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2010.09.25

Girls On The Run!! ~「けいおん!!」の侮れない世界

Kon001


「けいおん!!」を視始めたのは今年の二期に成ってからである。
勿論その人気や存在は社会現象的な話題と供に知ってはいた。
関連商品が馬鹿売れと言うのは今更驚く様な事ではないが、
劇中で仕様している楽器まで売れていると云う話には唖然とした覚えが有る。
得てして人間は過剰な現象面だけを聞いて納得してしまう部分が有る様に、
一期で終っていたら自分もヲタ人気の過剰だった番組として、
殆んどのアニメ作品同様に中身も視ずに終らせていただろうと思う。
二期を視始めたきっかけと云うのも結構済し崩し的な物で、
たまたまその前の時間に始まった「三代目明智小五郎」が気に成っていて、
それを録画するついでにその話題の番組も視てみるか、と云う感じが始まりだった。
まあ結局回を重ねる毎にその目的番組の比重が逆転して行った訳では有るが。

「けいおん!!」と云う番組を一言で表わせば、
「女子高の軽音楽部のダラダラした日常」を描いた作品と云う事に成る。
トラウマを抱えた少女が使命に目覚めミニスカで闘う話でもなければ、
普通の生活を送る少年の下に様々なタイプの女の子が押し掛けて来る話でも無い。
故に「ど~って事無い日常の中身の無い話」と云う批判は間違ってはいないし、
作品に過剰なドラマ性を求める層には退屈極まりない話だろう。
ただ原作にしろ制作側にしろ描こうとする所はそのまったり感なのであって、
その「ど~って事無い日常の空気感」こそがこの作品の要諦なのであり、
その丁寧に描かれた空気感が視ている者を惹き付ける要素なのである。

Kon002

例えば映画と云うのは本来映像に語らせる事が主眼な筈なのであるが、
昨今の邦画などは平気で主人公のモノローグなどで心情を語らせたりする。
テレビ番組などに於けるテロップの頻出等も影響してるのかもしれないが、
自分が解らなかった事は単に「難解」だと思考停止させる人間の為に、
「誰にでも解り易い」と云う御題目の元に二重修飾的と云うか、
視る人間に「行間」を読ませるような事をさせなく成って来ている。
しかしこの作品はアニメながら(と云うかアニメだからこそか?)、
作中に多くの余白と行間が挟まれ、過剰に説明的に成る所が殆んど無い。
まったりとした日常を描写しながら、その余白は視聴者に様々な物を想像させる。
窓から差し込む放課後の夕日、無造作に置かれた学生鞄の影、
新学期の始まりに桜の花びらを拾う為にしゃがみこんだ桜並木と校舎の遠景、
夏の星空を見上げながら実感の無い未来に思いを馳せる夏フェスの夜、
喧騒の始まりと終りを強烈に感じさせる学園祭中のガランとした教室、
卒業する者達への心の整理が付かぬまま立ち竦む春と同じ凍て付く桜並木と校舎、
主人公達と供に季節の推移を感じさせるそれら背景描写と空気感の豊饒さ、
むしろスペクタクルを描くより難しいであろうこれらの繊細な描写の数々が、
如何にこの作品を魅力的に彩っている事か。
そしてこう云う日常の描写の積み重ねがイベント回の時の祝祭性を際立たせるのだ。

Kon003

勿論「けいおん!!」と言えばそのビジュアルを視ても良く解るとおり、
可愛い主人公達のキャラ人気の高さが絶大なのは明白だ。
故に「萌えアニメ」とも呼ばれる訳だがその辺の所はどうなんだろう?
個人的に「萌え要素」の基準点が良く解らないので何とも判断付きかねる。
ファンは単純に「萌えアニメ」と呼ばれるのを嫌っている様なのだが、
確かにそう云う要素は確実に有るし、部外者的にはどうでも良い感じもする。
昨今のラウド・ロックのバンドが、メタル・コアとかスクリーモとか、
エモ・コアとかNWOTHMとか呼ばれても素人耳には良く解らないのと一緒か?(笑)
「萌え」であれどうであれ、面白い作品には違い無い訳だし。
ただ軽音部の五人も含めて九人のメイン・キャラの起たせ方は本当に凄い。
時々、本当は頭の弱い子なんじゃないか?と云う気もしてくる、
残念極まりない主人公・唯の天然故の可愛らしさは恰も愛玩犬の様だし、
確立されたボケと突っ込みが見事なリズム隊の澪と律のコンビは最強で、
終始ほわほわしまくりの紬の浮世離れ感も、
何か構いたくなる小動物の様な梓の妙に冷めた生真面目さも最高だ。
この五人の確立されながらも日々変化して行く関係性が作品の柱で有り、
キャラの関係性だけで転がって行くこの物語の主要な要素なので有る。 
特に二期は三年の四人の視点だけでなく二年の梓の視点が主に加わった事により、
非常に重層的な描き方に成り関係性の厚みが更に深まったと云う感じで有る。
それは初回から「残る者」「旅立つ者」の対比で幾度も語られる様になる。

Kon009
         紬(Key)唯(Vo&G)律(Ds&部長)澪(B&Vo)梓(G)

スピーディな展開できゃぴきゃぴと進んで行った一期に比べると、
二期では常に何処かで祭りの終りを意識した翳りの様な物が付きまとう。
三年の四人は相も変わらずだが、一人残される梓の存在が常に終りを意識させる。
言葉少なな梓の心情を表すのに(背か低いので椅子に座ると浮き気味の)、
上履きを履いた足の不安定さで表現したりする所が実に上手い。
修学旅行先の京都で相も変らぬ馬鹿騒ぎを繰り広げる回も面白いのだが、
その後に残される梓や唯の妹・憂たち二年生の姿を描く所が重層的で面白く、
そんな梓の為に五つ揃うと「けいおんぶ」の文字に成るキーホルダーを、
旅行の土産に買ってくる先輩達の心遣いに心温まる物が有るのだ。
梓の存在を通してのほほんとした先輩達の成長が見れる演出がにくい。
更に出色だったのが先輩達の合格発表の日の演出である。
合格発表のボードを見る4人のカットから切り替わって梓達の教室、
友人の純がふと唯の妹の憂に眼をやると携帯を手に肩を震わせている。
慌てて梓の方を見ると梓も携帯を手に口を押さえて泣きそうな顔で頷いている。
梓の手にする携帯には唯からの四つの桜が花開くデコメールが・・・・
説明的な台詞は一切無しで畳み掛ける様に見せるこの演出の冴え!
「所詮アニメ」だ等と小馬鹿にする奴に見せ付けたいスリリングな演出である。

Kon04

そしてその演出の結実が最終回の卒業式の回に成る訳で、
涙も見せず最後までドタバタ気味で駆け抜ける卒業生の四人に対して、
未だ気持ちの整理が付かない梓を最後の最後まで合せない演出が上手い。
笑顔で先輩達を送り出そうと思う物のいつもと同じく置かれた学生カバンの脇に、
卒業証書の黒い筒を見付けて感情が抑えきれなくなり号泣する梓、
それを優しくなだめる先輩たち四人は最後に梓の為に歌と演奏を送る。
校舎のあちこちで行われる涙の別れ、卒業生を送り出し放心する担任のさわ子先生、
それらを優しく包む様に流れる軽音部の最後の演奏。
それも「ど~って事無い日常」である、しかしだからこそ耀ける愛しい日常だ。
何気ないからこそ素晴らしい、実に「けいおん!!」らしい最終回であった。

Kon007

多分こう云う何気ない当たり前的な日常に対する感慨と云う物は、
主人公達と同様な年代の視聴者には中々伝わり難い物だと思う。
高校生活などと云う物が遥か彼方に成った年代だからこそ、
あの将来など全く見えていなかった無為で怠惰な日々が無性に愛おしい。
まだ完全に終った訳では無いが、「けいおん!!」二期に於けるベストな回は、
ベタな所だが第二十話の「またまた学園祭」と云う事に成りそうだ。
軽音部の話なのに演奏シーンが余り出てこないこない、この「けいおん!」だが、
そう云った不満を一気に解消するほぼ全編ライブな回である。
ちなみに怖ろしい事だが制作側はこの二期を始めるに当って、
三年生の四人が居るクラスの生徒三十八人を単なる背景のモブとしてでなく、
名前から簡単な人物背景までちゃんと設定したそうである。
どうでも良い事である。
どうでも良い事だがその事によってもたらされる作品の厚みは計り知れない。
神は細部に宿るのだ!それは芸術でもアニメでも変わらぬ事実である。

Kon004

三年目のライブはそのクラスメイト達の熱い声援に包まれて始まる。
この回の感想として「ライブがグダグダ過ぎる」と云うのが多く有ったが、
客が身内ばかりな学生バンドの学園祭のライブはなどは間違い無くこんな感じで、
そう云う意味ではえらくリアルに作ってるなぁ・・・と感心した位だった。
と云うか、むしろ流暢なMCなんぞを決められたら逆に興醒めする所だろう?
マイクの音をギターのピックアップが拾ってハウリングする所とか、
ネックがマイクスタンドに当って倒れそうに成る所とか細かく良く描けている。
それにしても演奏シーンの作画は本当に躍動感が有って感動する。
当たり前の話だがネックの上で動く指の形、ベースのフィンガーピッキング、
トップシンバルの叩き方、キーボードのグリッサンドする時の腕の動き、
最初にバスドラムのヘッドがちゃんと鳴っている描写を見た時は感動した。
レスポールのスイッチがリアで弾く時にはちゃんと切り替わっていたりとか、
楽器をやっている人間には応えられない細かい作画に頭が下がる。
そして歌う唯の豊かな表情がなんと愉しそうに生き生きと描かれている事か!
演奏する事の喜びに満ちたバンドの姿には紛れも無くロック魂が宿っている。
これを見れば楽器をやりたくなる人間が出て来るのも無理は無い。

Kon005

さてそんな充実したライブの後に部室にて呆ける五人の姿が。
満足気にライブの感想を語った後についつい話はこれからの事に及ぶ。
クリスマス、正月、来年の新歓ライブ、夏の合宿、来年の学祭・・・・・
「来年はもう無いよ!」と突っ込む律の眼に光る涙、
「そうかぁ・・・」とボケる唯の眼にたまる涙、膝を抱えて肩を震わす澪、
子供の様に泣きじゃくりながら駄々をこねる紬の涙。
その時改めてもう帰らない日々の楽しかった思いが四人の胸に押し寄せる。
大方の視聴者もそうだろうが、ここのシーンは見事なまでの不意打ちだった。
そらもう泣くのを防ぐのが完全に制御不能な状態であった。
この部分に付いても「お涙頂戴過ぎる」と云う様な意見が結構有った様だが、
前述した様に彼女達に年齢が近過ぎる人間にはそう感じる部分なのかも知れない。
振り返ってみても高校生の頃に喪失感に泣くと云う事など無かったし、
それ以前に「あの頃」に思いを馳せる等と云う事自体が無かった訳だから。
しかし染みる、今だからこそ染みる、そして泣ける。
あの頃過ごした時間と場所と仲間達を思い出して、もう帰らない日々を思い出して。
これだけの情動を斯き立ててくれる作品をアニメだからとか、
「萌え」だからとてスルーしてしまうのは本当に残念な話である。
この作品が現在のアニメ界隈で今後どういう位置に付けるのかは解らないが、
世界に誇るアニメと云うジャンルの素晴らしい一端を見た気がした。

Kon006

って・・・・ああああああ、
あとこの番組の凄い音楽の話も書こうと思っていたが長く成り過ぎた・・・
来週も続けるのか?・・・

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2010.09.18

祝!復活「ブラタモリ」

Bura00


来月からNHKで「ブラタモリ」が復活するそうで、非常に嬉しい。
http://www.nhk.or.jp/buratamori/
第一期の放映中にいつかブログのネタにしようと思っていたのだが、
何回かの休止やらアンコール放送やら挟んで半年で終了してがっかりしていた。
周囲でも評判が良かったし人気も有った様なので期待していたのだが、
半年置いての復活と云う事で今期も期待大だ。

知らない方の為に解説しておくと、今年の3月までNHKで放送していた番組で、
読んで字の如くタモリが東京の街を女子アナとブラブラすると云う内容だ。
「とんねるずの生でダラダラいかせて(生ダラ)」並のそのまんまなタイトルだが、
確かにその通りなんだから他に形容し様の無い番組である。
ただそこはNHKだけ有って、内容説明すればほぼ同じ様な番組に聞えるであろう、
テレ東でやっているさま~ずの「もやもやさま~ず」あたりと比べれば、
非常に知的好奇心を満足させる様な内容なのである。
(いや、さま~ずのあの番組はそのダラダラな所が好きなんだけど・・・)

基本番組は或る土地を歩きながら、その場所の成立した背景を探って行く。
例えばその土地に刻まれた一見しただけでは窺い知れない歴史の痕跡とか、
江戸時代の切り絵図を現在の地図にトレースしてみたりだとか、
学者の先生や近所に住む古老に尋ねてみたりとか様々である。
実際に番組にもゲスト出演していた陣内秀信教授の著作に有る、
現在の東京の上に、かつての道や水路、屋敷の跡を推察し読み取って行く、
所謂「東京の空間人類学」的アプローチな番組だと言えるだろう。
基本こう云う番組は事前にリサーチャーが綿密に調査していて、
タレントはその上で驚いたり発見したりと云うのが普通なのだが、
自ら東京の坂に付いての本を出している位、街歩きの好きな性分であり、
鉄道も含めて元祖ヲタクと呼べるほど知的好奇心が旺盛なタモリゆえに、
解り易く番組の引いたルートに乗らずに、敢て脱線して行く感じが実に面白い。
特に電車関係とか電気パーツとかタモリの趣味の範疇の話に成ると、
途端にテンションがだだ上がりして趣味の話で盛り上る所などは最高だ。
同好の士と知って盛り上る一般人や店主の嬉しそうな姿も必見で、
例えば鶴瓶はカメラの前の一般人のガードを下げさせる事に掛けては天才的だが、
この番組を見ているとタモリもかなりの物だと思い知らされる。

Bura02

しかし毎日のレギュラーを持つタモリを起用すると云うのは大変だったろう。
一回の放送でも随分と細かく日にちを別けてロケしている様で、
放送時期と季節感の合わないロケ先の風景や服装を見ていてもそれは解る。
多分第一期が終了してもそのまま断続的にロケ収録を続けていて、
それがようやく貯まって来ての第二期の放送と云う感じだろうか?
番組中に流される中々味のある再現CG映像も結構凝った物だし、
こう云う贅沢な姿勢で番組を創れるのは国営放送ならではであろう。
ちなみにタモリのお相手を務めるNHKの女子アナウンサー久保田佑佳は、
如何にもNHKらしい派手さの無い落ち着いた感じのアナウンサーなのだが、
タモリのしょうもないオヤジギャグに一々反応して創り笑ってしまう様な、
バラエティ慣れしていない感じがNHKらしく当のタモリも満更では無さそうだ。

第一期の放送では横浜を除いて殆んど東京の街中が舞台と成っていたが、
上野や神保町、秋葉原、浅草、本郷台地などの地元ネタに関しては、
それなりに知っているトピックが多くて「そうそう!」と云う感じで視ていた。
上野の回で不忍池の周辺にかつての都電の軌跡を見付けると云う場面が有ったが、
ガキの頃は上野動物園に行くと云うと、不忍通りを走っていた都電に乗って出掛け、
不忍池の手前から専用の軌道に入って行くのを覚えている人間としては、
ちょっと前まで専用軌道跡に公園が残っていたりしたし、特に珍しくも無かった。
だが秋葉原駅前の公園がかつての貨物用の舟溜りだったと云う話には驚いたし、
CGで再現された往時の万世橋駅の姿は非常に素晴らしかった。
そして寛永寺の徳川家の霊廟の中とかニコライ堂の鐘楼の中など、
滅多にお目に掛れない映像は流石に国営放送!と一声掛けたくなる素晴らしさだ。

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個人的に興味深かった回はやはり殆んど馴染みの無い土地の回ばかりで、
特に一度も行った事の無い「二子玉川」の回は新鮮な発見が多く、
特に「玉電」に関しては再現CGも含めて非常にそそられる物が有った。
贅沢に舟を使った「日本橋」や「品川」の回も、水辺から見ると云う視点が新鮮で、
漫然と地上を歩いているだけでは体験出来ない視点の推移が素晴らしい。
「六本木」「赤坂」ももう古い物など残っていないだろうと云う想像を裏切り、
江戸の頃から残る池、大名屋敷の庭園跡、味の有る書道家の旧宅など、
東京の持つ歴史の奥深さにしびれる事受け合いの数々に圧倒される。
「三田・麻布」の回の松平家の中屋敷跡に建ったイタリア大使館に入り、
大使館だからこそ開発されず残されていた江戸の頃同様の庭園には感動したが、
その後、別の番組でも放映されていたりしてちょっと興醒めだったが・・・

と云う訳で第二期はどんな所をブラついてくれるのか愉しみな訳だが、
今回も横浜の様に少々近郊の方まで脚を伸ばしてみて欲しい物だ。
つうても撮影の方はもう三分の一位終ってる感じだろうか?
未見の方は是非とも十月にチャンネルを合わせて欲しい番組である。

Bura03

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2010.09.11

「鏡の偽乙女-薄紅雪華紋様」/朱川湊人

Syukawa01


近頃、フィクション・・・と云うか小説を余り読まなくなった。
年齢的な物なのか、単に嗜好が変わっただけなのか解らないが、
未知の新しい作家の話題作などは余程の事でも無い限り手に取らない。
まあ別に昨今の書籍状況を糧にを仕事にしている訳でも無し、
興味が無ければそのままでも良いのだが、
やはりつい手に取ってしまう作品と云うとお馴染みの作者の物が多くなる。

と云う訳で今回もお馴染みな、最近は特撮番組の脚本にも手を出している、
朱川湊人氏の新刊「鏡の偽乙女-薄紅雪華紋様」である。
既知の作家が非常に好みな世界を描いている、と云う部分にもそそられるが、
大正年間と云う時代設定、そして馴染みの土地が舞台と云う所も大きい。
無論一度も出掛けた事の無い土地を舞台にした作品が駄目だと言う訳では無いが、
やはり見知った土地、土地感のある場所が舞台だと作品への没入感が違う。
この作品も上野・本郷・根津・谷中・浅草と昔から知る場所ばかりである。
勿論、大正年間のそれらの土地を直接知っている訳では更々無いが、
開発の激しい所に比べれば昔ながらの物が多く残る場所で有り、
その土地の持つ「場所の記憶」が今でも確かに残存する画に成る舞台である。

話は、画家志望の青年・愼島風波が無理解な家長のもとを飛び出し、
自活を始めるべく下宿先を目指して歩く、雪の本郷は無縁坂に於いて、
謎めいた美貌の男・穂村江雪華と些か不思議な出逢いをする所から始まる。
その時に雪華から受けた深い印象が忘れられずにいた風波は、
期せずして上野の博覧会会場にて彼と再開し親しく口をきく様になる。
同じ様に画を志す無名の存在でありながら、雪華の技量は卓越しており、
その蓄えられた知識、芸術観供に風波を心酔させるに足る存在であった。
そして彼を訪ねて行った先の谷中墓地にて風波は知る事になる、
雪華は「この世の者では無い」存在を視、関わっている人間だと云う事を。
と云う訳で一話の「墓場の傘」は風波と雪華の不思議な出会いと、
雪華による谷中墓地での奇妙な死霊供養の様子が描かれている。

二話の「鏡の中の偽乙女」は、とうとう風波が雪華の暮す怪しげな根津の下宿、
「蟋蟀館」に越してくる物の、その部屋には前住人の幽霊が住み着いており、
その幽霊を風波の画の力で成仏させようと云う話に成っている。
と、まあここまで読んで来て、これは雪華と云う謎の青年が媒介してくる怪異を、
風波と云う一般人の視点で以て読み解くと云う感じの話かと思っていたのだが、
途中からどうもそう云った抒情的な幻想譚と云う雰囲気では無くなってくる。

三話の「畸譚みれいじゃ」は、雪華の知人の画学生を尋ねて行った先で出合った、
近所の娘・おフウからその父親の不意な失踪を知らされ、
調べて行く内にその父親が既に5年も前に亡くなっていた事実を知る。
それが雪華の云う所の、謎の不死者「みれいじゃ」との最初の係りだった。
風波の親戚が家族・仕事も投げ出して浅草の巷に失踪した事件を追う内に、
そこには十四年前と同じ美貌を保った謎の青年が関わっていたと知る、
浅草十二階の下に拡がる魔窟の迷宮を舞台とした四話の「壷中の稲妻」。
そして当時全盛を誇った美人奇術師・松旭斎天勝のまがい物を浅草の場末で演じる、
月子の哀しい半生と秘めたる想いが、哀れで美しい五話の「夜の夢こそまこと」。
と、後半の三話が総て、所謂不死者「みれいじゃ」を巡る話に成っていて、
「みれいじゃ」そしてその発生に関わる不可解な存在「蒐集家(コレクタア)」、
そしてその辺の事情を何処まで知っているのか解らない探偵役の雪華と、
何やら伝奇ノヴェル的な風呂敷の拡がり方なのである。

大震災前の爛熟した大正年間を舞台にした淡い幻想譚を期待していた向には、
人の生死を操るが如き存在の登場に、正直微妙な感覚を抱かないでもなかった。
これで雪華が派手な術でも繰り出し、風波が武術全般の使い手だったりしたら、
ラノベ辺りで登場して来そうな設定と云う感じで有る。
まあ四話を除いてはそう云う派手な活劇が現れる場面は殆んど無いし、
三話では夢二の絵葉書、そして五話では啄木の詩を巧みに引用しながら、
最終的にもの哀しくも美しい抒情的な雰囲気でまとめている所は侮れない。

ちなみに五話で月子が思いを寄せる大学生・平井某は、かの江戸川乱歩であり、
雪華の知人と云う田端に住む画学生とは個人的に偏愛する村山槐多である。
槐多は作中では惣多と云う名前のエキセントリックで愛すべき男として描かれるが、
個人的な思い入れからするともうちょっと狂っている様な感じだろうか?
作中に出て来る惣多と仲の良い少女のおフウは、
槐多が吉田白嶺の娘・雅子を描いた「カンナと少女」がイメージ元かと思う。
そう云えば乱歩と槐多も直接的では無いが繋がりが有る存在だったな・・・
初登場以降、惣多はサブキャラとして既に確固たる地位を得ている様でめでたい。
そしてやがて来るであろう震災を予知しているかの様なビジョンを視る、
「蟋蟀館」の女中である片目を眼帯で隠した少女・お欣。
怪しげな「蟋蟀館」を取り仕切る、妖艶だが得体の知れない女将・お鶴など、
主人公達を取り巻くキャラも濃厚で何かと気に成る存在である。

Syukawa02
       村山槐多「カンナと少女」図

作者には是非「みれいじゃ」方面の話ばかりに関わらず、
この怪しい大正年間の物語を紡いで行って欲しい物である。

村山槐多に付いてはこちらもどうぞ

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2010.09.04

不滅なる(笑)ゾンビの世界

Dead01


『「燃えドラ」と「ゾンビ」に触れていない映画史など俺は信用しない』
と云う意見には、全面的に文句無く諸手を挙げて賛成である。
ヌーベルヴァーグやアメリカン・ニューシネマに対する言付が有っても、
李小龍とジョージ・A・ロメロに対する賛辞の無い映画史など無意味である。
それは夥しく創り出されてきたその影響下に有る諸々な物を見ても解るし、
新たな層を取り込みつつ現在も生み出し続けられる様々を見れば明白だ。

一体世界中でどれだけの数の死者が甦り、肉を求めて彷徨い歩いた事か。
ドラキュラやフランケンシュタインの座った王座に今座っているのは、
ジェイソンでもフレディ・クルーガーでもエイリアンでもない。
甦り、歩き回り、人を喰らう、ごく普通の腐りかけた死人たちなのだ。
強烈な存在感を示す解りやすい個人などではなく、
普通の無名の集合体と云う所が何とも昨今のネット社会の様で現代的である。

さてカリスマ的な個人として昨今多方面から評価される李小龍に対し、
ゾンビに関する研究本などは相変わらず数えるほどしか出ていないが、
最近中々に興味深い本が出版された。
それが野原祐吉の著作による「ゾンビ・サーガ」と云う1冊だ。
サブタイトルに「ジョージ・A・ロメロの黙示録」と有る様に、
モダン・ゾンビの創始者であるロメロの手掛けたゾンビ映画を扱った書籍である。
本書は著者が自身のブログに書き溜めていた、
ロメロのゾンビ映画に対する思い入れや考察をまとめた内容に成っているそうだ。
なので監督とか関係者に対する新規のインタビュー等が載っている訳ではなく、
資料的には既に発表済みの二次資料が殆んどで、本書ならではの新資料は無い。
なのでトピック的にマニアなら何処かで読んだ事の有る話が殆んどだし、
基本、映画とロメロに対して著者が愛を持って語り尽くしているだけである。
だから意味が無いか?と言われればそんな事は全く無い。
それぞれの作品に対して、著者は自分の体験を踏まえて真摯に語っているし、
牽強付会に自分自身の考えを押し付けて来る様な事も無い、
斬新な評論や意見は無いが、作品に対する思いの深さに感心する事が多々有る。
『ゾンビと云うキャラクターだけを拝借してロメロ以上にゲーム感覚的な面白さを追求したゾンビ映画も登場したし、ロメロ以上に過激な残酷描写を画面の中で繰り広げた映画も登場した。しかしロメロのゾンビ映画のように観終わった後に「何か」を感じさせるような、一種の哲学的な深さを持ち合わせた映画を監督できた者はいない。』
と云う一文は、作品を愛する人間にとって激しく同意する所だろう。

基本一番力の入ってるのは最初の三部作である「夜」「夜明け」「日」の三本だが、
その後の「ランド・オブ・ザ・デッド」「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」、
そして最新作である「サバイバル・オブ・ザ・デッド」までフォローしている。
ちなみに不甲斐無い事に個人的に「サバイバル~」は見逃してしまったので、
ネタバレしている本書の「サバイバル~」の部分は読んでいません。
それから様々なバージョンが存在する「ゾンビ(夜明け)」に関して、
各バージョンの比較対照表が付いていて、やや読みにくいが中々面白い。
特にテレ東で80年にテレビ放送された時に生まれた珍品中の珍品、
「ゾンビ-地球SOS・死者が甦った日」と云うタイトルのもと、
音楽は何故かゴブリンの「サスペリア」を使用した通称「サスペリア版」も、
比較対照表の最後に掲載されている所が中々レアで愉しい。
これに関しては冒頭の惑星爆発からして自分もガキの頃に観ている筈なのだが、
ラストの台詞等、微妙に局側でいじってあったと云う事をこれで知った。

ゾンビ関連以外のロメロの作品も巻末の方で丁寧に取り上げられている。
個人的に初期の「Ther's Always Vanilla」そして「悪魔の儀式」は未見だが、
「クレイジーズ」から「モンキー・シャイン」までは観ていて、
そこからちょっと飛んで「URAMI~怨み~」なんかは観ている。
特に日本では劇場未公開の「ナイトライダース」に関しては、
当時場末のレンタル屋で流通していた輸入ビデオに勝手に職人が字幕を付けた、
所謂「裏ビデオ」として観ていたので何気に思いで深い作品だ。
ちなみにロメロはカプコンの超有名なゲーム「バイオハザード2」の、
TVCMを監督している事は知られていてこの本にも書かれているのだが、
ホラー・パンクの始祖であり個人的に偏愛しているバンド「The Misfits」の
「Scream」と云う曲のプロモ・ビデオをロメロが手掛けていたりもする。
病院にストレッチャーで運び込まれたメンバーがゾンビ化して、
医者や看護婦に襲い掛かると云う実にロメロな感じの作品に成っていて最高だ。
ちなみに「URAMI~怨み~」では作中でMisfitsの演奏シーンが出て来るのだが、
ギャラがプロモ撮影とバーターだったと云う話もちらほら・・・・

Dead02

こちらは一部で鬼の様な古書価が付いていた「ゾンビ」のノヴェライズ本である、
79年にヘラルド出版から出た「死者たちの夜明け」の新訳・再発本。
と言っても出たのが94年だから流石に品切れか絶版だろうか?
しかも良く見てみたら「ゾンビ・サーガ」と同じABC出版から出た本だった。
う~む・・・ABC出版侮れないなぁ・・・・

Dead03

さて最後にゾンビ関連でちょっと面白かったのがこの本。
もしも日本でゾンビ・ハザードが起きた場合にどう逃げ、どう生き延びるか?
と云う実践的な様で余り実践的ではないサバイバル術を満載した、
コンビニの棚に並んでいる感じのお手軽なシュミレーション本である。
お手軽だがロメロのモダン・ゾンビ以降の映画やゲームに登場する、
ゾンビの進化や取り上げられて来たシチュエーションが解って面白い。
特に出現したゾンビを「歩くゾンビ」と「走るゾンビ」に区別して、
それぞれに対処方を記して有ったり、その活動期間がタイプにより30日前後とか、
同じ様なゾンビでもウィルス由来、呪い・儀式由来、原因不明等分かれていて、
根絶する為の方法が(根絶出来るのか?)それぞれ違っていたりしたりと、
知らない所で共通認識に成っているらしいその設定が中々に興味深かった。
そう云えば昨今の「全力疾走ゾンビ」に対して否定的なロメロの答が、
「だって死人には見えないだろ?」と云うのには笑った。
全くその通りだ。

以前に書いたDVD絡みの「ゾンビ」ネタはこちらから

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