうで、身体的な素養は当然有った訳だが、
驚くべきはアクション監督であるパンナー・リットグライに認められてから、
4年間にも渡る厳しい指導と修行を経てからの満を持したデビュー戦だったのだ。
既成の俳優を「アクションが出来る様に見せる」スキルに長けた香港映画でも、
事前に俳優がアクションの練習に掛ける時間は長くて3ヶ月程度だろうし、
日本映画に於いてはそう云う時間さえ割けない事が殆どな訳で、
そう考えてみれば実に羨ましい境遇で、大切に育てられた秘密兵器だった訳である。
・・・にしても彼女の登場は間違い無く映画史に残る事件だろう。
「マッハ」以降、映画の後進国などで、金は無くともその身体を資本にして、
自殺行為すれすれの極まったアクションを見せる連中が方々で現れたり、
かの香港でさえタイのアクションを意識せざるをえなくなった訳なのだが、
その流れにまた新しい一つの基準を、今回タイ映画は刻み込んだと云う訳である。

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アクション映画の場合大なり小なり、「何故主人公はそこまで強いのか?」
と云う意味付けや闘う理由の様な物が、話しの展開上求められる訳だが、
女性が主人公の場合「厳しい修行の末」以外の理由が中々難しいし、
厳しい修行を経た後でも、屈強の男を相手の戦闘が説得力を持たない場合も有る。
では今作ではそれをどう処理しているのかと言えば、
日常生活に支障を来す様な、重度の自閉症的症状を持っていながらも、
特定の分野に於いて驚異的な能力を示す「サヴァン症候群」を持って来た。
つまりジージャー演じる主人公は、ビデオやゲームなどでアクションを観ると、
それが脳内に記憶され、忠実に再現できる特殊な能力を持っていると云う設定だ。
何やら「マトリックス」の脳内ロード機能を思わせるお手軽な設定だが、
お陰で、余り類型的ではないストーリーに成っているのは確かである。

さて、そのアクション同様取り沙汰される事の多い今作のストーリーだが、
仏教国タイ的に言えば「親の因果が子に報い」風な話だと言えるだろうか。
「マフィア組織の首領No.8の情婦として非情な人生を送るジンだったが、
観えない何かに惹かれる様に、敵対する日本のヤクザ幹部マサシと愛し合う事に。
当然それはNo.8にも知れる事と成り抗争は激化、その状況を納める為にジンは、
どちらの元からも離れ、田舎に隠遁しマサシの子供を産み育てる事に。
父親の国に因んでゼン(禅)と名付けられたその娘は、自閉症を患っており、
脳の発育が遅れていたが、渾身的な母の愛に包まれて健やかに大きくなる。
しかしそんなジンも白血病で病床に臥す様に成ってしまい、
高価な治療薬代もままならない日々に、ゼンの幼馴染ムンが一計を案じる。
偶然見付けたジンの借金貸付表を元に、借金を回収して廻る事を思い付いたのだ。
しかしそれはジンが組織に居る時に、訳有りの連中に貸し出した金で有り、
当然ゼンやムンの様な子供にホイホイと金を返す様な連中などではなく、
手下を使って暴力的に追い返される様な体たらくであった。
しかしそこで母を思う余り、ゼンの特殊能力が全開に成り手下達を粉砕し、
次々と債務を回収して行くのだが、当然それはNo.8にも知れる事に成る。
ムンから話を聞いたジンは危険を感じてマサシに連絡を取り、
ゼンの事を聞かされたマサシは組にケジメを付けて単身十数年振りのタイに戻り、
No.8に拉致されたジンとムンの元へ向かう、そして同様にゼンもそこへ。
一人の女を巡る男達の闘いが、その娘を中心にして、今決着が付けられる・・・」

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と云う訳で個人的には「話が駄目」と云うほど酷いストーリーだとは思わないし、
アクションを主軸とした映画の場合、話はシンプルな方がアクションは際立つので、
シンプルなりに中々練られた飽きさせない展開は悪くないと思った。
本国で公開されたバージョンはどうなっているのか観て無いので解らないが、
日本公開版は阿部寛のナレーションで展開する別バージョンに成っているらしく、
それも含めて前半はスタイリッシュで暴力的なノワール調で進んで行き、
ゼンが活躍する如何にもタイ映画っぽいド派手なアクション部分と段差が有って、
そこが新鮮で面白かったが、そこに違和感を感じる向きも有るだろうと思う。
前半はとにかくジンの”ソム”アマラー・シリポンが実に婀娜で妖艶な存在感で、
後半の賢母振りと比べるとキャラの振幅が見事な演技力で魅せてくれる。
No.8役のボンバット・ワチラバンジョンも実に嫌らしい悪役振りで、
タイ映画ではお馴染みなオカマの片腕や殺し屋軍団も実にキャラ起っていて最高だ。
阿部ちゃんも海外の映画に出ても見劣りしない長身と存在感が素晴らしく、
ラスト近くの日本刀を使った戦闘シーンも随分がんばっている。

しかしやはりジージャーの存在感とアクションは格別だ!
アクションばかりが取り沙汰されるが、自閉症と云う難役をこなす演技力も注目で、
駄々っ子の様な部分から、スイッチが入って臨戦態勢に成る時の眼力まで、
その切り替えの妙がアクションの鮮烈さに強烈な色を添えている。
そして戦闘の度に相手の闘い方を学習し、スキルアップして行く部分がまた見事で、
見せ場の戦闘シーンが重ねられる度に闘いが流麗になる描写は実にうまい。
その最たる物が、敵側に居るやはり自閉症っぽい坊主頭のジャージ男との戦闘だ。
今まで見た事の無いくねくねとした相手の動きに翻弄されるゼンだが、
(トリックZと云うマーシャルアーツ+ブレイクダンスの様なテクニックらしい)
瞬時に相手の動きを学習して同様の動きを始めるシーンなどゾクゾクする部分だ。
そして唖然としまくるのが、4階建て位の看板が突き出たビルと、
鉄道の高架に挟まれた狭い場所での最後のアクション・シーン。
ジージャーの技や体捌きの凄さも然る事ながら、相手を務める連中の壮絶さたるや、
何故わざわざ痛そうな落ち方するんだ?ってな姿勢で落ちまくる。
飛ぶは登るは落ちるわで、そのアイデアの豊富さにも溜め息出まくりである。
アクション映画の伝統に則って本編終了後にNGシーンが入っているのだが、
もうこのシーンは怪我人続出だわ痛そうだわで苦労の程が知れると云う物だ。

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恐るべしタイ映画!既にジージャーは新作の撮影に入っているそうである。
革命的な男トニー・ジャーの更にエクストリームな「マッハ2」の公開も決まった。
アクションの限界を超える試みは今も世界中で続いている。

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2009.05.23

コックニー・レベル、ようやくの紙ジャケ復活!

二十年近く前の話だが、或る日書店にて発売したばかりの文庫を手に取った。
聞いた事の無い著者の本だったが、目を惹かれたのはその書名である。
文庫裏のあらすじを読んでいると不意に気に成る箇所があった。
「・・・・そんな麻希子は、左足が少し不自由な少年・工也に出会う。」
そして極め付けは「サムバディー・コール・ミー・セバスチャン」の文字。
「こ・・・これはコックニー・レベル!と云うかスティーブ・ハーリーの事か?」
それが後に「親指Pの修業時代」で知られる松浦理英子の「セバスチャン」だった。

以前「ビー・バップ・デラックス」の紙ジャケについて書いた時、
その最後に「今度は是非コックニー・レベルの紙ジャケを宜しく」等と書いたが、
ようやくその願いが届いたか?、今月に目出度く紙ジャケで再発が叶った。
しかしビー・バップが全作品の再発紙ジャケ化が実現したのに対して、
コックニー・レベルは今回も最初の2作品のみの再発と云うのが残念だ。
まあ厳密に言えばコックニー・レベルとしての作品は確かにこの2枚だけなのだが、
一応「スティーブ・ハーレー&コックニー・レベル」名義で後4枚残っている。
特にジョージ・ハリスンの「Here Come The Sun」の最高のカバーを含む、
名作の誉れ高い最後のスタジオ作品と成る「Love A Prima Donna」は、
淡い色彩の美しいジャケと云い、是非とも紙ジャケ化して欲しかった作品である。

さてコックニー・レベルと言えばグラム・ロックの範疇に入れられるバンドだが、
この時代の優れた英国のバンド同様、主流と成るスタイルを取り入れながらも、
自分たちにしか出せない音・描けない世界を追求したバンドである。
ハーリーの描き出そうとしたのは、エレガントな装いの下の醜さや、
未来を描けないが故の享楽、狂騒的な仮面劇のやるせなさと言った、
グラムロックの明解さとは一線を隔した知的でハイソな世界だ。
何処と無くヴィスコンティの映画に共通する様な退廃感に溢れている。
なのに自らコックニー(労働階級の多い倫敦の下町的な意味もある)を名乗る、
そんな諧謔味とキャンプな感覚は実に英国らしい捻くれ方で最高だ。
幼い頃にかかった小児麻痺により片脚が少し不自由だったハーレーは、
自意識過剰な世界観を持った独特の存在なのに係わらず、
何処か道化的な佇まいを自ら演出している様な雰囲気が物哀しい美青年だ。

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1st「美しき野獣の群れ」

それはそのまま音の方にも表れていて、このバンドの主旋律を奏でるのは、
多彩なキーボードと繊細なE-ヴァイオリン、そしてオーケストレーションだ。
最初に聴いた時に、その音の独特な感触に不思議な気分を味わったが、
それはギターのリフ主導では無い、妙に淡く優しいメロディのせいであり、
シアトリカルでは有る物の、やや落ち着いた声質でフラット気味で歌われる、
啜り泣きの様にも聴こえるハーリーの独特の歌い方にも拠る物だ。
それはデビュー作の「美しき野獣の群れ」の冒頭の「真夏の秘め事」にも顕著だが、
(余談だが、この作品確か「人間野獣園」と云う邦題も付いてなかったっけね?)
やはりハイライトはアンドリュー・パウエルのオーケストレーションが全開の、
名曲「セバスチャン」だと言うのは誰もが納得する所だろう。
宗教画のアイドル作品として、かの三島由紀夫大先生も自らコスプレした有名作、
「聖セバスチャンの殉教図」をモチーフに、過剰なまでのリリシズムも凄いが、
「誰かが僕をセバスチャンと呼んだ」と連呼する自己陶酔さも悪趣味スレスレで、
それを華麗で重厚なオーケストラとコーラスで演出する感覚も痺れるほど最高だ。
本編最後の「死の旅」もオーケストレーションを使った長尺曲であり、
アルバム最後を締め括るのには持って来いの楽曲で素晴らしい。
その後に2曲のボートラが収録されているが、如何にもグラムでポップなシングル、
「ジュディーは恋人」は初の全英No1に輝いた出世曲である。
しかしデビュー作にしてハーレーの「俺節」全開加減は只者ではない。

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お馴染み「聖セバスチャンの殉教図」

そう云う過剰な自意識と確実に意見の別れる美意識が悪夢的な領域に踏込んだのが、
個人的にはコックニー・レベルの最高傑作「さかしま」(ユイスマンス!)である。
この作品の後にバンドは一度解散し、メンバーを変えて再結成する訳だが、
バンドの編成をごく普通のロック・バンド的な物に編成し直し、
アクの強さは有る物の、より普遍的なポップスを演奏するように成る。
と云う訳で、ヴァイオリンとキーボードが主導する奇妙な音はここまでであり、
或る意味プログレッシブな感覚にまで侵食した異形の世界もこの作品までなのだ。
前作の「セバスチャン」の様なアルバムのカラーを決める様な作品は無いが、
コンパクトで多彩な楽曲を並べ、しかもA面B面ともメドレー形式で繋がっていて、
或る意味「サイコなモード」のコンセプトでまとめたコンセプト作とも言える。
フェードインから始まる捻くれた独特な「甘い悪夢」から、
ヴァイオリンが主導するアップテンポなタイトル曲「さかしま」、
そしてシングルヒットを飛ばした「ミスター・ソフト」と快調に飛ばすが、
ダークでミステリアスな雰囲気が濃厚な長尺曲の、
「パステルカラーのデカダンス」で緩急を付けてA面を締め括る。
そして何処無くZepの「イン・ザ・ライト」に似た鍵盤フレーズが幽玄な、
「偏執的ノスタルジー」でB面の幕を開け、メドレー形式で繋がって行く、
カオティックな「矛盾の人生」そして哀しげな「転落」で本作の幕を降ろす。
この辺の楽曲の流れは何時も「クイーンⅡ」のブラック・サイドを髣髴とさせる。
今回の紙ジャケでは2曲のボートラが収録されていて嬉しいのだが、
最後の「サッチ・ア・ドリーム」が、これまたカオティックなバッキングに、
シアトリカルな歌と笑い声を組み合わせた非常に悪夢的な作品で、
恰も「さかしま」な世界がリプライズしたかの様な構成が妙に合っている。

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2ndの「さかしま」

紙ジャケの仕様としては1枚目が見開き、2枚目がシングルジャケで、
2枚目には歌詞の書かれたインナーが再現されている。
いつも言う様に「ギミック有っての紙ジャケ」人間には今回は面白味が少ないが、
2枚目のジャケ写真はボウイ等を手掛けた、かのミック・ロックの手に拠る、
独特の美意識に貫かれた美麗なジャケで有り、紙ジャケの甲斐も有ると云う物だ。
さて例によって何時ものリクエストだが、最近海外では再発した「CityBoy」、
特にモダーン・ポップの隠れた名作「Dinner At The Ritz」はマスト!
あとは変態バンドでお馴染みの「The Tubes」の初期作品などは
紙ジャケ所か長い事日本でも発売されて無い様だし、再び光りを!

しかし日本でコックニー・レベル、もしくはスティーブ・ハーレーに付いて、
書かれた物を読む事は当たり前だが非常に少ない。
今ではネットなどで知る事が出来るが20年前などはそれ所では無かった。
だから書店で松浦理英子の本を見た時にはアンテナが過剰反応したのだろう。
その後、今まで関心の無かった松浦理英子の旧作や新作を貪り読んだ訳だが、
そう云う強烈な出会いが有るのも、情報が少ない故の恩恵だろう。
異形な物同士が繋がり合う面白さもサブカル趣味の醍醐味だと言える・・・

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2009.05.16

膨張し続ける電王の世界

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きちんとフォローし続けている人間以外には良く解らなく成っているだろうが、
「さらば」を告げた後に、再び帰って来た皆様お馴染みの「電王」である。
昭和の芸能興行に於ける過剰な商業主義を通過してきた人間にとって、
「さらば」と云う言葉などその時々の売りの一つでしかない事など自明の理だが、
それでも電王の更なる新作が製作されると云う話を聞いた時には、
余り手放しに喜べなかった事は確かだった。
完全にキャラが起っているイマジン連中を使えば話は幾らでも作れるだろうが、
「電キバ」的な自家パロディは番組終了後の勢いが有ってこその物だし、
「さらば」が王道的な話の集大成として結構良くまとまっていたから、
今更「縮小再生産」的な方向の話は如何な物か?と云う感じはあった。
更に「電王」以降着実に売れ続ける佐藤健の出番は今回も厳しいだろう。
まあ何かと不安に成るのは好きな作品故だが、当初はそんな感じだった。

しかしそこは「電王」で数々の興行スキルを築き上げて来た東映だけに、
今回も手堅いネタで事前に映画への盛り上げは抜かり無かった。
その際たる物が「キバ」に続いての「ディケイド」とのコラボだ。
現在放映中のディケイド自体からしてが平成ライダーとのコラボ作品な訳だが、
その「電王編」を映画とリンクさせると云う「俺誕生」以来のネタである。
ディケイドと言えば「世界の破壊者」と云う冒頭のナレーション通りに、
その作品のファンなら怒りかねない様な再構築度でライダー世界を巡る、
或る意味本当に「世界の破壊者」な番組な訳だが、「電王編」に関しては、
そのディケイド世界が電王に破壊されているが如きなカオスっぷりだった。
まあ電王編は再構築では無くて完全に電王の世界との地続きな設定だったが、
番組の弾けっぷりが明らかに電王のカラーに侵食されていた回でもあった。
冒頭からディケイドの登場人物の士・夏海・ユウスケにイマジンが憑く訳だが、
憑依体の再現度はさて置き、演じている側が実に楽しげ演じているのが良かった。
スタイリッシュな他の平成ライダーに比べると、明らかにオラオラな感じで、
チンピラ臭ぷんぷんなモモちゃんの戦闘シーンは文句無しのキャラ起ち感だし、
世界を移動する写真館がデンライナーの中に有るシュールさも最高、
石橋蓮司とキンちゃんが将棋を打っていても違和感が無い所が流石である。
FFRシリーズの玩具バレが来た時に、その「デンオウモモタロス」で誰もが思った、
「電王からモモちゃんに変形って何?」を逆手に取った驚異の変形と、
その後のクウガに成ったユウスケの渾身のボケに爆笑必至な脚本にも痺れる。
更には終ったと思いきや「ここが何処かも解らずに」降臨してくる王子で、
劇場版へのつかみは言うまでも無く完璧に揃ったと云う所だろう。
他にNHK教育の「あしたをつかめ~平成若者仕事図鑑」という番組で、
JAEの伊藤教人に密着した「スーツアクター」と云う仕事を追った回があり、
そこで正にメイキング映像とでも言える本編の映像が流れたりもしたのも大きい。

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毎回お馴染み映画のガイド本

・・・と云う長い前振りを経て磐石の態勢で公開を迎えた今作、
「超・仮面ライダー電王&ディケイドNEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」。
(何か権利関係が複雑な会社同士が合併した様な長ぇえ~タイトルだね、しかし)
「さら電」同様の中規模的な公開館数だったが今回も好調な滑り出しの様で、
週間順位は4位だが、初週6日間で動員40万8000人、興収4億7000万円を記録。
実際連休中の終りの夜8時の回に、都内のシネコンに観に行ったのだが、
かなり規模の大きなスクリーンの劇場が四分の三ほども埋っていたし、
いつもの事だが劇場販売アイテムは殆ど売切れのスカスカな状態だった。

さて今回の「超電」に関して事前に雑誌に載った白倉Pの談話などから、
「ユウ」と云う少年の話を軸にした「ジュブナイル」的な話だと伝えられていて、
実際、映画公開前に発売された映画の主題歌「超・Climax Jump」でも、
ミッドテンポの曲に乗せ、ノスタルジアを謳い上げる様な歌詞に成っていたりと、
その方面が随分と強調されている事が解った訳だが、
確かに今回の作品は、少年の成長の為の旅立ちと帰還が中心に有り、
その外側に従来の「電王」の世界が有ると云う構造に成っていた。
制作側も色々と考えたのだろうが、これは中々に上手い方向転換だったと思う。
良太郎とイマジン達の物語を前作で一度収束させ、その世界感はそのままに、
時を越える電車に乗った面々が、様々な人や世界と係り去って行くと云う図式。
これなら今後話を発展させて行くのに打って付けのスタイルだと言えるだろう。
後述する玩具本の中に石森プロ関係者の談話が載っているのだが、
「平和な家庭にモモタロスがやってくる風なロボコン的な世界も可能だ」
と云う発言が出ているのだが、それは確かに面白い展開かもしれない。
「茶の間にイマジン」と云う図式だけでかなり話が発展しそうなほど、
既に連中のキャラとしてのポテンシャルは高く成っている筈だから。
まあ極端にそう云うファミリー向けの方向に話を振らなくとも、
今作で更に存在感が増して来た、幸太郎(New電王)とテディの話とか、
白鳥百合子の復帰前提の話だが、ハナとコハナの話とか色々作れそうだ。
と云う訳で今作は、従来の「電王」を離れた所で電王的な物は可能か?
と云う試みに挑んだ作品として、まずまずの成果を見せたのでは無いだろうか。
故に本編最後の「ユウ」少年の正体に付いては、やや蛇足だった気がしてならない。
「ユウ」は電王世界の別な所から来て別の所へ帰って行く方が、
「NEOジェネレーション」を謳う今作には合っていた様に思えるのだが・・・・
まあ、あの結末に喜ばない電王ファンは居ないとは思うが。

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今回の話の主軸と成る「ユウ」少年は、女の子である沢木ルカちゃんが演じている。
見事なまでの美少年っぷりであの年代ならではのイノセントさが素晴らしい。
そのユウ少年が母の様に慕うのが、室町時代の女戦士トキであり、
演じるのはグラビアでお馴染みな南明奈なのだが、結構これが予想外に良かった。
「俺誕生」のほしのあきは論外として、「さら電」の神田沙也加などにしろ、
尺の関係上も有るだろうが本当にゲスト的な扱いで終る事が多いのだが、
トキに関してはユウとの関係上それなりに見せ場が多々有り、
常に凛とした表情が要求される芝居も上手くこなしていて中々感心した。
それに対して敵役の篠井英介と柳沢慎吾はやや表層的な役柄だったのが残念。
せっかく慎吾ちゃんを使うのならもう少し遊ばせて欲しかった所かだろう。
佐藤健の代打としては実に打って付けだったのが「俺誕生」でも出演の、
子供時代の良太郎を演じた「小太郎」溝口琢也。(随分成長したよね~)
佐藤健を見事にトレースした演技は非常に達者で素晴らしい。
そして既にチーム・デンライナーの一員として違和感無く溶け込んでいる、
前作より表情が明るく成って爽やかな桜田通の幸太郎とテディの主従もいい。

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「女優」沢木ルカちゃんとアッキーナ

さて今回の作品一応「&ディケイド」と云う事に成っているが、
「デンキバ」の時と同様にディケイドは本当に単なるゲスト出演に留まっている。
王子に憑依されたり、その王子を捨て猫の様に現場に持って来たりと、
中々に笑わせ所は有る物の、ディケイド出現シーンも何気に中はモモちゃんだしな。
まあ憑依用の疑似ライダーを出す為だけの出演なディエンドよりはマシか。
「胸の顔はやっぱり飾り」なNew電王ベガ・フォームはややアレな感じが有る物の、
「超・電王」の「超」を体現した「超・クライマックス・フォーム」には痺れる。
ちゃんと王子がくっ付いた時点で例の芝居をやってくれる所も最高なんだが、
「俺誕生」以来のファンの夢であろう、背中のウイングが滑空時に拡がって、
それでキックを決めると云う素晴らしく「超」な技でフィニッシュで言う事無しだ。
ラストの戦艦対電車の闘いも色々細かい技を織り交ぜて見所が多かったが、
デンライナーもあんな巨大な物を敵に回して次回はどうすんだろう?

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次回・・・そう今回は「超・電王」シリーズの第1弾と云う位置付けなんだそうだ。
今回も興行成績は悪く無い様だし、確実に第2弾は来そうな予感はする。
そう云う訳で更に膨張し続ける「電王」の世界な訳だが、
お馴染みの劇場版ガイド本に続き、電王関係の本が再び立て続けに出ている。
その1冊が上記のフィギュア王・別冊の電王関連では2冊目と成る、
「ライダーグッズ・コレクション2009 EX 仮面ライダー電王2」だ。
何と「New電王」のソフビが同包されていると云う豪華な1冊なのだが、
別にソフビを蒐集していない人間にはもう少し安くして欲しかった1冊でもある。
グッズ案内以外にも前回に収録されなかった出演者のインタビューや、
劇場版3作品のデザイン事情や製作者側の話など、相変わらず読ませ所が多い。
しかし番組が終ってこれだけ経つと云うのに、次々と作られるグッズの数々は、
凄いと云うか異常と云うか、作品の持つ力の凄さに改めて驚かされる。
特に劇場限定グッズの充実度は毎回異常にクライマックスで笑う。
電王グッズに関してはキリが無いので買っている商品も限られて来るが、
買い続けているSICの電王シリーズは既に7作目に成る長期展開である。
最初のソードとモモちゃんのセットが出た時点ではウラもキンも出る予定が無く、
意味ねえなぁ・・・とか言っていたが今月でイマジンも4人全員揃う事に。
ウラの造型だけは納得いかんが、可動イマジンが4人揃うのは実に目出度い。
この勢いだと王子も欲しい所だが、出るとすればNew電王&テディと云う所か?
フィギュアーツには何と「ハナ」が微妙な造型で加わる事に成った訳だが、
それならやはりリュウとキンは加えなければ駄目だろう、電車セットも出た訳だし。で、
更にスーツ特写本「IMAGINE 仮面ライダー電王特写写真集」の第二弾も、
今月の末辺りに発売するそうである。

更に膨張し続ける電王の世界、次回は秋か冬頃だろうか・・・・

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2009.05.09

酔狂道・阿修羅展へ行く

Asyura01

連休明けに仕事先に行って、まず聞かれる事は「どっか行った?」って奴だ。
当然自分も同様の質問を相手にする訳だが、双方決まって云う言葉は、
「いや~何かダラダラと過ごしてたねぇ・・・」と云う絞まりの無い言葉である。
大体にしてこの時期何処へ出掛けても物凄い人だし、
その上休日料金などに設定されていて金も掛るしで、家に居るに限るのだが、
世間の浮ついた空気に、ついつい乗りたく成ってしまうのもまた然りで、
年中行事に逆らわないのもまた、「酔狂道」の求める道・・・・
等とどうでも良い理由を論って、連休中に人込みの中へと出掛けた訳である。

午後5時過ぎの上野駅公園口は帰宅する連中で物凄くごった返していた。
駅前は屋台とか大道芸人などが、人の足を止めさせ人が渦巻いていたが、
流石に西洋美術館から先は人波もさほどではなく楽に歩ける。
今回の目的は国立博物館で催っている「国宝・阿修羅展」なのだが、
連休中は開館時間が夜の8時までと云うので余裕である。
余裕ついでに「今なら並ばずに、すぐご覧に成れま~す」と、
「待ち時間0分」のボードを持った国立科学博物館の係員の口上に乗せられて、
科博で開催していた「大恐竜展」につい寄り道してしまった。

子供の頃は大好きだったが、敢て今「恐竜展」等には出掛けないなぁ・・・
等と思いつつ会場に入ったら、いきなり会場に居るガキやカップルが、
展示品をデジカメとか写メでバシバシ撮っていたので驚いた。
普通展覧会の会場は撮影禁止だろう?と思ったが、最近は問題無いらしい。
係員もフラッシュ等を焚いているガキは注意していたが、後はスルーだった。
隔世の感が有る・・・と云うかそんな状況に違和感を覚えつつ、
連れも携帯でバシバシ写メを撮っていたのでその写メを今回拝借した次第で。

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今回の目玉は世界初公開と云う史上最大級の肉食恐竜「マプサウルス」なのだが、
公開されているのは13mと6mと云う大きさの親子恐竜の化石だ。
しかし結局幾つに成ってもこう云う巨大な物を観て洩らす言葉は一緒である。
「でけ~!」「こんなのに襲われたら人間ひとたまりも無いわな」みたいな・・・
たまにはこう云う物を観て人間の矮小さに思いを馳せるのも必要かも知れない。
その後、翼竜のコーナーが続くのだが、やはり洩らす言葉は一緒だった。
しかし翼竜と云うとプテラノドンとかギャオスとか(後の奴は違うか・・・)
空を飛ぶ関係で優美なシルエットだと云う様な印象が有ったのだが、
展示されていた「アンハングエラ」とか「タラソドロメウス」なんかは、
頭部が恰も深海魚の如く畸形な感じで、これが空を飛んでいたと思うと怖い。

Kyoryu02


さて科博の閉館時間も迫って来たので早々に切り上げて阿修羅展の方に向かった。
国立博物館の入り口では「待ち時間20分」と云う看板が出ている。
昔、モナリザが始めて日本で公開された時には、国立博物館の周囲を2周と云う、
物凄い行列が出来たと何かの本で読んだ事が有るが、
それに比べれば20分などあっちゅう間な話しである。
夕暮れの空に綺麗なうろこ雲が伸びる空の下、さして待つ間も無く入館出来た。

しかし一般に日本人は宗教に対し他国の人間より不信仰だと言われる訳だが、
こう云う展覧会に於ける日本人の熱狂的な感じと云うのは何なんだろう?
いや、勿論宗教的な物ではなく、美術品としての鑑賞が前提な訳だが、
飽くまでこれは宗教的な教義に則った仏像と云う位置付けは変わらない。
何故金を払って、しかもわざわざ並んで待たされてまでまで観たいのか?
勿論信仰心の無い人間をも感服させるのが仏教美術に望まれる力の一つだろうが、
嬉々としてそれを享受する信仰心の無いと言われる日本人の姿は興味深い。
お馴染みな話しだが、今回の展覧会に際して海洋堂が阿修羅のフィギュアを作った。
それが開催1週間ほどで売り切れに成り、更に発注済み商品の予約販売も瞬殺し、
僅か2週間ほどで1万5千個を売り切ったと云うから恐ろしい話である。
当然海洋堂フィギュアのファンも多いし転売目的の輩も居るだろうが、
この異常なまでの阿修羅人気は何なの?と思わせる出来事である。

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期間限定の八部衆の2体が見れなかったのが残念・・・

そんな事を最も感じたのが本展のメインの阿修羅像の展示会場に於いてだ。
八部衆・十大弟子の並ぶ会場を抜けて細いスロープを登って行くと、
一段高いコーナーが有り、その下に全方位から見れる阿修羅像が立っている。
結構広いスペースが設けられているのだが、像の周りは人の波である。
阿修羅像を囲む様に二重三重四重位の人垣が出来ていて、
係員が「ゆっくりと時計回りで廻って下さい」と指示する物の
近くの輪は遅々として動かず周辺に向かうほど輪の速度が上がっていたりする。
一段高いコーナーからその輪を見ていると、華奢な阿修羅像を中心に、
只一箇所に熱い視線を送る人の輪がゆっくりと円運動を行っているのだ。
何やら宗教的な静かなる熱狂を感じさせる、怖ろしくも不思議な光景で有った。
阿修羅像がこの世に生み出されて千三百年、
かつてこんなにも熱く大勢の衆目を浴びた事が有っただろうか?
名も伝えらていない天平時代の仏師は、現代のこの熱狂をどう思うだろう?

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台座の方が回転した方が・・・・と云う意見もチラホラ

失われた現代の信仰心の在りかが何処か窺える様な阿修羅展で有った・・・・

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2009.05.02

根本敬・狂い咲きの刊行ラッシュ

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久しく活動が伝わって来なかった特殊漫画家大統領・根本敬だったが、
米国の大統領が因果者のブッシュから、「でも、やるんだよ!」とばかりに、
黒いオバマに変わった昨今、触発される様に驚くほど精力的な刊行が続いている。
ほぼ月に1冊のペースで3ヶ月連続新作リリースと云う、
寡作(まあ事情も有るが)の著者にしては驚異的な刊行状況だと言える。
こんなに根本敬の著作のリリースが続くと云う事を全く知らなかったので、
新作のコーナーに次々並ぶ様々な書籍に混乱しつつも、ほくそ笑んだのは確かだ。
3冊まとまった所で全部を一気に読んでいったのだが、
個々に著作のスタイルは違うと言え、それぞれに因果の糸が絡み合い、
上は特殊漫画の神々でも有る、水木しげるとか蛭子能収が高みで薄笑いし、
下は名も記されぬ、犬小屋から豚小屋までの荒野を彷徨う人々が、
著作の間を行き交い、語り笑い涙して現れては消えそしてまた顔を出す。
その「濃厚な無駄話」に悪酔いつつも、その中に世の真理の如きを見て唸らされた。

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「真理先生」は、何と本業で有るあの強烈な画が一枚も入らないと云う、
装丁も異常にシンプルな、小説らしき一本を含む雑文集とでも云う1冊だ。
根本敬を始めて知る様な人には、余りにも雑然とした濃密な話の数々に、
面喰う事も有るだろうが、どれも無駄の中に宝が有るを実践した文章である。
特に感心したのが「男と男の結婚式・男、友情の旅編」と云う一文の中の、
焼き鳥屋のマスター・アキちゃんが、演歌しか聞かないと云う男達に語る言葉で、
「その時、その瞬間、絶妙なタイミングで飛び込んで来る歌というものが誰にも必ずある。(中略)だがね、皆そういう歌が入り込むのを掴んで逃がさぬ事を習慣づけて欲しい。何故ならそういう歌は例え欧米のロック、例えばジミヘンだろうと「アキレス・ラスト・スタンド」だろうと、そいつにとっては日本人である以上、どうあれ実はその瞬間からソレは最高の歌謡曲なのだ。何故なら歌謡曲とは、俺達のクニじゃあ天国と地獄を結ぶ何方道(クロスロード)に立つお地蔵さんであり音の道標なのさ」
と云う奴だろう。何と云う金言!痺れる・・・実に痺れる。
そして雑誌「en-taxi」に掲載されたと云うその物ズバリ「小説」が素晴らしい。
所謂「聞き書き」とでも云う様な、著者が最も得意とする文体で綴られた小説だが、
正しく生の「聞き書き」の通りに話があっちこっちに飛ぶ所がまた妙味であり、
オヤジが得意とする所の「エロい形容詞」なども見事に話に彩を添えている。
根本漫画のファンならお馴染みの吉田佐吉らしき男の登場も嬉しい所だろう。
勿論これは例によって何処かで著者が聞いて来た話の小説化なのかも知れないが、
どす黒いユーモアーは夢野久作の「ゐなか、の、じけん」を髣髴とさせる物だし、
ある種、伝統的な日本の「私小説」の濃厚な変奏曲としても読む事が出来る筈だ。
流石に量産は難しいとは思うが、是非こう云う物を書き続けて行って欲しいもんだ。

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三冊中、どれか一冊からと云うのならば「特殊まんが-前衛の道」が、
根本敬の業績を網羅した様な、自伝的な内容なだけにおすすめである。
子供の頃、ゾッキ本で出会った特殊漫画の現人神・水木しげるから始まって、
異能が集結するガロ時代、そして「師」として崇める湯村輝彦のイイ話、
宇宙の中心に「今も」居る勝新太郎と、ロケンロールの超越神・内田裕也との邂逅、
韓国の大学に於ける特別講義と、サヌリムの金昌完氏との熱い熱い交友話、
名著「因果鉄道の旅」に到る紆余曲折など、読ませ所の多い内容だ。
根本敬を知っている人向けな「真理」や、話が飛びまくる「講義録」に比べると、
抑制された平坦な文章で読みやすく、初心者にも喰い付き易い一冊だと言えるが、
本書の三分の一を占める天久聖一のとの対談が「いかにも」な内容で最高である。
内容も然る事ながら、無意味に変わりまくる段組の落ち着きの無さとか、
根本と天久の写真やプロフィールが段々変容して行く、その意味の無さに笑う。

それにしても根本敬が愛する人々との、全精力を注いだ交友話は実に読ませる。
勝新原理主義者として常に敬いを持って語られる教祖の話は方々で読んでいるが、
裕也さんとの二度の邂逅の話は、その自然な人柄も有ってグッと来る話に成ってい。
キンテリこと湯村輝彦のイイ話は戸川昌士氏の著作で何度か読んでいるが、
本書でも痔で肛門の手術したキンテリらしいケツの穴の大きい話がたまらない。
しかしそんな名の知れた人間との話を差し置いて特に面白かったのが、
今は亡き「浜田」と云う友人との奇妙な交友を示した話である。
浜田氏の複雑な性格を、冷徹で有りながら温かい視線で見詰る根本氏もイイが、
そこにトラフィックの「ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ」が絡み、
因果の糸が偶然を装い、様々に絡み織り成される展開が余りにも見事過ぎる。
人の生き様の無意味さと深さが、可笑しさと哀しさの間に漂う最高の無駄話である。

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刊行時期は前後する「映像夜間中学講義録・イエスタデー・ネヴァー・ノウズ」は、
帯の解説を引用すると「この本は2000年10月20日から2008年12月26日まで、アップリンク・ファクトリー「根本敬の映像夜間中学」より、講義部分を8年に渡る膨大な記録の中から、現時点で生の営みにおいて明確になった、ぴんからトリオを見据えながら、ざっくばらんにワザワザ「1回分」に編集したものです」・・・と云う様な、まあざっくりとした非常にらしい1冊な訳である。
3冊も立て続けに読んでいると、何処かで読んだ話が到る所に出て来るが、
こちらは「講義録」と云う事で、根本氏の独特の語り口で紡がれる話に飽きは来ず、
やはり「イイ話」と云うのは何度読んでも聞いても良い物だと実感する所だ。
特に「出会うのが40年遅れた幼馴染み」のホモの「部長」から聞く、
「ハッテンバ」に於けるイイ話の延長で出て来る曹洞宗の坊主の話が白眉だ。
非常にとんでもない所が「徳」と云う物に直結する話しな訳だが、
一見結び付きそうにも無い話が、巡り巡って「徳」や「因果」に繋がる所が、
「無意識を鍛えろ」と説く根本氏の言葉に結実し、深いんだか浅いんだか不明だが、
しかし一面それも世の真理と感じさせる「イイ話」の純度の高さに唸らされる。
本書の終章に有る通り、「真理」や「真実」だの所謂「本質の探究」等と云う物は、
「ド忘れした時の状態、タレントの顔見て名前を思い出せないけど、解った所で大した問題じゃなくても気に成って思い出そうと、脳味噌の内側をグルグルと回転する、あの時の頭ん中の、はたらきと似たもんがあるんだな、30年、40年、50年、かけて思い出す、「あっ!水前寺清子」だったと・・・・」と云う事だ。
本質の探究の行き着く先が「水前寺清子」と同じ、と云う指摘は実に深い。

さて本書には未公開特別付録DVDが付いていて、
根本氏とスタッフの撮影による横浜のドヤ街に住む芸術家・宮間英次郎氏と、
自称素人AV男優、根本ファンにはお馴染みのイイ顔のオヤジ・亀一郎が、
宮間氏の芸術作品を頭上に載せて、ドヤから中華街への行進を収録しているが、
やはり途轍もないインパクトで場を攫って行く、「元NHKアナウンサー」が凄い。
そしてそんな特濃な面々の映像を差し置いていきなりフェードインして来るのが、
本書のカバーにも使われているエヴィス・プレスリーの邪悪極まりない御姿。
その存在感の後にはぺんぺん草1本も生えない、凄まじい破壊力で有る。

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ちなみに今回ディスク・ユニオンで「特殊まんが」と「講義録」を買うと、
先着特典で未公開DVD(講義録)と豆本(特殊まんが)が付いて来た。
DVDの方は「講義録」付属のDVDの未収録部分が収録された物で、
豆本は中々凝った造りの「特殊まんが」のサブテキストと言った体裁の物である。
さて、そのおまけの豆本はシリアルナンバーが中に記されているのだが、
普通、印刷された総数に手書きでシリアルナンバーが書かれていたりするのだが、
俺が貰ったおまけは「110(手書き)/100」と記されていた。
ん~最初は総数が100部だったんだけど増刷した上での110冊目なのか?
それとも手書きの方が総数で印刷された方がナンバーの方なのか?
これは電気菩薩が導いた因果の伏線で、何時か俺はその真理に気付くのだろうか?
何か最後に謎を掛けられた様な、実に根本敬的な展開に唸らされる・・・・

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