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2010.03.27

あの「ウィッカーマン」が廉価版で!

Wickerman01


昨年の話だが知らぬ内にあの「ウィッカーマン」が廉価版でDVDに成っていた。
何故この時期にあのカルト作が廉価版で出るのか事情は良く解らないが、
もしやこれはニコラス・ケイジのリメイク作の、唯一の功績なのかもしれない。

「ウィッカーマン」のDVDは03年に確かWeb注文限定で特別完全版が発売された。
こう云う後世に評価が高まる作品の常としてこの映画も不本意な形で公開される。
スタジオ閉鎖に係るゴタゴタと供に、主に商業的な理由での場面の大幅なカット、
本来の形は102分有ったそうだが、それらの理由で88分と云う現在のタイムに成った。
作品が正当に評価されるにつれ製作者側は完全版での公開を模索した訳だが、
これがまた運命の悪戯と云うか非常にしょうも無い形で絶望的な状況に成る。
この辺の事情は映像特典の「The Wicker Enigma-Documentary」を観て貰うとして、
では03年に発売されたDVDの特別完全版とは何なのか?と言えば、
発売サイトの解説によれば『「エクステンデッド・バージョン」とは「オリジナル・バージョン」から削除されたシーンの内11分を復元、「劇場公開バージョン」と合わせて再編集したものです。現時点での暫定全長版と呼べるものです。』と云う事だそうだ。
結局この時は主に金が無かったと云う様な理由で特別完全版を買わなかったのだが、
この「暫定全長版」と云う部分に食指がそそられなかった部分も有った。
と云う訳で今回の廉価版は73年劇場公開時同様の従来通りな88分版と成っているが、
特別完全版に収録されていた特典は殆んど収録されているので実に重宝である。
オリジナルのネガが紛失した状況をみるだに真の意味での完全版は難しそうだが、
何が有るか解らないのがこの世の中である、或いは何処かで・・・・

「ウィッカーマン」と云う作品の事を知ったのは確か85年頃、
かの東京国際ファンタスティック映画祭に関連して発売されたムック本での、
当時知られざるカルトなホラー、SF、スプラッタ等を紹介したコーナーでだった。
僅か一枚だけだったがそこに掲載されたファニーで悪夢的なスチル写真と供に、
如何にもカルトっぽい諧謔味のキツそうな内容に心奪われた。
その時点では当然日本でも公開されてないしビデオも未発売だった訳だが、
その後多分どこぞのレンタル店で見付けて来て(ダンウッチか?)視聴した。
カルト映画と呼ばれる作品は無駄にこちらの期待が高められているだけに、
観ると「まあそんなに騒ぐほどの作品か?」と云う事態に成る事は多々有る。
多分「ウィッカーマン」に関してもそう云う感想を抱く人間が多いかと思う。
話の基本ラインは、現在的な価値観や倫理観や宗教観などが著しく異なった、
人跡離れた地に於いて、現代人が遭遇する恐怖を描くと云う黄金のパターンで、
横溝正史の諸作からテキサスの人肉マスク一家まで数知れず創られているが、
「ウィッカーマン」の場合それが殺伐とした剥き出しの悪意と云うより、
何処か長閑な白日夢的な雰囲気で、それが作品に躁的な狂気を与えている感じだ。
例えて言うならH・G・ルイスの「2000人の狂人」に近い悪夢感とでも云おうか?
勿論、あれほどショッキングな描写も大量の血が流れる事も無い訳だが、
「ホラー=怖い」と云う単純な図式では無い独特の幻想味がたまらない訳である。

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後にレンタル落ちの中古で入手した秘蔵のVHS

ちなみにウィッカーマンとは、古代ガリアで信仰されていたドルイド教における、
供犠・人身御供の一種で、巨大な人型の檻の中に家畜や人身御供の人間を閉じ込め、
神に捧げる為に焼き殺す祭儀の英語名称の事であり、
カエサルの『ガリア戦記』やストラボンの『地誌』の中で紹介されている。
それと作中で描かれる奇怪な祭祀、仮面の行列等がどう関係しているか解らないが、
全編に流れる牧歌的なフォークソングと相まって非常に印象的だ。
そう、この感じは英国のストレンジなフォークシーンを映像化した様な雰囲気なのだ。
もしコウマスの音楽を背景に配したら間違い無く、怖ろしくハマる事だろう。
コウマスのデビューは「ウィッカーマン」公開から遡る事71年、
マーク・ボランがコンビのティラノザウルス・レックスで呪術的な音を奏で、
インクレディブル・ストリング・バンドの音がカオス的にどんどん捻じれて行き、
ドノヴァンが英国的な神秘をパトリックのジャケ画と子供の唄に託して表現していた頃。
そう考えるとこの映画が創られた背景も当時の世相も何となく伺い知れる感じである。
そして奇怪な童話的白日夢の感触濃厚な劇中の仮面を付けた祭祀の映像は、
ピーター・ガブリエルが主導していた頃のジェネシスを間違い無く髣髴とさせるし、
「怪奇骨董音楽箱」と邦題された「ナーサリー・クライム」の世界その物である。
この実に英国的な感触の幻想味が「ウィッカーマン」のカルト味の一つなのだ。
そうそう、かのアイアン・メイデンもブルース復帰後の初アルバムである、
「BRAVE NEW WORLD」の頭で「The Wicker Man」なる曲を捧げてましたなぁ・・・・

勿論、自らこの作品に入れ込んでいる英国ハマープロが誇る怪奇映画のマエストロ、
クリストファー・リー師匠の奇怪な長髪・女装姿が見れると云う部分とか、
同じくハマープロに於いて女ヴァンパイアとしてカルト的な存在感を誇る、
何処からどう見ても普通に見えないイングリッド・ピットの図書館司書とか、
「007 黄金銃を持つ男 」のボンド・ガ-ル、と云うよりスターと数々の浮名を流した、
ブリット・エクランドの珍しい色情狂演技とヌードが観れる部分とか、
一部のマニアに嬉しい描写も多々有るが、何はともあれカルト映画ファンのみならず、
英国音楽マニアにも謹んで紹介したい「ウィッカーマン」なのである・・・
廉価版で手軽に入手出来るこの機会に是非!!

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VHS裏面の作品の解説より

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2010.03.20

邪神の目覚め~復活のコウマス神

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ロジャー・ウートンによる最新のコウマス神アート。


全く持って世の中何が有るかわからない。
よもやあのイタリアン・プログレ界の中でも異端の誉れ高い暗黒楽団、
伝説の「オザンナ」が日本でライヴを行う日が来ようとは!
(まあオリジナル・メンバーがVoのLino Vairettiだけと云うのが相当難だが)
一般の皆様はさて置き、マニアならその事態の異常さは良くお判りの事と思う。

さて、その手の有りえない再結成に驚愕した話の筆頭と言えば、
偏愛する、英国の異端の匂い濃厚な暗黒フォーク集団「コウマス」の復活だ。
某音楽雑誌に連載しているカテドラルのリー・ドリアンのコラムに於いて、
コウマスの再結成ライヴが行われる記事を読んだ時は流石に目を疑った。
確かに日本でも残された二枚の作品が紙ジャケで再発され、
英国のSanctuary Recordsから1stと2ndにマキシ・シングル収録曲、未発表曲、
更にロジャー・ウートンのソロ・シングルも含めた全集的二枚組みも発売され、
新しい世代に対して伝説を解放する準備は着々と進んで来たと言えるのだが、
加えて現代的なアシッド・フォークの旗手であるディヴェンドラ・バンハートや、
アニマル・コレクティヴ等に担ぎ出されて、印象深いアルバムを一枚出して消えた、
伝説のヴァシュティ・バニヤンや、元フェアポートのジュディ・ダイブルの復活、
かつてのストレンジなフォーク的味わいを持った新世代のバンドの登場など、
異端中の異端であったコウマスが甦る下地は確かに出来ていた。
そして2008年3月9日、ストックホルムとヘルシンキ間を往復する一隻の客船、
その船内で開催される「Melloboat Festival」の会場に於いて、
コウマス神は遂に32年の眠りから目覚めたのだ。

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この時の映像は「Comus live at the 2008 Festival」としてDVD化されている。
未だに購入出来ていないのだが動画サイト上がった映像を幾つか観た。
積み重ねた月日は当然、あのミステリアスな若者達をも残酷に変えていた。
長髪の美青年だったグレン・ゴーリングは、今でも繊細な雰囲気でまだしも、
眼鏡の奥の目玉だけがギョロっとしていて得体の知れない痩せこけた若者だった、
ロジャー・ウートンは年相応に貫禄が付いて妙に快活なオヤジに変貌していた。
その他のオリジナル・メンバーも似たり寄ったりな感じなのだが、
紅一点のボビー・ワトソンが年相応の美しさを保っていてちょっと安心した。

こちらの勝手で一方的な思い込みとは云え、謎めいたその存在に対する
妖しく繊細で神秘的なイメージが薄れなかった、と言えば嘘になる。
伝説は伝説のままで妖しくひっそりと鈍く光り続けていて欲しかったとも思う。
しかしほぼオリジナルなメンバーのまま、あの邪悪な曲が再び奏でられる悦びは、
「最高に愉しめた」と例のコラムで感想を述べたリー・ドリアン然り、
コウマスの為にこのフェスに参加したオーペスのミカエル・オーカーフェルト然り、
長きに渡って密に寵愛してきた者たちには格別な物が有る筈だと思う。
その後も活発とは言えないが散発的にコウマスのライヴは行われている様で、
「Melloboat Festival」での一夜のみの再結成では無かった事が嬉しい。
もしも「奇跡の来日」等と云う物が有るのなら真っ先に駆け付けたい・・・・

コウマスに関する詳しい話はこちらをどうぞ。

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さてDVDのみで未だ新しい音源は発表されていないコウマスだが、
最近「Roger Wooton & PIU / Cut The Air At Mello Club」と云うCDが出た。
ロジャー・ウートンがスウェーデンのフォークロックバンド「PIU」と共に、
08年の12月にストックホルムのCafe Edenborgで行ったライブの音源だ。
邦題「魂の叫び」その物な1stの異形なコウマス神を描いたロジャーの手に拠る、
悪趣味極まりない殺人サンタを描いたジャケが余りにも強烈過ぎる一枚だ。
しかしこの男のセンスは三十年以上経っても色褪せる所か更に醜悪に成っている、
殺人サンタは何故かガーターストッキングを穿いただけの変態的な姿だし、
何故か猫の死骸も供に詰め込まれた、袋から飛び出す死体の顔は虚ろな表情で、
デジパックの内側にはこれでもかとばかりに盛大に血が飛び散っている。
昔から技巧的には優れていないが、このプリミティヴなインパクトは絶大だ。
ダニエル・ジョンストンのジャケに通じると云うかアウトサイダー・アートである。
今作はロジャーが唄うコウマスのナンバーが4曲、PIUの曲が2曲収録されている。
スウェーデンの「PIU」と云うバンドに付いては全く知識が無いのだが、
女性Voをフロントに添えた5人組の若いアコースティカルな編成のバンドで、
収録された2曲の楽曲を聴くと、北欧らしい陰鬱なメロディが美しく、
確かに一般のトラッドに比べるとコウマス辺りの影響は濃厚に感じる。

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ロジャーとPIUのメンバー

さて今作の目玉は何と言ってもロジャーに拠る新曲の「Out Of The Comus」だろう。
かつてのロジャーの歌声の特徴と言えば甲高く震える様なヴィブラート声だったが、
復活後の歌声はヴィブラートは抑え目で割と素直にメロディを唄っている感じだ。
しかし突き抜けた様な甲高いキーはそのままで、それが実に躁的な狂気を醸し出す。
更に特徴的なのはサビの部分での吐き捨てるが如きドスの効いた歌い方で、
若い頃のロジャーが殺し方一つに意味を見い出す腺病質なサイコキラーだとしたら、
現在のロジャーは殺しに意味を付与しない豪快なシリアルキラーと云うか感じか?
他に収録されたコウマスの楽曲に比べると楽曲の展開の仕方にやや不満は残るが、
意外にポップな感触のメロディが1stと2ndを合せた様な感じで中々巧い。

しかし2ndの冒頭を飾った激しくロールする「Down-Like A MovieStar」、
呪術的で幽玄な「コウマス賛歌」、精神病患者の内面を描いた「The Prisoner」と、
アコースティカルながら漲る躍動感に、プログレッシヴな構築美溢れる展開、
あっけらかんと狂っている歌詞の世界と、やはりコウマスの楽曲は素晴らしい。
可能なら現在的な狂気を描いた新たなコウマスの世界を聴いてみたい物だ。
なんせ、世の中何が有るかは解らないのだから・・・・

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2010.03.13

「越境するポピュラーカルチャー」

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国家や宗教、言語や生活が違う場所へでもサブカルチャーは軽々と越境する。
その自由さが制約の多い世界で生きる人間にはとても鮮やかに映る。
勿論、そこには一言で括れない様々な問題や要素が混在しているのも確かだが、
音楽、映画、ドラマ、漫画、アニメ、ファッション、小説、グッズ等々、
世界中の誰かと共用出来る要素が有ると云う事は文句無しに素晴らしい事だ。

日本人が産み出して来た、或る種ガラパゴス的で独特なカルチャーの数々は、
創り出して来た物達の自覚を持って世界に広まって行った物ではなく、
むしろ無自覚に発展して行った物がその独自性故に世界で注視された、
とでも云う様な無意識過剰で野放図な所が魅力的だったと言えるだろう。
本書「越境するポピュラーカルチャー」は、その無意識過剰な文化が、
歴史的にも国家間的にも一様でない問題と関係性を含んだ東アジアに於いて、
如何に受容され、咀嚼され、模倣され、今日に到っているかと云う考察の本だ。
その国々に於ける日本も含むサブカルチャーの変容に付いては、
市井のライター達に於けるレポートや調査が数多く発表されているが、
本書は「Asia Global Cultural Forum」と云う国際共同研究グループの、
『東アジア地域における日本の大衆文化の受容』と云う学術的研究に於ける、
各国の研究者による歴史学的視点による論考を中心に編集されている。
なのでやや生硬い内容の本に成っているが、現地の研究者が手掛けている故の、
日本人には中々知り難い複雑な経緯をはらんだ資料性の高さは流石に面白い。

基本的に現地の研究者が受容する立場からの論考が中心に成っているが、
内容及びスタンス的にも谷川健司が執筆する冒頭に掲げられた、
「李香蘭神話の再生産と持続性」に関してはやや異質な所が無いでもない。
ロングインタビューによる本人が付与されたプロパガンダ性に付いての考察、
同じく時代と国家に翻弄されたディートリッヒとリーフェンシュタールとの比較、
現代の学生から観る李香蘭映画の意味合いなど、非常に面白い論考なのだが、
一冊の本に成るべき内容の抜粋と云うか、そのプロローグ的な意味合いが強く、
「再生産」の部分に関しては本書の内容の為の付け足しの様に感じてしまう。
是非とも一冊にまとめられる時を期待したい、と云う感じだろうか。

非常に読み応えが有り、尚且つ新しい発見が有ったのが秋菊姫による第二章、
「軍事政権期における韓国の純情漫画作家たちの抵抗と権利付与」と云う副題で、
韓国の少女漫画の複雑な発展をたどった「失われた声を探って」だった。
少女漫画所か韓国の漫画史に関しても殆んど何も知らなかっただけに、
その複雑な成り立ちや、何かと微妙な関係にある日本との係りも興味深い物がある。
「模倣」や「盗作」と切り捨ててしまうと解らない或る時期の韓国の少女漫画が、
厳しい儒教社会に加え制約の多かった軍事政権下に於いて、
韓国人女性作家が自らの声を挙げる為の手段と成っていた、と云う事実が面白い。
それから漫画の受容に一役買っていた「マンファバン(漫画房)」の存在、
(当初は店頭で貸し読みする形式だった、日本で云う所の「貸し本屋」的な物)
マンファバンの隆盛に対する供給不足と軍事政権下の日本文化流入への規制の為、
韓国人幽霊作家を表面に立てた日本の漫画の盗作・改変工場システムの成立、
八十年代初頭から別の角度で頭角を表してきた新しい同人誌文化等々、
愛憎半ばする日本文化を取り込み深化させ独自の物にして行く構造が興味深い。

同様に「韓国大衆音楽に及んだ日本の影響-一九四五年以前と以降の差」は、
日本植民地化から脱却以降も影響が及ぶ日本の歌謡曲との関係を探る論考だ。
ここでも忌避しつつも逃れられない日本の影響のジレンマが見て取れ、
四五年以前の植民地政府と以降の韓国軍事政権による大衆音楽への締め付けが、
それぞれ違った形で日本歌謡の受容と変容として表れる部分が面白い。
それが現在に続くK-POPにどう受け継がれたのかも知りたい所である。

第六章の屋葺素子による「台湾におけるカバー曲の変容」だが、
現在でも関心の有る台湾歌謡に付いてだけに語りだすと止まらなく成りそうだが、
一つ挙げれば、或る種「安易な」とか創作力の無さ的に語られるカバー曲であるが、
最近ではそれが質の高い「トリビュート」的な領域にまで達していると云う所だ。
歌詞の中に印象的な日本語のフレーズを残してカバーしていたり、
サビの部分に日本語と似た様な音の中国語を当て嵌める芸当まで見せてくれる。
当然そこに到るまでの文化的・社会的な変転も含めての受容と変容な訳だが、
その洗練のされた方は模倣を超えて一つの文化に成っていると言える。
「パクリ」と一言で片付けるのは簡単だが、そこに含まれる要素は様々に深い。
サブカルチャーの流入による受容と変容の図式こそが一つの文化なのだから。

第三章の呉咏梅による「日劇のように優雅に、韓劇のように温かく」は、
副題通りの「中国に於ける日本ドラマと韓国ドラマの受容」に付いてで、
第七章、王志垣の「日本のドラマと香港の社会」はその香港編と言える。
文革以降、改革解放まで国を閉ざし文化の流入を拒んでいた大陸に比べて、
香港は早くから日本文化との交流を持っていてその歴史も古い。
映画の世界では井上梅次や中平康などの監督を香港に招き、
日本でヒットした「嵐を呼ぶ男」などを現地のキャストでリメイクしたりしていた。
或る年代の香港人なら「仮面ライダー」の主題歌を日本語で普通に歌えたり、
超合金等の古い玩具の市場が確立されているのも香港ならではの現象だ。
そう云った経緯を持った香港の四十年に渡る日劇の紆余曲折を考察したこの章は、
九十年代に深く入れ込んでいた香港のサブカルと含めて個人的に非常に面白かった。

そんな新世紀の香港で、ふと紛れ込んだ北角辺りのDVD屋で見た光景が、
棚に所狭しと並ぶ様々な韓国ドラマのボックスセットだった。
日本でも「冬ソナ」ブームで韓国ドラマの人気が普通に取り沙汰されていた頃で、
期せずして、中国の一部と成った香港も含めての韓劇の人気を思い知らされた。
そもそもワンクールで12話ぐらいの週間スケジュールな日劇に比べると、
他の東アジア地域のドラマは毎日放送する長いスパンのドラマを制作している。
だから放送形態的には韓劇を受け入れる土壌は無理無く有っただろう。
第三章は一九八〇年代以降の「八〇後」と呼ばれる若者世代を対象に、
スマートでスタイリッシュな都市生活者の恋愛や悩みを描いた日劇と、
理想化された大家族的な懐かしい温かさや葛藤を提供する韓劇の及ぼした影響、
そしてその影響を受けた大陸産のドラマの登場などを考察して見せる。

そしてこれも学術調査と云うかフィールドワーク的だからこそ面白かった、
第四章の「滝沢秀明の香港人ファンに関する人類学的考察」は最高だった。
所謂スターさんの追っかけの生態と意見に着いては部外者には未知な部分が多いし、
それが事、違う国のスターだった場合は尚更その情熱の源泉が探り難い。
そんな追っかけたちを人類学的な分類とフィールドワークで探って行くこの章は、
曰くマイナスなイメージで見られ勝ちな集団の一様ではない深さが伺え、
同時に何故香港人が日本のアイドルを追うのか?と云う一端も知れて興味深い。
当然この様な多様なケースが有る場合に一つの回答を見る事は不可能に近いが、
その家庭状況や成長経歴、個人の境遇を軸に考える事も重要だと教えてくれる。
是非とも今後、男女差による違いなども含めて研究して行って欲しいもんだ。

さてこの面白い本だが、一つ気に成ったのが各章の翻訳に付いてで、
学術的な論文に付いてならこれで正解なのかもしれないが、
一般に向けた読み物として見た場合、とにかく生硬で読み辛い部分が多かった。
そこの所が多くの人に読んで貰いたい本なだけに残念だった部分である。

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2010.03.06

ユーロ・ロック・シリーズ魅惑の第一弾

以前BMGから発売されていたイタリアン・ロックの紙ジャケCDシリーズが、
共通したモノトーンの帯の感じもそのままにソニーから復活した。
BMGとソニーが合併した事に拠る物で、名称もユーロ・ロック・シリーズと変わり、
ソニーが権利を持つイタリア以外のバンドも紹介して行く様で愉しみだ。
以前のシリーズが当初の2100円から最終的に2730円まで値上がりした事に対し、
今回は2千円以下に値下がりした事も財布に優しく個人的には非常に嬉しい。

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さて今回の目玉商品と言えば文句無しにカナリオスの「四季」に決っている。
ちょっと驚いたのが、この作品これが日本での初CD化だと云う事である。
マニアの多いユーロ・ロック界隈、こんな物まで出てたのか!と驚かされるが、
こんな歴史的名盤が今迄出ていなかったと云うのがちょっと信じられない。
(編集されたアナログ盤は以前日本でも発売されていた様である)
以前紙ジャケでは無いがワーナーから「哀愁のユーロピアン・ロック」と題された、
スパニッシュ・ロックばかりを集めたシリーズが発売された事が有るが、
三回続いたその「スペインの旅」シリーズでもカナリオスは出ていなかった。
と云う訳で正しく待望の発売にして漸くの紙ジャケ化で目出度い限りである。

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指揮をするカリオン先生。

カナリオスのこの作品の成立状況はジガンティの「犯罪の歌」と良く似ている。
どちらもそれ以前は普通の実力の有るビート・バンドだった訳だが、
「四季」と「犯罪の歌」に於いて突然変異的にプログレッシヴ化している所が、だ。
カナリオスに関してその要因はアルフレッド・カリオンと云う男に集約される。
当時のスペイン国立歌劇団監督であり本作のアレンジと合唱を指揮した男、
彼の尽力が「ロックとクラッシックの融合」と云う、挑む者の数こそ多けれど、
真の意味で成し遂げた者は数えるほどしか居ない偉業を成さしめた要因であろう。
バンド演奏と同等にカリオン率いる歌劇団の大人数の混声合唱が響き渡り、
オーケストラがクラシカルな色を添え、ソリストが朗々と歌い上げる。
謂わばこれはバンドと云うより(国家主導でない)国民的プロジェクトであり、
スペインと云うロック後進国の欧米ロックへの挑戦とでも言える物だろう。
ちなみに今作以降に出たカリオンのソロ作「錬金術師」も中々優れた作品であり、
「哀愁のユーロピアン・ロック」の時に日本でも出ているので必聴である。

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カリオンのソロ作「錬金術師」

基本はお馴染みな、かのアントニオ・ヴィヴァルディの「四季」な訳だが、
春夏秋冬の四つの季節に合わせて、人間の誕生から成長、そして死を重ね合わせ、
さらに天地創生から輪廻転生に万物流転、審判の日そして黙示録と言った、
宗教的テーマも同時にはらますと云う非常に奥深い世界観を描いている。
生命の誕生を思わせる爆発音から混沌としたキーボードのフレーズが続き、
それを切り裂く様オペラティックな独唱に重なる赤ん坊の泣き声。
そして始まるお馴染みな「春」のモチーフの躍動感には心躍らされる。
バンド演奏のブレイクの入れ方や、そのダイナミズムはかのニュー・トロルスの、
「コンチェルト・グロッソ」を髣髴とさせる素晴らしさで迫って来る。
カテドラルに響き渡る様な重厚なチャントに導かれて始まる「夏」は、
プログレッシヴなフレージングに変拍子が絡み合うロックなパートが、
マーチングドラム導かれたシンセの独特なフレーズで終る躍動感溢れる楽章。
その躍動感は「秋」にも引き継がれ、ここは正にアンサンブルの極致と言える楽章。
クリストファー・リーに似た低い創造主のナレーションが語り掛ける中を、
重厚なチャントは更にグレゴリアン・チャント的な歌唱を聴かせるまでに成り、
ギターの泣きのフレーズが三拍子のリズムに乗り「秋」のモチーフを奏でる見事さ。
そして最後はクリスマス・コーラスで「冬」に繋げると云う展開がすばらしい。
バンドの出自であるビート・バンドっぽい唄物に終始しそうな雰囲気が、
急に不穏でフリーキーな展開に移るスリリングな最終楽章である「冬」。
冒頭で聴けた爆発音が響く中、クラシカルなフレージングの応酬が続き、
季節は巡るが如く「春」で登場したオペラテックな独唱が再度登場して、
創造主を思わせる低いナレーションが、この劇的な音楽の幕を閉じる。
あまりに重厚で絢爛な音に眩暈を覚えるが、退屈を感じる隙さえない緻密さである。
美しいか否かは評価が別れる蝶をモチーフとしたジャケは見開きで、
以前買った輸入盤では一枚にまとめられていたが今作はアナログ同様二枚組み、
盤を入れるオリジナルのインナーもちゃんと2種類添付されているが、
今回の仕様で嬉しいのがオリジナルに付いて来た20ページのブックレットの再現だ。
ブックレットの内容の逐語訳も付けて欲しかった所だが、
歌詞の対訳が付いて来るので複雑で難解な作品の理解に非常に役立つ。

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カナリオスと同時期に出た作品の中で愉しみだった作品の一つが、
ドイツのシンフォニック・バンド「ウインド」の2nd「モーニング」だ。
ドイツのバンドと言えば昨今のエレクトロニカの元祖としてのクラウト・ロック、
所謂電子音楽系のバンドの再発が大量に進んでいる状況な訳だが、
それに比べるとシンフォ系、そしてハード・ロック系の再発が遅れている。
英国の影響をモロに受けて多様なバンドが存在した70年代のドイツだけに、
今後このシリーズでも深い所を発掘して行って欲しいもんである。

音楽を奏でている可愛らしい人形をモチーフにしたジャケが表わしている様に、
ファンタジックでリリカルなフォーク・ロック的手触りの音を出していて、
爪弾かれるアコギの響きや、たゆたう様なメロトロンの音色に、
その手のマニアならニヤリとしてしまうブリティッシュの香りが忍んでいる。
実際にメロトロンの響きも含めて、余りにもクリムゾンの「エピタフ」な所が有り、
ドラムのロールやオカズがまんまマイケル・ジャイルズだったりしたりして、
その辺のB級さ加減は面白いが結構好悪の別れる所ではないかと思う。

個人的にはVoの声質が結構ワイルドなだみ声だったりするので、
正直こう云うリリカルで幻想的な音には余りフィットしていない様な気がした。
未聴だが彼らの一枚目はサイケなオルガン・ハードだったりするそうで、
ここのVoにはそう云う音の方がより合っている様な気がするのだが・・・・
なのでリリカルなパートから急にハードな音のサビに移る6曲目などが、
Voのカラーに合っている感じでこの路線の曲がもうちょっと欲しかった所である。

さてこのシリーズ、他にも来日が決っているオザンナの「スッダンス」とか、
プログレッシヴなカンタトゥーレでは外せないフランコ・バッティアートとか、
イタリア物でも見逃せないアイテムを数多く発売してくれて嬉しい。
ついでに以前発売がアナウンスされるも結局中止されてしまった超大物である、
ルーチョ・バッティスティの諸作も今後発売して欲しいもんである。

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