« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012.03.31

ラジオ番組の改変期

Radio01


連続ドラマなどは殆ど観ていないので余り気付く事は少ないが、
新聞のテレビ欄などで特番の宣伝が載っていたりすると、
「あ~もう番組の改変期の時期か・・・」などと遅まきなが気付く。
勿論それはラジオ番組で有っても同様で、
馴染みの番組が終わったり新しい番組が始まったりの季節である。
今期、馴染みにしていたラジオ番組が終了した。
人気番組ゆえに、よもや!と誰もが思ったであろう「小島慶子のキラキラ」だ。

以前ここのブログに書いた聴き始めたきっかけを引用すると、
『昨年の夏にi-podを買って一通り聴きそうな物をぶち込んでから、
さてそろそろ他の機能も試そうかと、ポッドキャストなる物に手を出した。
そこで最初に登録したのがTBSラジオ「小島慶子のキラキラ」だった。
何処で聞いたか、もしくは読んだか覚えていないが番組の評判は届いていたし、
サブカル好きには文句の無い日替りのキャスティングにも惹かれた訳である。
最初は町山智浩とか吉田豪とか宇多丸とかの出る回のみを聴いていたのだが、
驚いたのが当初この番組を、深夜向けな個性の強過ぎる日替りのキャストを、
女性アナウンサーがアシストして行く様な番組なんだろうと思っていた所、
対等と云うより殆ど主導権を小島慶子と云うアナウンサーが握っていた所だ。
確かに「小島慶子の~」と付いてる訳なんだが大概の人は同じ様に驚くだろう。
特定のコーナーや曜日を聴いていた所から、別の曜日にも興味は移り、
配信されている総てを聴く様に成るまで左程時間は掛からなかった。』

Radio02

生活のサイクル的にリアルタイムで聴くには無理が有ったので、
基本はポドキャス、聴取率月間の時などは録音して聴いた。
ポドキャスは一週間分をまとめて週末などに聴いていたりしたので、
その週の放送が大概週末に何処か出掛けた時の記憶とリンクしている。
近所は勿論だが、旅行に出掛けた時にも聴いていたりしたので、
町山の映画の話を近江に向う電車の中で聴いたなぁ・・・などと思い出す。
二年以上続けてきたこの習慣が終わってしまうのは非常に寂しいが、
仕事などをしながら毎日当たり前の様に聴き続けてきた方々の、
その喪失感の大きさは如何ばかりかと思う次第だ。
いい加減この歳に成れば物事には様々に終わりが有る事は承知だが、
残念に思う気持は変わる事は無い。

番組終了理由に付いては番組中でさらっと話されたのみで、
憶測だの批判だの様々有る様だが、個人的にそれはどうでも良い。
ただまあ如何にも小島慶子らしい幕の引き方だなぁ・・・とは思う。
後番組に残留するらしいビビる大木とピエール瀧は、
多分ロマンポルノのコーナーやらバカ葉書のコーナーなど、
「キラキラ」でも人気の高かったコーナーを持続してくれるだろうが、
個人的には宇多丸と小島慶子の絡みが聴けなくなるのが実に寂しい。
自分の番組である「タマフル」で好きに振舞う宇多丸も最高だが、
小難しい話を振るものの言っている事を一々小島慶子にスカされて、
ムキに成ったり無気力に成ったりする宇多丸のコンビ芸は最高だった。
あの息の有ったギャラクシーな掛け合いが聴けなくなるのは本当に残念だ。
神足の代打に入った堀井憲一郎とも最近は呼吸が有って来ていたし、
お互いのリスペクト感が非常に心地良かった水道橋博士や、
「魁」に対する様な信頼感が溢れていた町山との金曜日も面白かったなぁ・・・

Radio03

さてもう一本は半年限定と決まっていた番組だが、
火曜から木曜まで放送されていた4時間の番組「ザ・トップ5」だ。
TBSのアナウンサーと完全に宇多丸人脈のコメンテーターによる、
まあ良くも企画が通ったな、と云う様な実験的な番組だったが、
これが中々に絶妙な化学反応を起こして実に愉しめる番組に成った。
とにかくこちらも4時間と云うダラダラと長い番組だっただけに、
録音して聴くのは主に火曜の安東弘樹とコンバットRECの日だった。
安東弘樹ことアンディに関してはタマフルに登場した時に知った位で、
アナウンサーとしては殆ど知らない方だった訳だが、
タマフルでも醸し出していた、生真面目さ故の変な面白さが絶妙で、
趣味への熱量、妙な自己卑下感、会社に対するボヤキなどが炸裂で、
それが適当なコンバットRECとの絶妙なコンビ感と成っていた。
千葉真一や衣笠祥雄、AKBの横山由依などゲストも何気に豪華だったし、
アンディの為にも是非第二期をお願いしたいと云う番組だった。
ちなみに木曜を担当していた大仏ナタリーこと小林悠アナは、
この番組で一躍サブカル層注目の女子アナとして躍進し、
キラキラの後番組での金曜のメインパーソナリティに昇格?した。
お相手は水道橋博士の相方の玉袋筋太郎である、さてどう成るか?

そうそう「菊地成孔の粋な夜電波」は目出度く三期に突入するらしい。
先鋭的なプログラムといい加減な語りを今期も愉しめそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.24

ニホンオオカミを巡る様々な諸相

Wolf03

きっかけはたまたま録画していたテレビ番組からだった。
NHKはETV特集で放送された「見狼記 ~神獣 ニホンオオカミ~」と云う。
番組は主に二つの流れを持って構成されていた。
一つは明治38年に最後の一頭が殺されて以降既に絶滅したとされる、
幻の「ニホンオオカミ」の姿を現在も追い続ける人々の話。
もう一つは関東平野の各所に残る「狼」を神の使いとして信仰する、
山岳信仰の神社と信者達の現在の姿を取材した話が織り交ぜられている。

まずは幻のニホンオオカミを追い続ける人々の話が迫力を持って描かれる。
埼玉県秩父市流山の林道でニホンオオカミらしき獣と遭遇し、
それを写真に収めた事でニホンオオカミの探索に取り付かれた八木博氏。
素人目にはそれがニホンオオカミなのか山犬なのか判断が付きかねるが、
それ以降、峻険な山野に分け入り自費で各所に赤外線カメラを取り付け、
ニホンオオカミの痕跡を訪ね歩く八木氏の姿には圧倒される。
学者からは無視され多分世間からは変わり者と揶揄されるであろうその姿は、
故に常識を覆すかもしれない可能性を秘めている訳で、
同じく幻と言われていた「イリオモテヤマネコ」を発見した動物学者、
今泉吉典氏が残した言葉「居ないと思った時に終わる」の言葉通り、
信じ続ける事を続ける信念と云う飽くなき情熱が感じられて面白い。
勿論実際に番組中でニホンオオカミの姿が捉えられる事は無いのだが、
昔よく有ったUMA探索番組の如き如何わしさと好奇心が刺激された。

もう一人ニホンオオカミに取り付かれた人として紹介されるのが、
山犬の中に残るニホンオオカミのDNAを交配によって蘇らそうとした男、
故・村上和潔氏の話も強烈な印象を持って描かれる。
その実験の挙句に「戻りオオカミ」と呼ばれる近い個体が誕生するが、
病弱で直に死んでしまい、氏の死後残された実験体たちは散逸する。
番組は最後に残された氏によって産み出された一匹を追跡するが、
民家に飼われているその一匹はどう見ても年老いた老犬に見えた。
故人のドクター・モローさながらなマッド・サイエンティスト振りも凄いが、
残された一匹の白泥した悲しそうな眼が印象に残る凄い話だった。
かくもニホンオオカミが人の人生を狂わすか・・・・

そしてもう一つの流れがオオカミ信仰を司る神社とその信徒を巡る話で、
秩父の釜山神社を一人で守る老神主の古式ゆかしい敬虔な姿が印象に残る。
老神主は現在も月に一度ある「お炊き上げ」と云う神事を行う為に、
人の手が触れない様に注意して炊き上げられた米をお櫃に入れて、
険しい山奥に有る神社の奥の院までお櫃を背負って登り、
取材でも明かされる事の無い谷間に降り、祝詞をあげお櫃を捧げるのだ。
ひと月前に捧げられたお櫃を回収すると中の米はからっぽに成っていて、
お櫃の周囲には動物の牙に削られた様な跡が幾つも付いていた。
勿論それがオオカミによって付けられた物だと断定する事は出来ないが、
オオカミに象徴される「自然」に今も感謝を捧げる姿には考えさせられる。
今後後継者が現れない限りは早晩この神事も終わりを告げる事だろうし、
同様に番組内で描かれたオオカミ信仰を続ける集落の神事も終わる。
日本が古来から持ち続けて来たアニミズム的な万物への畏れや敬い、
その伝統が途絶える事と、先の震災に象徴される荒れる自然への驚異、
そんな問題定義が中々に意味深く迫って来る面白い番組だった。

Wolf02

さてそんな事が有ってから書店に出掛けた時などに、
民俗学の書籍が有るコーナーでオオカミ信仰等に関する本を探していたら、
見付けた一冊が小倉美惠子著の「オオカミの護符」だった。
都心から電車で僅かな距離の為に戦後に急発展を遂げた川崎市の土橋。
著者はその土橋で古くから農業を営む家に生まれ土橋の発展と供に育った。
土橋が都心のベットタウンとして急速な発展を遂げる一方、
著者が幼い頃に過ごした農家の暮らしも急速に失われつつあり、
その事が著者にビデオカメラを持たし古き記憶を記録する行動に駆り立てる。
そのきっかけと成ったのが土蔵に貼られた不思議な護符からだった。
古い暮らしを記録して行く内に知るその護符にまつわる「御嶽講」の存在、
土橋の御嶽講の講中の一人として武蔵御嶽神社に代参した著者は、
古から続く豊かな歴史を孕んだ御嶽講の歴史を知る事に成り、
やがて趣味で行っていた映像記録は記録映画のプロの助力も加わり、
事務所も設立し本格的な記録映画作品としての一歩を進める事に成る。
そして何時しか御嶽講も含む山岳信仰の深遠を求める旅は関東一円に向かい、
関東平野に拡がる豊潤な山岳信仰のネットワークを知る事となり、
その象徴たるニホンオオカミの持つ歴史的な意味合いを認識する。
そして山奥に伝わる神事に参加する事から受け継がれた日本人の敬いを知り、
失われつつ有る自然と共生して行く豊かさを再確認するのだ。
映像は08年に「オオカミの護符-里びとと山びとのあわいに」として結実し、
高評価を持って受け入れられ、本書はその文字としての記録である。

NHKの番組では僅かしか描かれなかったオオカミ信仰のパートが、
単なる怪しげな「秘儀」等ではなく(勿論秘儀的な部分は有る訳だが)、
深遠な歴史と山と里のネットワークによって築かれていた事が知れるし、
何よりも著者が周囲の身近な所からその興味を発展させて、
深山に分け入る様にその奥深い世界に入り込んで行く様は実に面白い。
そしてこれらが遠い地方で行われている知られざる神事ではなく、
自分の身近に連なる関東で今も続いている世界だと言うのが驚きだった。
本書に記された幾つかの場所には知らずに出掛けていた事も有ったりしたし。
本書は専門的な語句も少なく非常に平坦な読み易い文章なのだが、
記述的に少々くどいと云うか読み難い部分が有ったりするのも確かである。
しかし専門家の著書の様な客観的な記述に終始した硬い感じは皆無で、
主観的な記述は著者と供に謎めいた神事に加わる様な興奮が味わえる筈だ。

Wolf01

と云う訳で知れば知るほど奥が深いニホンオオカミを巡る様々な諸相。
いずれ紅葉が美しい季節にでも成ったら秩父にでも出掛けてみようか・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.17

「吸血鬼」本の世界

Vampire06


「吸血鬼」
怪異の王、闇の伯楽、真紅の誘惑者、呪われし不死の血脈。
近頃はその地位をポップなゾンビに脅かされつつは有るものの、
何時の時代も闇に焦がれる者を魅惑して止まないその存在は孤高である。
何故吸血鬼が何時の時代も人々を魅了し続けるのか?
それについてはこれから登場してくる本などに様々な論考が為されているが、
超克的な存在ながら余りにも人間臭いそのキャラクターに有る様な気もする。
現代の集団心理を反映したかの様なゾンビの人気を見るまでもなく、
人は己と合わせ鏡の様な存在を恐れ、そして魅かれる者なのだろうから。

Vampire01

さて最初の一冊は新書館から出ていた須永朝彦の「血のアラベスク」。
格調高い吸血鬼小説集「就眠儀式」を出している須永朝彦による、
独特の美意識に貫かれた「吸血鬼」全般の入門書である。
冒頭の「吸血鬼の歴史と諸相」と題された章の「吸血鬼登場」に於いて、
ブラム・ストーカ-よりも日夏耿之介が先に出て来る所が如何にもであろう。
そして所謂「ドラキュラ」以前の民俗学的な吸血鬼論考が続いた後に、
有名な「ワラキアの暴君」「串刺し公」ヴラッド公の話へと続き、
ようやく「吸血鬼文芸小史」へと移って行く訳なのだが、
そこにも日夏耿之介の文章を引用した「ゴシック・ロマンス概観」が付され、
ようやくポリドリやシェリー夫人、レ・ファニュやストーカーが登場して来る。
新書館のこのシリーズは基本的少女向けに書かれた書籍なのだが、
気軽に手に取ったらその深遠にして衒学的な内容に驚く事だろう。
巻末に数ページだがモノクロのグラビアで吸血鬼映画のスチールが載っているが、
表紙や裏表紙同様に著者の美意識が貫かれた美しい写真が多く、
始めて見たロジェ・バディムの「血と薔薇」の写真の美しさに心奪われた物だ。

Vampire02

お次は芳賀書店から出ていた季刊・映画宝庫と云う雑誌の一冊で、
ジョージ・ハミルトンの「ドラキュラ都へ行く」の公開に合わせた、
「ドラキュラ雑学・写真・事典」と題されたドラキュラ尽くしの一冊だ。
映画の専門誌なだけに吸血鬼映画に関しては圧倒的な史料価値の本であり、
当時の最新作「ドラキュラ都へ行く」、フランク・ランジェの「ドラキュラ」、
そしてヘルツォークの「ノスフェラトゥ」のリメイクのスチールを巻頭に、
歴代のレアな吸血鬼映画のスチール集などが豊富に掲載されている。
圧巻なのが平和孝による「吸血鬼映画全作品フィルモグラフィー」と題された、
1980年当時までの吸血鬼映画をまとめた資料が驚異的で有る。
他にも「火星人襲来」で全米を震撼させたオーソン・ウェルズのラジオドラマ、
「ザ・マーキュリー・シアター・オン・ジ・エア」の第一回放送となる、
ストーカー原作の「ドラキュラ」のラジオドラマの採録台本等と云う、
凄まじくマニアックかつ歴史的資料大な記事も載っていたりする。
トランシルヴァニア紀行のカラー写真や吸血鬼漫画の紹介コーナー、
吸血鬼映画のポスター集、サッティの歴史的な挿絵の再録等々、
圧倒的な視覚資料の充実振りを誇る一冊に成っている。

Vampire03

「ドラキュラ」映画が復活する時、この手の充実した資料本が出る喩えの通り、
コッポラが手掛けた「ドラキュラ」が公開を迎える時期に出されたのが、
「幻想文学」の「吸血鬼文学館」を様々な資料を加えてブローアップした、
別冊幻想文学の「ドラキュラ文学館」である。
タイトル通り、ドラキュラ及び吸血鬼の文学的側面をガイドする本なのだが、
別冊に際して映画・演劇・漫画、ブックガイド等も非常に充実させて来た。
かの須永朝彦による「小説・ブラム・ストーカー」や未訳のエッセイの翻訳、
そして谷川渥による「日本吸血鬼文学誌」等興味深い記事が多く、
巻末の名作の文章を再録して解説を加えた「吸血鬼文学館」も愉しい。
ちなみにこの特集号に付随して幻想文学出版局から東雅彦氏の編集による、
日本人作家による吸血鬼小説アンソロジー「血と薔薇のエクスタシー」も出た。
その物ズバリな吸血鬼小説も多いが、三島由紀夫の「仲間」に象徴される様に、
妖しげな雰囲気を匂わせる様な作品も収録している所が編者の腕の見せ所で、
そう云う点で中河興一「吸血鬼」や岡本綺堂「一本足の女」等の変化球も巧い。
個人的にはやはり日影丈吉の「女優」の鮮やかな筆の冴えに唸らされる。

Vampire04

さて最後に同様に東雅彦氏の編集による一冊となるが、
途絶してしまっている名シリーズの復活を是非に願って紹介したい、
学研M文庫の「伝奇ノ匣」の一冊「ゴシック名訳集成・吸血妖鬼譚」だ。
ゴシック名訳集成シリーズは「西洋伝奇物語」「暴夜幻想譚」と出ているが、
その掉尾を飾るのが吸血鬼と人造人間を扱ったこの一冊である。
「ゴシック名訳」とは所謂口語的なくだけた読みやすい表現ではなく、
文語的な格調の高い訳文による近世初期の翻訳小説の一群を表していて、
堀口大學の「月下の一群」等を思い出していただけると良いかも知れない。
とにかく現代では殆ど出版される機会の少ない歴史的な名訳を、
これでもかと重厚長大に網羅して行くこのシリーズの価値は計り知れなかった。
さて現在でも怪奇の世界の頂点に君臨するであろう両極の存在、
「吸血鬼」と「フランケンシュタインの怪物」が、
時を同じくして生み出されたと云う逸話をご存知の方も多いと思う。
ジュネーブのディオダティ荘にひと夏集いし、詩人のバイロン卿、
友人で医師のポリドリ、同じく詩人のシェリーとその恋人メアリーが、
閑のつれづれに創作した怪談小説がその始まりになっており、
その奇怪な別荘での経験はケン・ラッセルの映画「ゴシック」でもお馴染みだが、
本書もその経過に沿って編まれている所が実に粋で心憎い編集である。
ディオダティ荘の故事を綴った日夏耿之介の「恠異ぶくろ(抄)」を頭に、
バイロン卿が朗読中にシェリーが錯乱状態に陥ったと云う「クリスタベラ姫」、
そしてシェリー夫人の名作「フランケンシュタインの怪物」の本邦初翻訳、
小林清親の挿絵もレア極まりない瓠廼舎主人訳の「新造物者」、
そして時を同じく創作されたポリドリの「吸血鬼」の翻訳である、
佐藤春夫の「バイロンの吸血鬼」(何故バイロンなのかは解説を参照)、
更には影の演出者と言えるバイロン卿の格調高き詩が味わえる「不信者」と、
つるべ打ちの様に繰り出される古き良き日本語による美文に酔い痴れる。
他にもガストン・ルルーの「吸血鬼」や横溝正史訳の「モダン吸血鬼」、
小泉八雲・日夏耿之介・平井呈一による吸血鬼エッセイも含むなど、
良く有るアンソロジーと一味違ったその内容に唸らされる事間違い無しの一冊だ。

Vampire05

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.03.10

黒色の哀歌(エレジー)は闇に流れる

Kokushoku03

その時、何故「黒色エレジー」のレコードを手に取ったか覚えていない。

好むと好まざるとに係らず、情報過多の現代と違って、
かつてのアナログ時代は一種の勘や感覚が一つのリテラシーとして存在した。
レーベルやプロデューサーそして帯タタキ等から中身を探って行く訳だが、
メジャー・レーベルから発売している様な国内盤ならいざ知らず、
インディーズ盤で「当たり」を探すのはそれこそ至難の業に等しかった。
聞いた事の無いバンド名に聞いた事の無いレーベル・・・
クオリティの低さが当然の如きインディーズ界隈の作品に於いて、
最終的な判断基準はやはりジャケから受けるインスピレーションである。
ジャケに記された曲のタイトル、バンド名、そして裏ジャケの写真、
当時としては結構時代錯誤なそのアングラな雰囲気が最終的な決め手と成った。
それが「黒色エレジー」との最初の邂逅だった。

Kokushoku01
手前が一枚目、その上が三枚目、右が二枚目、中央がオムニバス・カセット

黒色エレジーは80年代半ばに活動した岡山出身のバンドである。
後に前身バンドが伝説のハードコア・バンド「肉弾」だと知る事に成るが、
音の雰囲気から言って当時はそこに直結しなかった記憶が有る。
何にしろ、その黒いアルバムから出て来たのは独特のサウンドだった。
音としてはダークなニューウェーブ、ポジパンにも共通する物が有ったが、
とにかく強烈だったのはVoをとる女性、Kyokoの凄まじい存在感だった。
声の演劇性とでも云おうか、老女の様な低い呪術的な唱法から、
童女の如きからりと陽性な狂気を感じさせる唱法までその振幅が凄まじい。
更に驚くのが「夢の成る頃」のサビの部分に於ける、
小唄と云うか謡曲的な抑揚をもって謡われる歌唱部分である。
当時の雑誌のインタビュー等で祖母が謡曲を習っていたそうで、
それを傍らで聞いていて抑揚を覚えた、様な事を語っていた記憶が有るが、
とにかく和風で暗黒的なその音にマッチした歌唱には驚かされた。
黒色エレジーは音楽的に和音階を取り入れたりしている訳では無いが、
その歌い回しと歌詞の世界が強力に和テイストを感じさせるバンドだった。

その後バンドは、故北村大先生率いるTrans Recordsに迎え入れられ、
オムニバス作品に曲を提供した後に、Transから二枚目のアルバムを出す。
(ちなみに黒色エレジーの全作品はタイトルの無い12inchシングルだ)
一枚目の作品に顕著なバンド名から連想されるアングラ臭が後退し、
バンド・アンサンブルを強調したニューウェーブ的な楽曲が増え、
疾走感のあるハードロック的なリフで構成される楽曲も現れたりと、
「洗練された」と言う事も出来るが個人的にやや物足り無さを感じた。
この頃がバンドが一番活発に活動していた頃で、
TransRecordsのイベントなどで大きな会場で演奏したり、
同レーベルの人気の有るバンドとツアーしたりと動員も増えていた。
この頃Transから出た映像作品等で始めてバンドの演奏する姿を観た訳だが、
寡黙な演奏陣を従え、演劇的と云うかシャーマニックな雰囲気を漂わせ、
長髪の長身痩躯を折り曲げながら歌うKyokoのカリスマ性が印象的だった。
その頃ライブ会場には若い女の子が数多く詰め掛けて、
Kyokoに熱い視線を送っていた、と云う様な話も一部で聞いた事が有る。

Kokushoku05

その後TransRecords発売のライブ盤にライブ音源を収録したり、
二本目と成るカセットのオムニバス作品に参加したりしていたが、
何故かTransRecordsを離れConneca Recordと云う所から三枚目の作品を出す。
今作は二曲入りのシングルで一曲目はTransから引き続いた如きサウンドだが、
二曲目ではバリ島の「ケチャ」がサンプリングされているのには驚いた。
例によってそのサウンドにバリ的なテイストが有る訳ではなく、
飽くまでも楽曲のサウンドスケープに貢献しているだけなのだが、
何と言うか、そこまで楽想が拡がったのかと思うと感慨深い物が有る。
バンドが正式に解散したのは何時の事なのかはっきりは解らないが、
作品のリリースはここまででその後緩やかにフェードアウトした様だ。

Kokushoku04

その後時代は進み、旧作のCD化が盛んに成った折に、
黒色エレジーが残した過去の総ての音源をコンパイルした作品が、
TransRecordsの諸作と供にSSEから出た「ESODERIC MANIA」である。
黒色エレジーの作品は殆ど持っているし聴いてもいたのだが、
唯一持っていなかったオムニバス作収録の「邪宗門」がここで漸く聴けた。
その曲が正に自分がこのバンドに惹き付けられた要素ズバリの曲で、
それが追々J.A.シーザー師への偏愛にまで直結して行く訳なのだが、
それはさて置き、やはり個人的には初期のアングラ臭のする世界が好きである。
この作品は解散以降彼らの存在を知った人間には文句無しのCDだが、
出たのが93年と言う事でもう二十年近く前のCDであり入手は容易ではない。
数年前に同じTransRecordsのAsylumの作品が紙ジャケで再発されたが、
是非とも未収録のライブ音源(未発表曲の「青いダリア」とか)等も含め、
印象的なライブの映像も納めたDVD等も付属で作品化を希望したい所だ。
バンド解散以降Kyokoはボアダムスのヨシミが組んだ「OOIOO」に参加したり、
HARPY等で活動しているがやはり原点はここである。
時代に埋もれさすには余りにも惜しいその異形の存在に再評価を!

Kokushoku02


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.03

東京の空き地

Akichi01


「ドラえもん」等の高度成長期の少年漫画にも象徴される様に、
「空き地」と云うのはあの時代を象徴させる一つのアイテムである。
個人的に特別、遊んでいた場所が空き地だったと云う記憶は無いが、
雑草が子供の背丈を隠すほどに茂った空き地を探検に出掛けて、
水分を吸って膨らんだ怪しげなエロマンガを見付けて喜んだり、
破れかけたストリップ劇場の捨て看に淫靡な物を感じたりしていたものだ。

Akichi04
                  荒川・都立尾久の原公園 

バブル以降、空いている土地処か空いていない土地さえも更地にされ、
マンションなどが建ち並び空き地は大概駆逐されてしまった訳だが、
規模が大き過ぎてバブル以降も残る、大きな空き地が都心に幾つか残っていた。
大概は荒川や隅田川の河川地帯に残る巨大な工場の跡地がそれだった。
荒川区の東尾久に有った旭電化工業の尾久工場跡地も長い事空き地で、
周辺のロケーションと相まって非常に寂れた雰囲気を醸し出していたが、
現在は跡地の半分が「都立尾久の原公園」と変わり、
開放的な空き地の雰囲気を残した公園になっていて愉しい。

Akichi02
            西新井・日清紡東京工場跡地 

尾久の原公園は1993年に開園したが、二千年以降も残っていた巨大な空き地に、
西新井駅の駅前に広大に拡がっていた日清紡東京工場跡地が有った。
一応ここは2002年まで操業していたらしいので空き地に成ったのも最近だが、
それ以前も何処と無く空き地臭がぷんぷんとしていた場所だった。
現在は複合商業施設「アリオ西新井」と成って賑わっているが、
古くから残る商店街等と供にそこかしこにかつての雰囲気が残っている。
空き地時代は高いフェンスに囲われて中々全貌を見る事が出来なかったが、
隙間から覗く空き地の空虚感は21世紀に中々得がたい雰囲気が有った。

Akichi03

最後に忘れられない空き地として南千住汐入に有った汐入自然広場を。
現在この場所は再開発によって跡形も無く消え失せてしまったが、
かつての汐入は高度成長期の東京下町がそのまま残っているが如き、
懐かしくも不思議な、奇跡の様な忘れられない場所だった。
汐入の自然広場はかつての大日本紡績工場の跡地だった訳だが、
これが正しく「自然」な「広場」で何も無い広大な空き地で有った。
とにかくその、何も無い事の得難さと自然のままの存在感は素晴らしく、
夏には隅田川の花火を遠くに望み、秋には赤とんぼが群れ飛び、
電線も何も無い大空は凧を飛ばすには持って来いの場所だった。
とにかく汐入に関しては色々と思い入れが尽きないし、
その後の緩慢に続いた無残な街の崩壊過程を考えると何とも言えない物が有るが、
九十年代でもあっても空き地で呆ける楽しさを教えてくれた事は忘れられない。

Akichi05
          早川光の名著「東京迷走大図鑑」より

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »