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2010.07.31

VCD、おぼえてますか?

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その昔、まだ香港が「亜細亜のハリウッド」と辛うじて呼ばれていた頃、
亜州影帝が君臨していた時代に比べれば遥かに本数は減った物の、
それでも当時の日本では考えられない程の作品が粗製濫造されていた。
まあ確かに今に比べれば日本で公開される作品も多かったし、
まだ健在だった多くのレンタルビデオ屋の為にビデオスルーながら、
大作や最新作以外の通受けする過去作品のリリースも多かった訳だが、
大部分は日本でもよく知られた劉德華とか王祖賢とかの作品ばかりで、
周星馳の作品や版権の怪しい剛速球の馬鹿映画などは当然スルーされていた。

日本在住のディープな香港映画マニアは当然それらの真に香港的な映画を前に、
「何とか成らないもんか?」と臍を噛み地団駄踏む以外に無かった訳だが、
真に深い連中は、中華系住民や留学生の多い繁華街の雑居ビル内などに有った、
在日華人向けのレンタルビデオ店などを利用するつわものも居たらしい。
当然、日本語字幕など入っていない多分違法ピーコ品のビデオなんだろうが、
それでも最新作はかなり早く観れるので利用する人間も多かったと聞く。
それから現地の歌番組を収録したビデオなんかも有ったりして、
スターさんのディープなファンはそれだけもリスクを冒す価値が有ったであろう。
そう云えば現地の放送局TVBの番組のビデオレンタルと言えば、
神田・神保町に有ったアジア映画専門の「アジア映画」を忘れてはいけない。
昔随分世話に成ったが、最近は地方に移って通販のみの営業に成ったらしい。
あそこの温厚そうな店長は元気かなぁ・・・・

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         シンガポールで買って来た「星願」のVCD

閑話休題、さてマニア度が深くなって行くとその様な店に通ったり、
現地にまで出掛けて映画を観てくる、と云う様な状況に成ってくる。
昨今日本同様に小洒落たビルに入ったシネコンに取って代られた香港だが、   
まだ当時は戦艦の甲板の様に場内の椅子が波打った大艦巨砲主義的な、
昔ながらのゴージャスな「劇場」が多く残っており、
レギュラーの上映の他、旧作を安く観れる早場や夕方4時半位の回、
そして週末に新作が先行上映される午夜場なんかも時々有ったりして、
流石「亜細亜のハリウッド」普通に行っても結構な本数が観れる様な状況だった。
しかしとは云え必ずしも観たい映画ばかり掛っている訳では無し、
いくらなんでも一日中映画ばかりと云うのも旅行に来てナニではある。
で、夜に油麻地は廟街の夜店辺りを流していると必ず有ったのが、
レンタル落ちのビデオを大量に積み上げて売っている屋台で有った。
香港映画のファンならば観たかった作品が多数埋もれた宝の山である。
宝の山なんだが、香港のビデオにはひとつ問題が有った。
規格がPAL形式で日本のNTSC形式のビデオデッキではビデオが観れなと云う事だ。
その事に付いては事前に知っていたので宝の山を前に騒ぐ事も無かったのだが、
ついつい観れないと解っていて何本か買ってしまうほどは冷静さを欠いていた。
また何故か香港のレンタルビデオは90分程度の作品なのに、
ビデオが上下巻に別れていると云う訳の解らん仕様に成っているのも有り、
持って帰って来ても観れない癖に嵩張る所がまた小憎らしいと云うか何と云うか。
(まあ何本かはNTSC方式に変換して貰って観たりはしたのだが・・・)

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       デザインが最悪な現地の「東方不敗」のビデオ・パッケージ

そんな長い前振りを経て現われたのがVCDと云う奴である。
何時頃からVCDが売られていたかは定かではないのだが、
多分一般にPCが普及しだしてからだろうから九十年代の後半からだと思われる。
CD規格のディスクに映像を入れている関係で容量的な理由で一枚に収まらず、
或る意味理に適った形でビデオ時代の形式を次いで二枚組に成っている商品だ。
現地ではVCD用の安価なデッキなどが普及しての結果だと思うが、
出た当初は日本でも再生出来るのか解らずに手を付けかねていたのだが、
PC上で再生出来ると云うのを知って喜び勇んで買い捲りに走った。
とにかくVCDの普及は爆発的に早く次の年に行った時はもう市場に溢れ返っていた。
やはりメディア自体の値段が安く複製もし易い、と云う所が大きいのだろう。
また商品のサイクルが異常に早いのが特徴で新作も直に値崩れして行って、
新作も半年経たない内に「十枚で幾ら」的な売られ方をしていた。
とにかく無駄な手間無く未公開作品が観れると云う事と、
その安さのせいも有って大量に買っては観てない作品も多々有ると云う感じだった。

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「無間道」もどうせ日本でDVD出るだろうとVCDを買って来た。

御承知の通りその後直にDVDと云うメディアが普及し始める訳だが、
DVDが普及し始めてから更にVCDの市場は加速して行った様な感じで、
付加価値的な物も含めてコレクターズ的な位置にDVDが存在するのに対し、
その廉価版と云う意味合いでDVDと供に更にVCDは普及して行った。
しかしDVDと云うメディアにはビデオのPAL問題と似た様な問題点が有って、
それがざっくりと別けられた地域別に拠るリュージョン・コードと云う奴である。
最近は香港映画のDVDでもリュージョン・フリーのメーカーも有る様だが、
DVDが出たばかりの頃は確実にリュージョン・コードのせいで観れなかった関係上、
やはり現地で買うメディアはVCDだったと云う所に落ち着く訳である。
まあDVDが普及し出すとDVD用のデッキも安く買える様に成ったお陰で、
ようやくPC上で面倒な操作抜きにVCDをテレビで観れる様には成る訳だが。
余談だが映像メディアがDVDなどのデジタル・メディアに変わってから、
複製のし易さから所謂ピーコ品が凄まじい勢いで市場を圧倒した。
アニメや映画などは言うに及ばす、デジタルで録画されたTV番組、
更にはDVD落しのVCDによる日本のAVの普及は凄まじい物が有った。
(一時期小さい店が密集した商業ビルのフロアがほぼAV関係と云う時期も有ったし)

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      AVと言えば日本未公開のこの作品は最高だった。

さてその後のブルーレイ等と云う新しいメディアが登場してから以降の事だが、
ここの所香港に出掛けていない関係上良く解らない。
ハード類も完全に普及しているし、メディアの値崩れも相当進んでいるしで、
世界的に観ても映像メディアはDVDがデフォルトとして定着している。
台湾などでは既にVCDを見掛ける様な事も殆んど無くなって来ているが、
品質より安さを選ぶ香港人気質としてそう簡単に無くらない様な気もする。
結局VCDと云うのは過渡期のメディアとして忘れ去られて行くのだろうが、
LPやレーザー等と同様に途中で盤を入れ替えると云う所が愛らしかったりして、
耀かしかった香港映画の記憶と供に忘れられないアイテムの一つなのであった。

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     今は亡き梅姐と清純派だった頃の張柏芝と・・・あぁ・・・

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2010.07.24

外地探偵小説集「南方篇」

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なんと「外地探偵小説集」の新刊「南方篇」が出た。
前回の「上海篇」が出たのが2006年だったから4年振りの刊行か!
意欲的だがマニア受けな企画のシリーズが中途で頓挫する事は良く有るし、
下手すると出版社自体が消えて無くなっていたりする事も有るので、
このシリーズも二巻のみで終了か?と残念に思っていたのだが、
店頭でグレゴリ青山のエキゾな表紙画を見た時は我が目を疑った。
「あとがき」を読むと編者の藤田氏が「Shanghaiされて」行方不明に成っていた、
等と冗談なんだが本当なんだか良く解らない言い訳がされていたが、
まあ何はともあれ嬉しいシリーズの復活である。

さてここで云う所の「南方」とは所謂東南アジア及び太平洋諸島の辺りを指す。
ビルマ・マレー・シンガポール・東インド・インドシナ・フィリピン等々、
以前には「南洋」等とも呼ばれた かつて日本が独領していた地域である。
荒涼とした「満州」、毒の有る華やかな「上海」等と比べると、
南方の奇習や天然色のエキゾチカが作品に思わぬ華を与えてくれそうだが、
思い返してみるとそれほど南方を舞台の作品は読んでいない様な気がする。
解説等にも書かれている、マレーへ報道班員として徴用された経験を生かした、
小栗虫太郎の「海峡天地会」等は容易に思い出せたりはするが、
それとて更に奥地へ踏み込んでいる「人外魔境」に比べると印象が薄い。
と云う訳で「南方」と云う括りで集められたこれらの作品たちは、
中々に新鮮な感覚で読めたし、「外地」と云う言葉の持つ意味も膨らんだ感じで、
もう少しこのエキゾチカな世界に浸って居たかった気分である。

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     小栗虫太郎のマレーネタ・連載エッセイ

今回も他の刊と同様に、掲載作品の収録順は初出発表順に成っていて、
正に当時の楽天的な南方幻想に溢れた牧歌的な作品から始まって、
戦局の激化と供に地獄の様相を現して来る現状を描く様になり、
総てを失った後に顧みる南方の相対化された姿を描く話へと並べられる。
初期の頃の作品は、如何にも探偵小説的な牧歌的な雰囲気がたまらないが、
やはり当時の現地人に対する描き方等を読むと日本人の特権意識が甚だしく、
面白いのだがやや鼻白む部分が多々有るのが残念な所だ。
山口海旋風の「破壊神の第三の眼」は恰も「冒険ダン吉」の後日談的にも読める。
後に「八切史観」等とも呼ばれる膨大な著作を残した在野の奇人・八切止夫、
その八切が耶止説夫名義で書いた「南方探偵局」も味わい深い。
シンガポールで探偵局を開く妹とその兄のコンビが敵国のスパイの暗躍を暴き、
日本軍の教えを受けた島民を味方に付け勝利すると云う、如何にもな活劇だ。
戦争が始まって以来、時局により活躍の場を失って行く探偵小説の、
「ジャンル的な南方への逃避」と解釈する解説者の視点が鋭い。

どちらも作家としての力量はずば抜けているので当然と言えば当然だが、
個人的にこの「南方篇」で非常に感銘を受けたのは日影丈吉の「食人鬼」、
そして陳瞬臣の「スマトラに沈む」の二本だった。
日影の「食人鬼」はセンセーショナルなタイトルとは裏腹に、
極限的な状況に現代的に言えばPTSD(心的外傷後ストレス)に陥った兵士の苦悩、
周囲から向けられれる好奇的な視線、そして起るショッキングな事件。
しかしその裏に隠された哀しいまでの尊厳と決意にハッとさせられる。
日影らしい抑えた筆致が戦争に押し潰されまいとする人間の姿を描いて印象的だ。
陳瞬臣の作品は実在の作家であり、実際にスマトラでその消息を絶った、
「郁達夫」の失踪の顛末を、その足跡を追いながら推理すると云う小説だ。
狂言廻しとなる主人公が戦後に成って尋ねて行ったスマトラにて、
恰も「藪の中」の如く、答える人の言葉によりその像が揺らいで行く郁達人。
そして郁達夫の最後を知る男により明かされる、男と郁達夫の数奇な関わり、
そこから炙り出されるのは時代に翻弄された作家の苦悩と漂泊の年月。
こちらは主人公が女性で、しかもかの張愛玲がモデルだったりするのだが、
文人が戦時体制に関わり、日本と祖国の間を揺れ動く様を描いた感じが、
嚴浩監督の名作・林青霞主演の「レッド・ダスト」を思い出したりもした。
しかしこの陳瞬臣により直接・間接的に描かれた郁達夫と云う男が実に魅力的で、
その抑制された筆による最後の場面と供に非常に印象に残る作品であった。

と云う訳で長いブランクを経て復活した本シリーズであるが、
次刊は既に編集作業に取り掛かっているそうで、舞台は「大陸」だそうである。
「大陸」ってまた今度は巨大なテーマだな・・・と云う感じでは有るが、
以前から熱烈にリクエストしている「台湾篇」まで刊行し続けて行って欲しい物だ。

外地探偵小説集「上海篇」の記事
外地探偵小説集「満州篇」の記事

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2010.07.17

私は如何にして四畳半信奉者となりしか

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熱心にテレビのアニメを観なくなってから随分経つが、
色々有って前期は何本かのアニメを毎週愉しみにしていた。
2クール放映と云う事でまだまだ続く大人気の「けいおん!!」はさて措き、
残りの2本は原作が好きで、そのアニメ化と云う事で観始めた作品だ。
一本は「聖おにいさん」の中村光原作の「荒川アンダー・ザ・ブリッジ」、
そしてもう一本が森見登美彦の小説を原作とした「四畳半神話体系」である。
「荒川~」もスピーディでテンションの高い演出が面白かったのだが、
「四畳半~」は、そのクオリティの高さと演出の見事さに毎週圧倒された。
「ノイタミナ」枠は「蟲師」や「モノノ怪」等、アニメの新たな可能性を探る様な、
(・・ってさしてアニメを観ていない人間が言うのもおこがましいのだが)
斬新な作品を放映してくれるが、今回もその斬新さに痺れる一本だった。

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昭和四十年代位の時代感覚で生きる童貞臭漂う登場人物達の煩悶を、
極端にデフォルメされた文語体的文章で綴る森見登美彦氏の作品は、
京都と云う絶妙の舞台と相まって非常に好みの作品が多い。
「四畳半~」も文庫に成ってからすぐに買って読み、愉しんだ作品だった。
特にあらすじを見るでも無く何の予備知識も無く読み進めて行ったのだが、
第二話を読み出した時には「あ?」と成り、そして成る程と感心したものだった。
同じ作者の何処かで読んだ事の有る登場人物描写にニヤリとしつつも、
この微妙に重なり合いずれて行く世界にどう決着を付けるのかと思いきや、
並行世界を四畳半の連なりで構築する最終話には実に驚かされた。

この癖の有る原作をどう料理するのか?それが気に成る所だった訳だが、
初回は目くるめく映像表現に圧倒され、あっと言う間の30分間だった。
森見氏の著作の装丁や番組の主題歌を手掛けた、アジカンのジャケでもお馴染み、
イラストレーター中村佑介の手に拠る主人公達のキャラ・デザが素晴らしく、
如何にも理屈っぽく繊細そうな主人公、芯の強そうな明石さん、
鞍馬山の天狗宜しく一本歯の高下駄を履いた茄子顔の樋口師匠も良いが、
何と言っても「夜道で出会えば十人中八人が妖怪と間違う」と云う、
トリックスター小津の余りに振り切った妖怪っぷりだろう。
これがまた化け物的ながら中々愛らしいと云う所が実に絶妙なキャラである。
化け物と言えば妖気振りまく「占い婆」の惚けた味わいもたまらない。
実際に京都で撮影された風景をモノトーンの背景に落とし込み、
その上で極端に陰影を減らしたキャラクターを動かすと云う手法も、
何処か寓話的な雰囲気が濃厚に漂い、幻想的な画面を創り出し効果的だった。
(しかし「四畳半~」と云い「けいおん!!」と云い、
今期はアニメファンの京都人にはこたえられんだろうなぁ・・・)

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全部で四話に別れる原作の話を、どの様に11回に割り振るのかも気に成ったが、
原作中に有る様々なエピソードを独立させたり膨らませたりして、
毎回世界をリピートさせ、並行世界に移行する構成には唸らされた。
その原作処理の巧みさが最も発揮されたのが、原作の三話に当る部分を、
それぞれ「羽貫さん」「香織さん」「景子さん」の選択肢に別けた6~8話だ。
主人公「私」のどうしようもなく童貞をこじらせた妄想爆発振りが爆笑だが、
最高なのが独立した下半身の分身である「ジョニー」との対話だろう。
据え膳に手を付けかねる「私」に対し、暴走寸前の「ジョニー」との攻防、
男ならまあ誰しも経験有りそうなシチュエーションに腹筋は崩壊寸前である。
猛りまくり哀願し打ち萎れるジョニーを演じた檜山修之が絶品だった。

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そして最後は永遠に続く四畳半並行世界の話が二話に渡って続くのだが、
十話に到ってとうとう「私」の一人語りが延々と30分繰り広げられる訳で、
なんにしろ圧巻なのが「私」役の声優・浅沼晋太郎の怒涛の一人語りである。
押井守が手掛けた「うる星やつら」に顕著に登場してくる、
怪優・千葉繁がしゃべくり倒す「メガネ」を髣髴とさせる素晴らしさである。
(・・・おぉ、そう云えば「私」もメガネだったわな)
千葉氏演じるメガネは語りが激高してくると狂気の様相を表わして来るが、
飽くまでも内向的に覚めている所が浅沼氏の「私」との違いだろうか?
その存在をこの作品まで知らなかったが、浅沼氏、実に良い仕事している。
この作品の成功の少なからぬ部分は彼の語りの素晴らしさに拠る物だろう。

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そして迎えた最終回「四畳半紀の終わり」だが、よもやここでホロリさせられ、
しかもちょっと感動したりするとは思ってもみなかった。
原作の最後は終始坦々としたままで、話の収拾に感嘆する事はあれ、
それほど感傷的な気分を抱かせない如き終り方に成っていたので、
この無為な現実を丸ごと肯定するポジティブな終結には不意を撃たれた。
この年代特有の肥大した自意識と根拠の無い特権意識故に、
己が思い描く自身の姿と現実との齟齬に煩悶し次々と現実を否定して来た「私」。
自分と同じ様にルサンチマンに突き動かされ無意義な生活を送っていた筈の小津は、
実は力一杯学生生活を楽しみ、あまつさえ黒髪の乙女との純愛も手中にしていた。
打ちひしがれる「私」に樋口師匠がこう告げる。
「可能性と云う言葉を無限定に使ってはいけない。
自分の他の可能性と云う、アテに成らない物に望みを託す事こそ諸悪の根源だ。
今ここに居る君以外、他の何者にも成れない自分を認めなくてはいけない」と。
そして閉じ込められた四畳半の並行世界に於いて「私」は知る事になる、
思い描く「薔薇色のキャンパス・ライフ」と違うと唾棄していた日々が、
「不毛と思われていた日常はなんと豊潤な世界」であり、
「有りもしない物ばかり夢みて自分の足元さえ見ていないかった」自分の事を。
そんな自分の只一人の友人、妖怪だと罵っていた「小津」の事を、
そして捨てられない心の中の何かの如く、電灯の紐にぶら下げておいた、
「もちぐま」のアクセサリーに託した明石さんへの想いを思い涙するのだった。
もうそう云う日々が遥か彼方に有る今だからこそその場面が深く胸に沁みた。
現実に帰還した「私」が明石さんと供に小津を見舞うラストで、
最早妖怪の顔をしていない小津に妖怪っぽく笑う「私」のしたり顔に被さる、
OP曲の爽やかな祝祭感も実に清々しく、本当に素晴らしい最終回であった。


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さて先日本屋に「四畳半神話体系公式読本」なる書籍が並んでいて購入してきた。
まあ時節柄アニメの公式本なんだろうと思っていたのだが、
原作、と云うか作者の森見氏とアニメ作品が半々と云う様な按配で、
カラーページの殆んどが、和装姿で京都を散策する森見氏の美麗な写真で、
申し訳程度にアニメの紹介が載ってると言った「誰得」感溢れる一冊だった。
いや別に岸部一徳も昔サリーだった頃、多くの女子に騒がれた時代も有った訳だし、
森見氏本人の面相が好きだと云う方が居ても全然問題は無いのだが、
「四畳半~」の公式読本と銘打って作者がここまで全面に出るのは如何な物か。
これなら同じ企画を主役声優の浅沼晋太郎と坂本真綾でやった方が、
営業的にも良かったのでは無いか?と思わないでも無いが、まあ余計な御世話か。
それはさて置き、森見氏書下ろしの「或る四畳半主義者の思い出」の中に、
自身の鬱々としていた大学生時代の楽しみの一つとして、
押井守のアニメのLDをレーザーで擦り切れるまで観ていた、と云う一文が有り、
押井のどの作品化は触れられてはいないが(「御先祖様万々歳」辺りか?)、
あの独特の文体に押井の影響が加わっているとは新たな発見だった。
勿論アニメ方面では監督・脚本・キャラ・デザの中村佑介へのインタビュー、
主要キャストの座談会(小津役の吉野裕行の発言が小津っぽくて笑える)、
森見氏監修による「私」の本棚の本、作者の「食物誌」的な部分も面白かった。
余談だがこのアニメを見ていると個人的に魚肉ハンバーグが喰いたくなる。
知り合いは屋台のラーメンを喰いたくなったと言っていた。
まあ確かに猫ラーメンが存在すれば食ってみたい、何せ無類な訳だし・・・・

さて残念な事に、と云うか当然の様に「四畳半神話体系」は終った訳だが、
ここは一つどうだろう、同じスタッフ、ほぼ同じ様なキャスティングで、
森見氏の「夜は短し歩けよ乙女」辺りを来春辺りにでも作品化するのは。
樋口師匠や羽貫さんも登場する事だし、漫画化もされている事だし・・・・

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2010.07.10

「超・電王トリロジー」の可能性

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最初にこの映画「超・電王トリロジー」の企画バレが来た時、
余りポジティブな気分に成らなかった事を覚えている。
三部作・二週間おきの興行と云う形態のにも「?」な感じだったし、
その後「超・電王」でなんでディエンド?と云う疑問は当然湧いてくる。
正直余り企画優先で売るのはどうなのか?と云う気分は拭えない。
所が「ちょろい奴だ」と言われればそれまでな訳だが、
トリロジーのスチールや映像などが少しずつ公開され始め、
お馴染みな連中が賑やかにしているのを観ると、どうにも心が騒ぎ出す。
これが確立されたキャラと作品の持つ力と云う奴なんだろうか?

かつて菅原文太が演じた同じ名前のトラック野郎のモモちゃん同様、
既にイマジンのモモちゃんは東映の耀ける看板俳優の1人である。
特定の俳優ではなく、キャラクターが看板として成立していると云う所が、
キャラクター王国の現代の日本らしい面白い現象と言える。
正直オリジナルの佐藤健や白鳥百合子が居ないのは非常に残念だが、
確かにデンライナーと云う空間が有れば「電王」と云う話が成立しそうなほど、
着ぐるみのイマジンと云うキャラクターが確立しているのは確かだろう。
スピンアウトしたまま話しが続けられる事に否定的な意見も多いし、
興行優先で作品の純血性が失われる事に対する批判も多い。
続編に否定的では無いが実際に自分も冒頭の様な感想を持っている。
しかし創り続けられる事で積み重ねられるシリーズの厚みと、
描き続けられる事で確立して行くキャラクターの深みも見逃せない部分で、
かつてのプログラム・ピクチャーのヒーロー達はそうして創られて行った筈であり、
やがてそれは映画興行の衰退からテレビドラマへと移行して行った訳だが、
それが再び映画の世界に戻って来た、それも特撮番組で、と云うのが痛快だ。

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さて今回の三部作だが、又しても驚くほど磐石な興行成績を見せてくれた様で、
前売りの売り上げでも前作「超・電王」一作目を抜き去り、
公開初日の2日間のランキングは三作品ともにランキングで二位をマーク。
三部作の累計成績は動員が90万7,706人、興収は4億7,000万円という結果で、
最終的には13億円の興行収入を見込んでいるという話だ。
ウィキペデイアの記事参照)

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では第1弾の「Episode Red-ゼロのスタートウィンクル」から。
興行成績的には非常に快調な滑り出しを見せた「超・電王トリロジー」だが、
赤編を観て来た観客の評判は非常に低調な物だった。
余りにネガティブな意見ばかりだったので殆んど期待しないで観たのだが、
個人的には言われるほど悪くも無く、結構楽しんで観れた作品だった。
批判意見の多くに冒頭やラストのイメージ・ショットが意味無く長い、
等と云う物が有ったが、個人的には「意味無く」長いとは感じなかったし、
特にラストの部分は「恋愛映画」としてもっと描いても良かったと思う。
但しこの作品は基本子供向けのヒーロー物映画として有る訳で、
その点を踏まえれば明らかに比重が偏り過ぎていたのは確かだと思う。
こう云う作品が企画的に無理だったとは思わないが、
もう少し定番の要素に絡め様が有ったんではないかと云う部分は有るし、
電王作品にしては割とイマジン契約者の扱いが雑な所とか、
デンライナー暴走の意味合いが薄い所など脚本の粗い部分も気に成った。
ただその辺の映画にしてはミニマル過ぎる要素が非常にテレビ的と云うか、
拡散し過ぎていた作風が原点に戻って来たかの様で懐かしい感蝕だった。
予告映像やスチールで観た時は何とも言えなかったイマジン連中の悪ふざけ場面も、
やはり声優の皆さんの名演が加わると非常に良い味わいに成っているし、
尾崎・三浦の雑魚二人が居るミルクディッパーはやはり最高である。
や~しかし中村優一が大人っぽく成っていて非常に驚かされたが、
改めて松本若菜・・・と云うか野上愛理が吃驚する程綺麗なんで驚いた。
愛理の浮世離れした美しさとボケが電王の重要な要素だと改めて認識した次第。

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で第二弾が「Episode Blue-派遣イマジンはNEWトラル」。
青編は赤編に対して真逆なほど観た人間の評判が良かった作品なのだが、
確かに電王らしさが非常に良くまとまった、王道と言える手堅い作品だった。
こちらも赤編同様にテレビシリーズの要素を集約したミニマルな内容なのだが、
小さな願いを叶えたいイマジン契約者の背景を掘り下げた部分とか、
主人公とパートナー・イマジンとの泣かせる関係を描いた部分など、
一般に期待される部分を遺漏無く描き切っている所が違いと言えるだろうか。
「さら電」から登場のNEW電王=幸太郎と契約イマジンのテディは、
印象的ながら登場回数の少なさから中々キャラが起つ所まで描き切れておれず、
さりとて単体で映画化するには少々存在が弱いと云う微妙な立場だっただけに、
今回の様な企画の恩恵を最も受けたのはNEW電王だと言えるだろう。
とにかく、離れてしまってから知る大事な存在に対する想いと云う部分が、
イマジン契約者と主人公の幸太郎の両サイドを使って対比させる様に描かれ、
電王の中心を貫く「人の記憶こそ時間」と云う部分にも触れられていて見事だ。
本来の契約を覆しても幸太郎の元に駆け付けテディと供に変身したNEW電王が、
初登場の時同様にカウントで敵を粉砕する燃える描写も見せれば、
エンディングの後に軒下で鳴る風鈴の描写で泣かす繊細な演出も見せる、
「電王愛」に満ちた舞原監督の手腕が光る一本に成っている。

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そして最後の第三弾が「Episode Yellow-お宝DEエンド・パイレーツ」。
正直ディエンドには何の思い入れも無いのでかなり観に行くのは迷った作品だが、
これが以外に良く電王のテイストに合っている作品で結構楽しめた。
(余談だが、どうも「お宝」と言われると「シモ」の方を連想してしまう性質で、
「お宝の為なら命を懸ける」とか言われると変な発想が浮かんでしょうがない。
せめて「お宝」でなく「宝物」とかに成らなかったんかな?どうでも良いけど)
ディエンド=海東大樹と云う存在は何処かキャラが確立されて無い感じの存在で、
TV本編の方でもころころとキャラが変わって掴み所が無かったりするのだが、
今回は割とトリックスターと云うよりストレートに義賊的と云う感じである。
G電王と云う新キャラに変身する黒崎レイジを救済する為に動く訳だが、
トリッキーな手段でレイジにお宝の意味を明かすシーンも面白かったし、
レイジが母親と邂逅する場面は実に電王らしい泣かせる場面で実に良かった。
脚本はメインの小林靖子ではなく米村正二が担当しているのだが、
米村が意識した故に電王濃度が濃厚に成っているのか、実にらしい話だった。
レギュラー・イマジンの皆さんは全編で大活躍だが黄編は特にそんな感じで、
珍しく女の子以外にも興味を持ったウラタロスの海東との関わりや、
留置所に於ける四人の勢いの有るボケやつっ込み具合は最高だった。

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それにしても赤編に於ける過剰なデネブの暴走と愛理・尾崎・三浦の登場、
青編に於けるターミナルの再登場や幸太郎とテディが帰る未来の風景、
不意に登場してくる上に話に何も絡んで来ない見事なまでのジークさ加減、
三度登場のミルクディッパーで尾崎から良太郎とコハナが情報を聞き出す所や、
過剰な上に意味の無い駅長とオーナーのチャーハン勝負が有る黄編など、
一本の映画では盛り切れない電王の要素が三作品に散りばめられていて、
何だかんだで電王を好きに成った要素を三本で再確認した様な次第だ。
そんな所にトリロジーにした意味を見い出すと云うのも有りだろう。
さてこんな無茶な興行形態にしても収益の確かさを認識した電王なだけに、
今後もプログラム・ピクチャーの王道を進んで公開されるのは間違い無い。
新たに原点を認識した今、電王はこの先何処へ向かって進んで行くのか・・・

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2010.07.03

フェイセズ待望の紙ジャケ化!

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フェイセズの紙ジャケが遂にキタ━(゚∀゚)━ !!!!!

と云う訳でここで紙ジャケのネタが出る度に書いていた、
特殊ジャケ界(そんな物は無いが)最後の秘境、フェイセズが待望の紙ジャケ化だ。
しかし、発売のアナウンスは結構前から出ていて知ってはいたし、
巻頭特集にフェイセズを取り上げた雑誌なども立て続けに発売されて、
バンド結成40周年と云うアニヴァーサリー・ネタと供に盛り上ってはいたのだが、
如何せん細かい仕様などを説明した広告などが全く雑誌に掲載されない。
普通「こんなギミックを再現しました」的なカラー広告が早くから載るのだが、
発売日のアナウンス程度で中々その詳細が伝わって来ない。
紙ジャケと言えば、まとめ買いするとBOXを付けて来る某ショップの方でも、
殆んどインフォメーションが無く、これは制作が間に合ってないのか?
等と要らぬ心配をしてしまったが、発売日には無事店頭に並んでいて安心した。
一部で「ウー・ラ・ラ」等が品切れを起している店舗等も有る様だが、
こればっかりは少しでも関心が有れば速攻で買っておく事を薦める。
紙ジャケの中でも特殊ギミック物はコスト的にも中々再発が難しかったりするから。

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さて個人的な話を少々すれば、一時期グラム・ロック辺りから来ている、
きらびやかなロックンロール関係を夢中で追っていた時期が有って、
マニアなグラムからモダーンポップと呼ばれる辺りまで触手を伸ばしていたが、
その時に結構ハマったのがモット・ザ・フープルだったりして、
こう云う転がる鍵盤とソリッドなギターにポップなメロディが乗ったバンドは、
他に無い物だろうかと探していた時に思い当たったのがフェイセズだった。
スーパースターを擁した日本でも名が知れたこのバンドの事は当然知ってはいたが、
良く有る話で、有名だけどちゃんと聴いた事が無かったりしたので、
今回同時に紙ジャケ化されたベスト盤「スネーク&ラダー」を借りて来た。
それはもう冒頭の「玉突きリチャード」からして予想を上回るルージーなR&Rで、
スピーディーなリフに導かれて鍵盤が転がり出し、弾むリズムが転調を繰り返す、
大ヒット曲「ステイ・ウィズ・ミー」で完全に持って行かれた感じだった。
グラマラスなロッドとルーズ極まりないロンの佇まいも最高だったし、
ベスト盤をダビングしたテープは本当に良く愛聴していた。
さてそんなR&Rバンドとしてのフェイセズの評価がちょっと変わったのは、
CD時代に成ってからオリジナル・アルバムを聴く様に成ってからだった。
ソリッドでルージーなR&Rバンドと云うイメージで聴いてたのだが、
オリジナル作には妙に牧歌的と云うかフォーキーなナンバーが多く、
「随分まったりとした、とっ散らかった音してたんだな」と云う感じに変わった。
後にこの時代の英国ロックに於ける米国のスワンプ・ロックの影響の深さや、
英国やアイリッシュ・トラッドのロック・サイドによる再評価の事などを知るが、
その頃はバンドが持つそう云う陰影を持った懐の深さ等は理解出来なかった。
現在の耳で聴けばロニー・レインの牧歌的で哀愁漂う歌声にもしびれるし、
ソロ作にも通じるロッドのソウル・マナーな歌い上げにもため息が出る。
そう云えば他の三人と袂を解ったマリオットが結成したハンブル・パイも、
フランプトンが脱けた後のソウルフルで豪快なハードロック路線と違って、
イミディエイト時代の初期の二枚は妙にアーシーでフォーキーだったな・・・
なんて云う事も思い出してしまった今日この頃である。

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と云う訳で今回買ったのは1stとベストを抜かした三枚なのだが、
例に拠って「紙ジャケ」的見地から各作品を見てみよう。
まずはセカンド作と成る「ロング・プレイヤー」から。
所謂古き良きSP盤などのクラシカルなジャケ・デザインをモチーフとしていて、
ここで云う所の「LongPlayer」とは所謂LP盤の正式名称の事である。
この盤の最大の特徴は厚紙を糸で縫い付けていると云う凝った仕様で、
良く見ると縁の所もしっかりかがられていたりして非常に芸が細かい。

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アトミック・ルースターの作品に縫われたジーンズ地に包まれた盤が有ったが、
厚紙をわざわざ糸で縫い付けると云うのは結構珍しいのではなかろうか?
アナログ時代は中央の穴から盤のレーベル面が覗く仕様に成っているのだが、
今回の紙ジャケでは盤面がプリントされた厚紙が封入されている。
流石にこの異常にコストが掛りそうなジャケは英国盤だけのもので、
米国盤及び当時の国内盤は全くデザインの違うちょっと地味な物で、
中央にレーベル面が覗く穴は開いているがデザインが通常の物なのが残念だ。
最近のワーナーの紙ジャケはデフジャケも付属させたりしているので、
この米国盤のジャケもオマケに付けてくれれば言う事無しだったがなぁ・・・・

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で次は有名な邦題と供に名作の誉れ高きサード作「馬の耳に念仏」。
今回のフェイセズの日本盤解説には、紙ジャケ制作側の苦労を偲ばせる様な、
「ジャケット・付属物について」と云う文章が掲載され、それに詳しいのだが、
この作品はジャケ・タイトル供にバリエーションが有る。
英国の初回盤・セカンドプレス盤、そして米国盤と微妙な差異が有って、
英国の初回盤と米国盤では写真のトリミングもタイトル・ロゴもかなり違う。
今回の紙ジャケでは英国初回盤を採用したそうなのだが、
過去に日本で流通してたのは米国盤なだけにこれもデフジャケが欲しかった所。
そしてこれの目玉が350枚以上の写真や絵に、収録された楽曲に対する、
メンバーのコメントなども入った異常に馬鹿でかいポスターである。
メンバーのオフショットとか幼少時に家族と写ったプライベートな写真、
関係無い(のか有るのか良く解らん)風景や小物・イラスト、
そしてやけにぼかしの入った半裸の写真(男も女も)が多くて笑える。
普通こう云う風に縮小した文字や写真はボケて読み取れない物が多いのだが、
流石は日本の印刷技術!かなり細かい文字まで判読可能な所は見事である。

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そして紙ジャケ化の一番の難物だったであろう特殊ジャケの鑑「ウー・ラ・ラ」。
改めて紙ジャケを見てみてもよくもまあこんな面倒な物を採用したもんである。
表のギミック部分だけでも凄いのに更に裏ジャケが上に見開くと云う仕様で、
ギミックのスムーズな再現度も含めてかなり試作を重ねたのではないかと思う。
さてそのギミックなのだが、アナログだとジャケの自重で折り易かったろう物が、
縮小により若干ギミックが固く成っているは致し方無い所だろう。
遊び過ぎると変な折癖が付いてしまいそうで少々慎重に成る。
で、ジャケだけでも充分凄いのだが更に歌詞が掲載されたモノクロのポスター、
英国初回盤のB面に採用されたピクチャーレーベルもカードで封入されている。
ピクチャーレーベルは見開き裏でメンバーが愉しそうに見上げている、
フレンチ・カンカン姿の女性の写真で、表ジャケとのトータリティも完璧だ。
この見事なまでの再現度には海外のコレクターには垂涎の的だろう。

さて今後は何とホークウィンドの初期作の紙ジャケ化が待っているそうな。
ホークウィンドもちょっと前に後期作が大量に紙ジャケ化された時に、
何故初期の特殊物が出ないんだ!と憤った物だが・・・非常に愉しみである。

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