« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010.06.26

圧巻の「戦後エロマンガ史」

Ero01


途轍もない労作であると供に、素晴らしい仕事の記録である。
歴史と云うのは刻まれた時点で始まると云うが、
殆んど記録される事すらなかった豊潤な歴史が起ち現われたと云う感じである。
外務省も認める世界に冠たる日本の漫画文化の裏面史とでも言うべき、
戦後から始まる「エロマンガ」の歴史と云う奴が。

著者の故・米沢嘉博氏と言えば、メディアに登場する一番有名な顔は、
かのコミックマーケットを主催する「コミケット準備会」の代表としてだろう。
今や世界にその名が轟くコミケの主催者と云うだけでも凄いが、
本業はマンガ批評を中心としたサブカル関連の執筆者であり、
特に少女漫画から同人誌界隈まで目配りの届いたマンガ批評には定評がある。
そんな氏が長年温めていたのが、かつて自らも編集に関わっていた、
読み捨てられ殆んど顧みられる事の無い、エロ雑誌及びエロマンガの記録である。
しかし思い付くのは簡単だが、これほど困難な作業もない訳で、
そもそも出版社に記録などが殆んど残ってないだろうし、
それ所かそう云う雑誌を作っていた出版社自体が残っている方が稀である。
読み捨てられる事が基本なエロ本は雑誌が殆んど残らないのが普通だし、
有名誌のコレクターは居ても泡沫的な雑誌まで網羅している事は殆んど無い。
本書には書かれていないが、氏はこれだけの資料をどうしていたのだろう?

Ero02

多分その資料の一端がここにも有るんじゃないかと思わせる本が、
「QuickJapan」の編集で名を上げた赤田祐一氏がまんだらけの元で出していた、
雑誌「あかまつ」の別冊「戦後セクシー雑誌大全・実話と画報・篇」だ。
偶然入った神保町の古本屋で店頭に出たばかりの大量の古いエロ雑誌を見付け、
雑誌の企画を思い付き、まんだらけの方でその6百冊を一括購入し、
その後も折に触れ蒐集を続けて3千冊を用意して挑んだこれまた労作である。
この本でも冒頭に米沢氏が「戦後日本エロ雑誌クロニクルー実話雑誌を中心に」と、
「アメリカ文化が日本のエロ雑誌に与えたもの」を執筆しており、
米沢氏にとっても多分この3千冊は有用な資料に成ったのではないかと思う。
それにしてもこの「別冊・あかまつ」は非常に資料性の高い素晴らしい本で、
巻頭の書影を収めたカラーグラビアや、当時の記事や特集の採録、
出版社の事情、編集者・手描き文字職人へのインタビュー、
そして「S&Mスナイパー」で連載されていた「昭和艶楽館」の再録などなど、
赤田氏らしくビジュアル・読み物ともに非常に愉しめる優れた1冊だった。
「戦後エロマンガ史」と供に読めば充実した知識が得られる事は間違い無い。
次号の特集が「奇譚クラブの全貌」と云う事で楽しみに待っていた物だが、
呆気なく2号で休刊と云う辺りが現代のカストリ雑誌っぽく、残念だった。

Ero03
     電算写植ではかもし出せないこの味の有る手描きフォントを見よ!


さて話を「戦後エロマンガ史」に戻して・・・・
本書は書き下ろしではなく、中々複雑な経過を辿ってまとまった一冊である。
基本雑誌連載をまとめた物なのだが、その掲載誌の殆んどが「あかまつ」同様、
1~2号でつぶれてしまい、その都度掲載誌を漂流していた企画なのだった。
その後雑誌「アックス」で4度目の連載をスタートさせ連載は7年にも渡るが、
御存知の通り06年の10月に著者が急逝してしまった為に、
自身の手で完結させる事が出来ないまま終了した因縁の連載企画なのだった。
故に著者の意図通りにまとめられなかった関係上喰い足りない部分は多く、
「何年にはどんな雑誌がどんな執筆陣によって出されていたか?」的な、
記録的な部分が多く、著者の得意とする批評部分が少ないというのは残念だし、
マンガと云うビジュアル主体の企画に関わらず、モノクロオンリーと云う、
本書のビジュアルが貧弱なのは如何な物だろうか?
残された素材をそのまま出すと云う所に拘った編集なのだと思うのだが、
書籍としての味気無さは非常に残念な所が有る。

とは云え、やはり内容の濃さ、知識の深さ、広範な視野と批評精神は、
改めて見るまでも無く圧巻であり、圧倒させられる。
本書は戦後のカストリ雑誌から始まり、劇画と云う新たな潮流を受け、
学生運動と呼応するかの如き性的な革命と闘争と云う熱気を孕みながら、
エロ劇画誌の創刊ラッシュを向かえ、サブカルとの接近をフォローし、
自販機本の隆盛と衰退、80年代の劇画からロリコンマンガへの移行を記し、
同人誌界隈との関係から、やおい・JUNE・レディコミの興味深い三話題、
そして90年の「有害コミック問題」までで本書は途絶している。
これ以降児童ポルノ問題やアダルトゲーム関連の動きを記し、
一部でカルト的な人気を誇る海外で翻訳された日本のエロマンガを取り上げ、
現在の状況と供にまとめに入る予定だった様だ。

Ero05

しかし例えば「カストリ雑誌」だけなら特化して詳しい人間も居るだろうが、
その辺を同人誌界隈やエロゲー等と同列に語れる人間はそうそう居ない筈だ。
過去のアングラのみならず現代の地下シーンにも造詣が深いと云う所が、
著者の信用出来る部分であり、得難い存在だった事を証明している。
そして批評家としてマンガ全般に目配せが効いているからこそ指摘の数々、
例えば68年に「アラビアン・ナイト」等の「古典性愛文学」の絵物語化本が、
ちょっとしたブームを起こし、様々な古典が絵物語化されたそうなのだが、
手塚治虫の虫プロが大人向けアニメの第1弾として「千夜一夜物語」を選んだのは、
このシリーズのヒットと無関係では無いと、云う指摘は中々に興味深い。
亀和田武が編集長を勤め著者も編集に係っていたらしい「劇画アリス」。
そこに執筆していた作家達と当時地下シーンで盛り上り始めていた、
日本のインディーズ界隈との関係も面白い。
スターリンの「Trash」のジャケを宮西計三が、CityRocker関連に森田じみいが、
そして田口智朗に到ってはバンドマンとして中核に居たりした訳である。

個人的にその自販機本辺りがエロマンガの記憶として一番残っている。
ただ当時自発的に買っていた覚えは全く無いのだが、
それ以前のエロ劇画本にも強烈に記憶に残っている物が有ったりするのは、
ドギツいストリップ興行の捨て看や無造作に貼られたポルノ映画のポスター同様、
結構街のあちこちで目にしたり手に取ったり出来たからなのかもしれない。
エロ劇画誌と云うと多分多くの人も同じ様な思い出を持つと思うが、
空き地の隅に捨てられ雨に濡れてカピカピに成った物体だったりする。
時々捨てられたばかりの綺麗な本が有ったりするのだが、
絶対に家に持って帰れない様な邪悪な内容に息を潜めて読んだ覚えが有る。
悪どいタッチの表紙、粗悪なモデルによる大雑把なヌードグラビア、
怪し過ぎるエロ広告、そして過剰な肉体が乱舞するどす黒い劇画・・・・
本書に採録された劇画誌のあの頃の空き地の臭いまで甦って来そうである。

Ero04
      怪し過ぎる当時のエロ広告・・・しかし一鶴師匠・・・


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.06.19

こんな季節には「欲望の翼」を

Tubasa01


スコールの様な雨が街路に打ち付けられ、
汗ばんだ肌にじっとりと薄着が張り付く様な季節に成ると、
決って一本の映画を思い出す事が有る。
九十年に王家衛監督が撮った名作「欲望の翼(阿飛正傳)」である。

映画と云うメディアが出来て百年以上経つ訳だが、
その間、どう云う訳だが十年周期位で黄金時代とでも呼べる様な、
世界的に注目が高まる実りの多い時期が様々な地域に起こる。
八十年中頃から九十年半ばまでは間違い無く中華圏映画のディケイドだった。
同時進行的に中華圏各地で様々な動きが進行して行っていた訳だが、
個人的な事で言えば最初の注目すべきポイントは大陸の映画だった。
「第五世代」と称される監督たちの作品が日本でも注目を集めていたが、
中でも今や大巨匠に成った張藝謀の「赤いコーリャン」には衝撃を受けた。
今は無き近所の三百人劇場で頻繁に中国映画祭が催されていた関係で、
貪る様に大陸の映画を観てのめり込んで行ったのだが、
その頃雑誌「イメージフォーラム」の別冊「電影ニューシネマ」とか、
キネ旬別冊の「亜細亜的電影世界」等の本で、台湾や香港等の離れた地域でも、
同時多発的にニューウェーブ的な作品が生まれている事を知った。
そして大陸の次は台湾、言わずと知れた侯孝賢監督の作品を知る事に成る。
「童年往時」「非情城市」「戯夢人生」、そして楊德昌の「牯嶺街少年殺人事件」、
オムニバス作「光陰的故事」の瑞々しさも特筆物だった。
そして最後に・・・と云うか再び出逢ったのが香港映画だった。

思えば自分達の世代は香港映画が何時も身近に存在していた。
あの時代の男の子の基礎教養として李小龍は常に心に有った訳だし、
成龍はそれこそ日本のスターよりも身近な存在だった。
ホイ3兄弟には笑わして貰ったし、キョンシーを知らない奴など居なかった。
ビデオ時代に成り「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」や「男たちの挽歌」等、
話題作は必ず借りて観ていたが、それは香港映画と云う意識ではなく、
話題に成っている映画の一本として観ていた様な感じで有った。
そこで意識的に「香港映画」のニューウェーブとして観た作品が、
ガイド本などでも評価が高かった「欲望の翼」だった。

Tubasa04

で、そこで感動に打ち震えた・・・・と云う様な事は全然無く、
何か難解な作品なんだなぁ・・・と云う非常に曖昧な物だったのを覚えている。
本作は綺羅星の如く耀く香港スターの共演作な訳だが、
知っているのが張國榮くらいで、それも「あ~ゴースト・ストーリーとか挽歌に出てた、尾美としのりに似てたあいつが主役なのか」程度の物だった。
ただ何処かでも書いたが、後に自己ベストの一本と成る様な作品は、
初見ではパッとしないが心の何処かに引っ掛かり、折に触れて浮かび上がり、
何時の間にか激しく虜に成っている事に気付く様な作品が多いのだが、
「欲望の翼」に関しては全くそれに当てはまるが如き作品なのだった。

色気の有る登場人物たちが織り成す無垢で残酷な心模様に、
匂い立つ様な官能と刹那を、じっとりと滲む様な南国の熱気に忍ばせ、
気だるげな音楽とザラッとした色彩で描き切った映像が頭から離れない。
滴る様な緑のジャングルの映像に、ロス・インディオス・タバハラスの、
「Always In My Heart」が流れて来ただけでもう駄目で有る。
一体この作品の何処にそこまで心惹かれるのか?
それはもう映画の持つ「匂い」に中てられたと言う他無いだろう。
総ての場面が何処か湿度が高く甘く濡れた様な質感を放ち中毒性が有る。
サッカー場の売店、女と戯れるベットのシーツ、雨の街頭、通り過ぎるトラム、
カフェでの気だるい会話、誰も出ない電話、大写しに成る時計、ジャングル・・・
整合性は無いのにそれらの場面一つ一つが有機的に絡み合い不思議な感触を生む。
それを繋ぐのはザビア・クガートの古き良きラテンのメロディの数々だ。
「MariaElena」「MyShawl」「Perfidia」「Siboney」「JungleDrum」・・・・
この映画でラテン音楽の官能的な切なさを知る事に成った。
そしてラストを飾る、ザビア・クガートの「JungleDrum」に歌詞を載せた、
今は亡き梅艷芳の歌う「是這様的」の婀娜で虚無的な歌唱の素晴らしさ。
今作以降の作品の殆んどがサントラと成って日本でも発売されている、
王家衛の選曲センスの妙味が始めて発揮された作品でもあった。

Tubasa02

この難解な作品に対する解釈は様々に成されており、
監督自身も有る程度の事を語っていたりするが、その辺は個人的にどうでもいい。
王家衛と云う監督は、最初に大まかなストーリーラインは持っているものの、
撮影中の状況、役者の演技、撮影以外の状況等からフレキシブルに話が変わり、
膨大に撮ったフィルムを編集の段階で辻褄合わせると言ったスタイルの人で、
或る意味「脚本が無い」と云う伝統的な香港映画スタイルに忠実な人な訳だが、
辻褄合わせが「娯楽」より「文芸性」に傾いていると云う意味で独特な存在だ。
だから個人的には作品の解釈云々よりも作品の辻褄合わせに乗れるか否か、
と云う部分に王家衛作品の評価が係って来る。
「堕落天使」以降だと「花様年華」以外は尽く辻褄合わせに乗れなかった。
何が違うのかと言われても感覚的な物なので的確に答えられないのだが、
狡猾に自家模倣している様な「ブエノスアイレス」や「2046」に比べると、
「欲望の翼」の青臭さが、破綻しそうな部分も含めて好ましく思えるのだ。
そしてそれが無為な青春を描いたこの作品にも見事に重なっている様に思える。

それにしても登場する役者達のなんと瑞々しく耀いている事か!
この作品以降それぞれ以前と違った存在として更に耀いて行く訳だが、
歯の浮く様な台詞を事も無く言い放って不自然で無い「色悪」で有りながら、
折れそうな程繊細で虚無的な闇を孕んだ存在を演じきった張國榮は、
これ以降アーティストとして揺ぎ無い存在と世界的な評価を受ける訳だし、
内に秘めた激情を寡黙な佇まいで表現した張曼玉は、
今や香港映画出身女優として世界的にもナンバー1の地位に君臨する。
劉嘉玲の激情を発散しつつも一途に思う心を抑えきれない演技は、
映画を飾る華の一つでしかなかった彼女を、演技派と云う地位に引き上げたし、
アイドルとして過剰な演技を要求されていた劉德華が、
自然な演技を見せた時の素晴らしさを認識させたのもこの作品からだった。
これ以降王家衛映画に欠かせない存在として最多出演を誇る梁朝偉は、
その奥深く素晴らしい演技を世界に轟かせる事に成る訳だし、
歌手としての存在感が高まるに連れこれ以降映画の出演が減る張學友だが、
この作品で見せたナイーブな演技が記憶に残る物だったのは間違いない。
映画では一度も会す事の無かったキャスト達が集合したポスター等の写真を見ると、
写真からでさえ発せられる瑞々しいオーラに陶然とする位だ。

Tubasa03

脚のない鳥は今も飛び続けている。多分永遠に飛び続けるだろう。
誰かに忘れ去られる時が来るまで、その翼がはためく限り何時までも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.06.12

水族館劇場「NoMad-恋する虜」

Suizoku07


近所の祭りの最後の晩、御神楽の音はとうに止み、
賑やかだった境内も何時の間にか人の姿が疎らになり、
裸電球の下テキヤが撤収の為にそろそろ後片付けに入る頃。
何時も不思議な焦燥感に囚われて境内を闇雲に歩き回ったりしていた。
あの不思議な焦燥感の正体は一体何だったんだろう?
立ち現われては消えて行く「ハレ」の場への執着だったんだろうか?
祭りは来年もまたやって来る。
しかしそれは今ここで繰り広げられていた祭りとは違う。
だから終ろうとする祭りの気配に何時までも浸っていたかったからかも知れない。
水族館劇場の今年の公演が終って小屋から外に出た時に、
久し振りにそんな気分に襲われて、かつての祭りの夜を思い出した。

今年も駒込の大観音に水族館劇場の巨大なテントが立ち現われた。
ああ、今年もそんな季節に成ったか・・・と年中行事の様に思う所だが、
今年は少し様相が違う。
今回で大観音に於ける公演は最後に成るらしいのだ。
最近は年を重ねる毎に観客の動員数も増え劇団の認知度も上がった筈なので、
何故?と云う疑問は当然湧くが、その理由は定かではない。
劇団の広報紙に書かれた主催者・桃山邑氏の言葉によれば、
或る場所に定着する事による安息感や馴れ合い的な物への懐疑と、
生来の「漂泊の思い止み難し」と云う感覚が相まったと云う所だろうか?
それはまた何と繊細で感傷的な!と思わないでも無いが、
実にこの劇団らしいと云うか、何となく納得出来てしまう所も有る。
まあこれにて劇団が終焉を迎えると云う訳ではないし、
大観音の境内が工事中だった時には2年ほどのブランクも有った訳だし、
何時かまたしれっとあの境内に巨大なテントが現われないとも限らない。
何はともあれ、一抹の寂しさを抱きながら出掛けた今回の公演だった。

Suizoku08

さて「NO MAD-恋する虜」と題された今年の公演なのだが、
前回以上にシンプルで非常に解り易い面白い芝居に成っていた。
実際今回も休憩らしい幕間等も無い2時間以上の舞台に成っていた訳だが、
傍と気付くと舞台の終りが来ていたと云う様な案配で、
程よい緊張感とサクサクとした展開が中々に小気味良い作品に成っていた。
勿論それは芝居の内容が先に比べて解り易く成ったと云う事では無い。
ただ時間軸と舞台がかなり奔放に移り変わる従来の芝居内容に比べると、
焦点の定まった軸足に登場人物が解り易く配置されている様な感じで、
それ故に描き出される喪失感が際立ち浮き上がって見えて来るのだ。

看板女優・千代次大姐の妖気を放つが如き存在感は相変わらずだが、
今回は妖艶と云うより可憐な歌姫役・南瑞穂の華の有る美しい佇まいと、
イノセンスで儚げな泥棒少女役・鏡野有栖の両人の存在感が光っていた。
畸形的な登場人物の多い芝居の中でやはり「華」の存在は欠かせない。
メリーゴーランドと供に廻る両人の儚げな幻想美は実に画に成っている。
千代次大姐と供に劇団を支える風兄宇内も相変わらずのトリックスター振りで、
幕間に見せてくれた達者過ぎるオールド・スクールな漫才も良い味出していた。

Suizoku09

今回は舞台上に客席を設けると云う、中々に挑戦的な舞台設計に成っていて、
故に舞台上の仕掛けが以前に比べるとかなりシンプルな物に成っていた。
下手に回転する廻り舞台、中央に運河?に見立てたプール、上手に移動する客席、
そして書き割りの街の背景の下手後ろに回転するメリーゴーランド、
客席上に楽団用のバルコニー、そして下手の上方に踊り場が用意されてた。
今回の舞台が観客増員の為の処置としての舞台設計なのかどうかは解らないが、
やはり以前と比べると大仕掛け感が無くなって来ている感じはする。
しかし仕掛けが少なくなった故に芝居がシンプルで明解に成った側面は有る訳で、
中々その辺のバランスが難しい所だろう。

とは云え今回もメリーゴーランドも含め様々な見世物的趣向は満載だ。
その際たる物は、著名な作家にして大学教授・高山宏氏の参戦だろう。
氏の劇団に参戦の経緯は劇団の広報紙「Fishbone」に詳しいが、
演技者として殆んど素人の氏の参加はどの様な異物感をもたらすのか興味有ったが、
何と実に堂々とした存在感でその異物感振りを遺憾無く発揮していた。
佇まいも良かったが、アドリブであろう客弄りの件も中々の物で、
果ては幕前芝居で飛行機に搭乗して空を舞うと云う役者振りまで見せてくれた。
こう云う奇異な趣向が成立するのもこの劇団の面白い所と言えるだろう。
そして面白いのが舞台上のバルコニーで生演奏を続ける「水晶宮楽団」だ。
自分が観た時は管楽器のメンバーが不在だったが、カウントと供に鳴らされる、
ヴァイオリンとアコーディオンの哀愁漂う旋律が実に芝居にフィットしていた。
そして毎度お馴染みな生の動物だが、今回は可愛い仔犬が舞台に登場していた。
幕間に於ける玉ちゃんの踊り同様、特に深い意味は無い存在な訳だが、
まあ水族館劇場の名物として欠かせない、と言えば欠かせない存在だろう。

Suizoku10

さて、これでまた一つ祭りが終った。
かつて観た祭りの見世物小屋の記憶の様に、
大観音の芝居小屋も思い出の中に語られるだろうか?
いや、いつか再び蜃気楼の様に再び小屋があの場所に起ち現われる事を信じて、
まずは、おさらば。

Suizoku11


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.06.05

新しい華文ミステリーの胎動

Amistery02


世界中で読まれている村上春樹の小説に限らず、
日本の小説は古典から最新のベストセラーまで結構世界で翻訳されている。
中華圏有数の書店街を持ち24時間営業の巨大な書店も有る台湾では、
詳細な用語解説が素晴らし過ぎる「電車男」や昨今のケータイ小説、
そしてかなりの数のライト・ノヴェルまで多種多様な日本の小説が出版されている。

中でもマニアックと云うか充実しているのがミステリーの分野だろう。
台湾に於けるミステリーの隆盛の一因に付いては以前にここでも書いているが、
古典から新本格派、それ以降のニューウェーブも含めて結構な充実度を誇る。
そしてその充実度が現地の作家による新しいミステリーの登場も即した様で、
作家の増加と供に出版社によるコンテスト等で新人の発掘も多く行われ、
台湾のみならず大陸や香港、東南亜細亜も含めて「華人ミステリー」と言うべき、
新しいムーブメントが胎動し始めている様な状況に成っている。

そんな流れを受けて作家の島田荘司氏が提唱し、
現在講談社から発刊が続いているのが「アジア本格リーグ」の諸作である。
アジア各地で活躍する作家の代表作を集めた6ヶ国・全6巻の刊行予定で、
現在、台湾・タイ・韓国・大陸・インドネシアの作家の諸作が刊行されていて、
最終巻のインドは今月にも発売される予定に成っている。
で、その一巻目が台湾の作家・藍霄の「錯誤配置」である。

話は作者である精神科医・藍霄の元に届けられた不可解なメールから始まる。
王明億と名乗るその男は大学時代からの仲の良い友人達と出掛けた喫茶店にて、
便所で用を足した僅か数分後、友人達総てから赤の他人扱いを受ける。。
悪質な冗談だと腹を立て、その事で騒ぎを起した後に連行された警察で、
王明億は収容センターに登録されたホームレスだと云う事実が告げられる。
住んでいた家、勤めていた病院、思い出の場所、そして知り合いや友人達、
王明億自身の記憶に残る王明億の痕跡は尽く無く、彼を知るものは何処にも居ない。
自分は発狂したのか?はてまた異次元の扉を開けてしまったのか?
更に彼は大学病院時代の7年前に起こったある未解決密室殺人事件の犯人で、
その不可解な事件には藍霄自身も深く関っている事が綴られていた。
藍霄がその7年前の事件を調べ直そうと思った矢先、
首を切られたホームレスの死体が発見され、それが王明億だと判明する。
苦境に立たされた藍霄の元に友人で優れた推理力を持つ秦博士が駆けつける。
謎のメールの差出人は?そして7年前の密室殺人との係りは如何に?
と云う様なミステリーファンが小躍りするが如き不可解な事件が提示される一冊だ。

で、この作品、それぞれの解釈にも拠るだろうが、本格物のセオリーである所の、
読者に対してフェアな犯人像の提示と云う部分では結構逸脱している。
密室の謎の解明にしてもそこの部分が関わってくる所が有るので、
明快に謎が解明された、と云う感じでは無いと個人的には思った。
翻訳者である玉田誠氏の解説に拠ると、作者の手掛けた作品の中でも、
これ以前の作品は本格物のセオリーに忠実な推理小説に成っているらしい。
つまりこの作品から、西洋や日本由来の基本的な推理小説的タームから離れ、
「変格」と云うか独自のスタイルを模索し始めた作品なのだそうだ。
確かに幻想的な謎の提示と云い、形而上的な個の存在に対する考察と云い、
「変格物」と言われれば、「ああ、なるほど」と肯ける部分は大きい。
実際に台湾のミステリー界も、以降様々な逸脱のスタイルが見受けられるそうだ。
独自の進化の端緒として、確かに本書は中々興味深い所が有る。
でも「本格リーグ」と銘打たれた一冊目に出されるのはどうなんだろう?
と思わないでも無い。

ややたどたどしいながら「変格」の端緒を切った「錯誤配置」に比べると、
その台湾独自の逸脱と云う果実の成長の跡を確実に見せてくれるのが、
台湾の出版社が主催し、中国語で書かれた本格ミステリー長編を募集する、
今回が一回目と成る「島田荘司推理小説賞」を見事受賞した、
寵物先生(ミスター・ペッツ)氏の「虚擬街頭漂流記」であろう。

Amistery01

左程遠くない未来の台湾。
顔露華はアメリカ帰りの才気溢れる技術者「大山」の元で、
電脳空間に構築された「バーチャストリート」西門町の開発に携わっていた。
「電脳?」「バーチャル?」
そう、台湾北部で起こった大地震により大きな打撃を受けた台北の街は、
その復興の過程で、かつての繁華街・西門町を切り捨ててしまっていた。
寂れてしまった西門町の賑わいを電脳上で再現しようと市政府が立ち上げたのが、
「ヴァーチャルリアリティにおけるショッピングモール再建計画」だった。
モニターによるテスト運営が開始され本格的な始動も間近に迫ったある時、
プレイヤーの行動を監視するコンピューターが異常な事態の勃発を注げる。
大山と供に電脳空間上の西門町に確認に出掛けた露華が見付けたものは、
ヴァーチャストリートに転がる一人の男の死体だった。
何故?誰が?どうやって?それも電脳上に創り出された街の中で・・・・

と云う様な話である。
仮想現実とは云え、ほぼ現実同様の体感が得られるスーツを着ている関係で、
実際に電脳空間にログインしていたプレイヤーは現実に死んでいる。
但しそれは実際に直接的に誰かに手を下された故の死、では無く、
仮想現実空間にて行われた殺人と云う部分が難しく、また面白い部分である。
またセーフティ上仮想空間では現実の力が80%以下に設定されていて、
素手で人を殺害出来るほどの力が発揮出来ないと云うしばりも用意されていて、
そう云う設定が複雑にからみ合った故の世界観の面白さも堪能出来る。

ただ純粋にこれが推理小説なのかと言えば、どう考えてもSFの領域に有る話で、
殺人事件が話の中心に有るが純粋に謎解きを愉しむ話では無いし、
「犯人当て」に関して推理小説らしいフェアさは用意されていない。
だから純粋に推理小説として読むと結構肩透かしを食う部分は有ると思う。
だがこれは推理小説がまだ「探偵小説」と言われていた黎明期に於いて、
純粋な推理小説以外にも怪奇や冒険、SF、シュールな作品に到るまで
「探偵小説」の名の元に一つに括られていた、あの熱い胎動が感じられてならない。
だから只単に推理小説の形式を各国の事情に当て嵌めた様な作品ではなく、
「逸脱」しつつも面白い胎動を感じさせる様な作品を選んだ意義は大きいと思う。
しかも推理小説的な入り組んだ叙述の形式が実は物語の根幹に深く関り、
それが「仮想現実」と「現実」に跨る人間本来の情動に繋がって来る辺りは、
ちょっと予想しなかった感動と感傷的な気分を呼び覚ましてくれる作品でもある。

Asiamistery04

余談だが、やはり作品の背景と成る場所を知っているかいないかの違いは大きい。
この作品に於けるバーチャストリートとしての西門町は、
2008年の西門町をトレースした世界に成っているらしいのだが、
主人公達が歩き回る背景が殆んど思い浮かべられる所は楽しかった。
基本台湾に行く時は映画館の多い西門町周辺か万華辺りに泊まっているので、
もう西門町と来たらここ十年以上毎年の様に歩き回ってる場所だったりする。
昔は「來來百貨店」だった誠品武昌店、峨眉街立体駐車場の献血の車、
映画館街、台北劇場の廃墟、昔は鬱蒼とした工場の廃墟だった電影公園、
今は無き麒麟大飯店から続く康定路、西門小学校の壁のレリーフ。
作品中では緊迫した場面なのに妙に和んでしまったわさ・・・・

Asiamistery03

ちなみに本書は台湾(繁字)・大陸(簡字)・タイ・日本で出版され、
2回目以降の受賞作はこれに加えてイタリアでも出版されるそうだ。
新たな「華文ミステリー」の登場にこれからも期待したい。
本新人賞に於ける選者・島田荘司氏の説明はこちらから・・・

島田荘司「華文の本格ミステリー曹作に期待するもの」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »